2021年10月28日木曜日

大垣ーおくのほそ道拾遺⑤

 


 弁護士になりたてのころ、司馬遼太郎の『国盗り物語』や『関ヶ原』などを読んでいた。出張ついでに古戦場などにでかけた。

秀吉が水攻めをしたという備中高松城跡や、光秀を破った天王山などは、かれのスケールの大きさ、果断さが実感でき、実に興味深かった。

名古屋出張のときには、桶狭間、関ヶ原などの古戦場や、犬山城、岐阜城などを訪ねた。

桶狭間などは宅地化してしまっていた。なぜこのようなところで奇襲が成功したのか、分からないと感じた。

関ヶ原は、西軍の石田三成や東軍の徳川家康の陣屋をはじめ、各大名の布陣がわかり、手に汗にぎった。

『関ヶ原』を読むと、石田三成の悩みが書かれていた(と思う。もうだいぶ昔の記憶なので)。東からやってくる家康の大軍を迎え撃つにあたり、どこを決戦場とすべきかという悩みである。

家康は野戦を得意としていた。大垣は石田三成の居城だったので、大垣で籠城戦という選択肢もあった。しかし、関ヶ原の戦いという野戦で雌雄が決せられたのである。なぜ、そうなったのか。読ませどころだ。

しかるに、大垣は未踏だった。未踏のまま、おくのほそ道を書いた。これではいけない。というわけで、金曜は大垣を訪れた。

大垣は濃尾平野の北西部に位置する。揖斐川、水門川をはじめとする多くの河川や湧水が豊富であり、水の都である。交通の要衝でもあり、大垣駅を中心に、東海道線、樽見鉄道、養老鉄道が延びている。

南側、大垣城(跡)を中心に、丸く市街が形成されている。そう大きくはなく、歩いても大垣城まで7,8分、芭蕉関連の名所まで20分ほどの町並みである。

駅前から南にむかうと水路があって、西が望める。建物ごしであるが、伊吹山がそびえている。芭蕉の時代は平屋ばかりだろうから、もっとよく見えただろう。

さらに南にむかうと大垣城がある。天守は廃城令による破却をまぬがれ、旧国宝だったようだが、惜しくも空襲により焼失している。現状は1959年(なんと当職と同年である。)再建の鉄筋コンクリートである。

友人が日本百名城に挑戦している。が、上記事情により、大垣城は選に漏れている。

同城の旧外堀とかで、水門川がぐるりと取り巻いている。駅から南にむかえば必ず水門川にぶつかるので、大垣で道に迷うことはないと思う。

水門川沿いに「四季の道」という遊歩道がつくられている。またの名をミニ奥の細道といい、芭蕉の句碑が順に並んでいる。

終点は「奥の細道むすびの地」となっている。そこへ向けて、芭蕉の句が順に並んでいて、・・・

 よもすがら秋風吹くや裏の山(加賀市)

 物書きて扇引きさくなごりかな(福井)

 月清し遊行の持てる砂の上(敦賀)

 名月や北国日和定めなき(同)

 波の間や小貝にまじる萩の塵(種の浜)

 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋(同)

と、だんだんとむすびの地に近づく趣向になっている。じつに感動的。

途中、八幡神社があり、入ってすぐ右に冬ごもり塚という句碑がある。

 折々に伊吹をみては冬ごもり

市役所のむこう側には竹島会館があり、伊吹塚がある。

 其のままよ月もたのまじ伊吹山

大垣と伊吹山の景とは切っても切り離せないものなのだろう。筑紫地区と天拝山、四王寺山、宝満山の景とが切っても切り離せないもののように。

「奥の細道むすびの地」は、木因の家の跡。やはり北村季吟の門下で、芭蕉とは兄弟弟子の関係にあった。野ざらし紀行の途中でも、芭蕉は木因を訪れている。

木因の紹介により、大垣には芭蕉のお弟子さんが多かった。芭蕉がおくのほそ道のむすびの地を大垣としたのは、そのためである。

本文中にも、露通、曽良、越人、如行、前川子・荊口父子ら、お弟子さんの名がならぶ。芭蕉はお弟子さんに囲まれているときが一番幸せだったのだ。

先のつづきで、むすびの句碑である蛤塚がある。

 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

江戸時代には河川交通もあり、ここには河港があった。川をはさんで向かい側には住吉燈台があり、川には舟が浮かべられている。芭蕉はここから伊勢の二見浦へ、あらたな旅に出立したのである。

拙者も明日から、能郷白山、位山へ旅立たなければならない。                                  

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