この週末で、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(高見浩訳、新潮文庫)を読んだ。
大学時代にいちど読んでいるので40年ぶりの再読である。学生のころは『武器よさらば』や『誰がために鐘はなる』はおもしろく感じたが、『日はまた昇る』はいまいちと思った。
再読してとても面白い小説と読んだ。ヘミングウェイは61歳で亡くなっている。彼よりすでに長生きしているから、あたりまえかもしれない。
でも 彼はこれを20代で書いたというのだから、さすがだ。冷徹な人間観察と克明な筆力がすごい。
(以下、ネタバレ)
いわゆるモデル小説で、当時、ヘミングウェイがパリで交友していた仲間たちは、登場人物のひとり一人がAはだれ、Bはだれと分かったそうだ。小説家の友だちはもちたくないものだ。
学生のころは、小説家のイマジネーションがつくりだしたフィクションとして読んだ。しかし35年弁護士をやってみて、人間というのはこういうものだと思う。そういうリアリティを感じた。
第一次世界大戦で心に傷を負った登場人物たち、かれらはパリで交友しているが、みな不全感に悩んでいる(ロスト・ジェネレーション)。
そんななか、スペインへ鱒釣りと闘牛見物にみなで出かける。まずは鱒釣りをしながら、自然と交流し、癒やされていく。
そして闘牛。フィエスタという祭りの熱気が舞台となって、各人の生のあり方をあぶりだしていく。そんななか、かれらとは対照的な生き方が示される。生と死の狭間で凛として生きる闘牛士としての生き様である。
自堕落なかれらであるが、すんでのところで矜持をみせる。ラスト、日が昇った感じはしないが、そのような希望を抱かせるものにはなっている。
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