2021年10月18日月曜日

二つの心臓の大きな川


  ニックは橋の上から淵を見下ろした。暑い日だった。一羽のカワセミが水面をかすめて上流に飛んだ。川を見下ろして鱒を目にするのは、久しぶりだった。どれも文句のつけようのない鱒だ。カワセミの影が水面を走ると、底にいた大きな鱒がゆるやかな角度で上流に飛び出した。その影の動きで、上昇している角度がわかった。ほどなく鱒は水面に踊りあがり、影が消え、陽光に魚身がきらめいた。次の瞬間、鱒がまた水中にもぐると、その影は流れに逆らわずに下流に漂って橋の下の定位置にもどった。そこでその鱒は、身を引き締めて流れに面と向かった。
 鱒が動くにつれて、ニックの心臓も引き締まった。遠い日々の、あのさまざまな感動がよみがえってきた。

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 ラインがぐいと引かれた。張り切ったラインを、ニックは引いた。その日最初のあたりだった。いまや生き物のように動くロッドを流れの上にかざしつつ、左手でラインをたぐりよせる。水中の鱒が激しく身を躍らせるにつれて、ロッドがぐっとしなった。ニックにはわかった。まだ小さな鱒だ。ロッドをまっすぐ宙に立てた。すると鱒の重みで大きくしなった。
 水中の鱒が見えた。流れの中で角度を変えるラインに逆らって、頭と体を激しくよじっている。
 左手でラインを持って引っ張ると、鱒は弱々しく流れに逆らいながら水面に浮かびあがってきた。その背中には小石の上を流れる水のような澄んだ斑紋があり、側面が陽光にきらめいた。ロッドを右の小脇にかかえると、ニックは身をかがめて右手を水中に沈ませた。一瞬たりともじっとしていない鱒を濡れた右手でつかみ、その口から針のかかりを左手ではずして鱒を流れの中にもどした。

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ヘミングウェイの初期短編の代表作『二つの心臓の大きな川』(高見浩訳・新潮文庫)から。研ぎ澄まされた文体で客観描写に徹し、そこからニックの心情をにじみださせる。まるで俳句のよう。

※写真は残念ながら二つの心臓の大きな川の鱒ではない。上高地・梓川のイワナ。どちらもサケの仲間ではあるけれど。

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