2021年10月13日水曜日

酒田ーおくのほそ道拾遺③






 きのうM弁護士が泣きをいれてきた。すまぬ。まさか読者になられているとは知らなかったので。許せ。

わが事務所にはM弁護士がもう一人いる。あの記事のM弁護士はM弁護士のことではなくM弁護士のことだ。弁護士たるもの、それぐらいの言い逃れがなぜできなかったのか。と内心思いつつも、とりあえず侘びを入れるのであった。

 というわけで、世間さまに波風のたちにくいであろう、芭蕉の話題に戻ろう。

一行は鶴岡から舟に乗り、内川をくだり、酒田に着いた。酒田は庄内平野の北、最上川が日本海にそそぐ河口に位置している。

最上川は三代急流の一つであるから、たびたび川筋を変えてきた。そのため、鶴岡での乗船地がどこかは分かるが、酒田での下船地ははっきりしないようだ。

いまは舟運がないので、JR線で酒田へ向かう。車窓、庄内平野の景色が美しい。黄金の稲穂がどこまでもさんざめき、はるか向こうには鳥海山が雲をまとっている。

途中、余目駅で乗り換え。そうなれば、例の広末涼子が立っていたという「おくりびと」のロケ地に行ってみたくなるのが人情だ。目にあまるかもしれないが、大目にみてほしい。

酒田到着。観光ポスターの一押しは山居(さんきょ)倉庫群だ。芭蕉より時代は下る。酒田は庄内平野の米や紅花を上方・江戸に輸送していた積出港である。往時は、これら倉庫に多数の米が貯蔵されていたのであろう。

ウィキを見ると、河村瑞賢が西回り航路を確立して以来の繁栄とある。日本史で習ったなつかしい人物と歴史用語だ。酒田から西に向かい、下関を通って大阪(堂島あたりか)、そこからまた紀州沖を通って江戸まで運んだようだ。

そのような廻船事業で多数の商人がばくだいな利益をだした。なかでも38人の商人が有名。西の堺とおなじく自治を敷いていたようだ。

なかでも日本一の大地主と言われたのが本間家。旧本邸はいまでも残っている。京都の寺院と見まがうほどの立派な屋敷だ。関西人なら「ほんまけ?」と言いたいところだ。

芭蕉はこの地で名句を残している。これだけの大旦那がたに歓待されれば、名句の一つ二つもひねりださないと面目がたたなかったのだろう。

旧本邸からしばらく歩くと不玉宅跡がある。そう言われてもピンとこないであろうから、本文を復習してみよう。

 川舟に乗って酒田の港に下る。淵庵不玉といふ医師の許を宿とす。

  あつみ山や吹浦かけて夕涼み

  暑き日を海に入れたり最上川

そこから北に向かうと日和山がある。あとで検索すると『おくりびと』のロケ地があったようだ。失敗した。芭蕉と関係がなさそうなので日和っただけだ。「さけた」わけではない。

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