いまもまだヘミングウェイを反芻している。読書力・鑑賞力にすぐれているわけではないので、すぐれている人たちの頭を借りる必要がある。
ゼネコンだって、自社だけでビル1棟を建てているわけではない。他社に外注しながら工事を進めているのである。・・参考書を読むいいわけとしては、いささかおおげさか。
なにごともそうだけれども、ある極端から逆の極端へ振れながら前進していく。それまでの時代は、理性や言語の存在が自明のことであり、絶対的に信頼されていた。
ヘミングウェイの時代は、逆サイドにスイングし、理性や言語に懐疑を投げかけた。
フロイトが発見した無意識が最大だろうけれども、ウィリアム・ジェイムズが提唱した意識の流れもすくなからぬ影響を世に与えた。
それまで人間の意識は静的・スタティックなものと考えられていたけれども、動的・ダイナミックなものでありたえず流れているものだという。コロンブスの卵。言われてみれば、あたりまえだ。
これを文学に応用したのが、意識の流れや内的独白の手法だ。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』で使用されている。
ぼくはきのうの出来事について考えていた。あのとき、なぜ、ぼくは彼女に告白できなかったのか・・・。ふつうは、このような書き方だ。地の文と頭のなかの思考の境界ははっきりしている。読みやすい。
スタバでコーヒーを飲む。舌をヤケドした。人間の体はなぜかくも脆弱なのか。心もそうだ。彼女がなんだっていうんだ。あれ、あの娘は彼女かな。ちがった。それにしても似ているな。後ろ姿、特に髪の色がそっくりだ。・・・。意識の流れ・内的独白だと、こんなかんじ。地の文と心のなかのことが説明もなく接続されるので、まことに読みにくい。
修業時代のヘミングウェイを教育した一人はガートルード・スタイン。彼女はラドクリフ出身で(われわれの世代で、ラドクリフというと『ある愛のうた』を思い浮かべてしまう。)、そこでウィリアム・ジェイムズの講義を受けたのだという。ウィリアム・ジェイムズはプラグマティズムの本しか読んだことがなかった。このような人的なつながりを示されると新鮮だ。
さて、理性や言語に懐疑を投げかけたヘミングウェイは、どうしたか。身体性を重視した。身体性を重視すると、頭でいろいろ考えず、いま・ここに意識を集中することになる。
ヘミングウェイの作品は、都会にあるスタバで知的な会話をするのではなく、戦争、釣、闘牛、猟など野性的・非人間的な環境下で身体性があらわになる行動をすることになる。
苦難に直面したとき、人は将来の不安を考えがち。うちに来られる相談者や依頼者も、将来の不安の大きさを自力で抱えかねている。思考があちこち拡散してしまい、うまく苦難に対処できていないことが多い。
こういうときに、どうすればよいのか。
いま考えられることってあるか、と老人は思った。何もない。何も考えずに、次に襲ってくるやつを待つ。それしかない。(『老人と海』)
せっかく釣り上げた獲物の大きなカジキを横取りしようと、サメがつぎつぎと襲って来る。そいつらと闘う場面。将来の不安を考えてもどうしようもない。いま・ここの闘いに集中するしかないのだ。
これは、現在のマインドフルネスの方法論と一致している。禅の方法論もそうだ。吾・唯・足るを・知るというやつだ。
わが高校の校長先生の朝礼のあいさつはおおむね退屈だった。が、いまでも覚えているのは稲の刈り方だ。「稲を刈るときゃ、広い田んぼを見わたしてはいかん、目のまえにある稲束を刈ることに集中することだ。」
将来の不安にうまく対処できない相談者に対し、いつも校長先生のこの言葉を紹介する。皆さん、なんとなくわかったような顔をされる。そうそう、それでいいんです。
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