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2023年12月14日木曜日

セイレンに誘惑されたい@スタバ

 
京都駅ビルでみかけたスタバのロゴマーク

『ユリシーズ』第2巻目次  

 スタバのロゴマーク。セイレンをデザインしたものと、最近知った。そういわれれば、そうだ。

セイレン。古代ギリシア神話に登場する海の怪物。人魚のような半人半魚の姿。美しい歌声で船人を惑わし、船を座礁させる。救急車などに使われるサイレンの語源である。

英雄オデュッセウスは、トロイア戦争を勝利に導いた。戦後、ギリシアへ帰還する航海の途中、セイレンのいる難所を通過しなければならなかった。

耳栓をすれば難を逃れられるが、人を虜にするという美しい歌も聴いてみたい。知恵者オデュッセウスは、他の船員には耳栓をさせ、自分だけ帆柱に縄でしばりつけさせて、セイレンの歌を聴いた。歌を聴いた結果、「縄を解け!」「セイレンのところへ行かせろ!」と大騒ぎになったことはいうまでもない(『オデュッセイア』)。

20世紀最大の小説といわれる『ユリシーズ』。ユリシーズはオデュッセウスの英語読みである。『オデュッセイア』を下敷きにしているから、11章には「セイレン」の話が出てくる。

舞台はオーモンド・ホテルのバー。ブロンズとゴールドの二人の女給がセイレンに擬され、男たちがその魅力に惑わされる設定である。しかし、そこはジョイスであるから、男衆もそう簡単に挫傷しない。

スタバのロゴは、もちろんセイレンの伝説を踏まえている。珈琲の香りで道行く人たちを誘惑するため、セイレンを採用したらしい。

これまでスタバにこだわりはなかった。が、この話を知った以上、その誘惑に乗って挫傷することが多くなりそうだ。耳栓ならともかく、鼻栓はかっこ悪いし。

2023年5月30日火曜日

『街とその不確かな壁』と『二―ベルングの指輪』と『ユリシーズ』(1)

 

 高校時代の友達がSNSで、村上春樹の新作が面白かったというので、『街とその不確かな壁』(新潮社刊)を読んだ。

これまでの作品とテーマも手法もおなじように感じられた。同工異曲(失礼!アバウトな性格なうえに加齢してしまい、たいがいのものが同工異曲に感じられる。)。だが、ハルキストにとっては、これがたまらないのだ。文章は洗練され、展開はとても滑らかである。

若いころの彼女との関係で受けた心の傷を、現実の世界と無意識の世界を往来しながら癒していく(のだと思う)。河合隼雄の分析心理学による治療を読書により受けるようなものだろうか。

先に村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』のことを書いた。子を失い、妻を失った心の傷をマイ・カーをドライブしてもらいながら癒されていく男の話だった。

同種の傷を抱える読者は、小説を読み進むうち、主人公とともに、おのれの傷も癒されていく。

広大な無意識の世界はフロイトにより発見された。ユングは彼の影響を強く受けつつも、独自の分析心理学を確立した。河合隼雄はその弟子筋にあたる。

ユングやフロイトは意識ではなく、無意識にメスを入れることにより、患者を癒そうとした。ユングの無意識はフロイトよりユニバーサルで、神話の世界などともつながっていく。

フロイトが精神分析を創始したのは19世紀の世紀末。マルクスやダーウィンとともに20世紀の思想に大きな影響を与えたとされる。

20世紀小説の最高峰の一つとされるジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』にも影響を与えている。

『ユリシーズ』は、古代ギリシアの英雄譚『オデュッセイア』をベースにしている。神話的方法と呼ばれ、神話をベースとすることで、現代の空虚と混沌に秩序を与える。

主役のひとりは、英雄とはほど遠い・さえない広告とりのブルームである。その妻はモリ―、その日不貞におよんでしまう。ふたりは長男を幼くして亡くして心に傷を抱えている。二人のほか、血のつながらないスティーブンがいる。彼は、母の臨終の床で祈りを拒否したことで傷を抱えている。

『オデュッセイア』とはちがい、ダブリンにおけるたった1日の出来事である。3人はそれぞれの傷を抱えて1日をスタートする。それがその日を通じて、それぞれの間で人間関係を形成し、互いの心を調整する。そうして心の傷を癒していく。要約すると、どの小説も同じ筋立てになってしまう。

その後半にあたる、15章の「キルケ」。キルケは神話では魔女で、オデッセウスの部下たちをブタにかえてしまう。現代では謎の来歴をもつ娼家の主人である。

夜になって、スティーブンは仲間とともに、ベラの娼家に繰り出す。ブルームも後を追う。彼らは頻繁に幻覚を見る。それは昼間の体験の変奏である。

昼間の現実を変奏した幻覚を見ることにより、心の傷を整理し、癒していく。それはフロイトやユングが提唱した精神分析や分析心理学の手法と異なるところはないと思われる。

2022年2月8日火曜日

第14挿話「太陽神の牛」


 旅の反芻を終え、ジョイス『ユリシーズ』(丸谷才一ら訳・集英社刊)を反芻読書している。

ユリシーズは、オデュッセウスのラテン語名。かれを主役とするオリジナルの古典が『オデュッセイア』。『イリアース』とともに、古代ギリシアの詩人ホメーロスの作とされる。

『イリアース』はトロイア戦争を、『オデュッセイア』は戦後、オデュッセウスが故郷に帰還するまでの苦難を描いたもの。

『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の神話的枠組みを借りている。しかし、オデュッセウスが古代の英雄であったのに対し、主役のレオポルド・ブルームは冴えないユダヤ人で、すけべなおっさんである。そして、かれがダブリンを彷徨う一日(1904年6月16日)だけを描いている。

全18挿話から成る。いちおうストーリーらしきものはあるものの、各挿話のオリジナリティー、実験的手法はすさまじく、18個の短編アンソロジーといっても過言ではない。

ジョイス自身、この小説を解読するのに世界の研究者が寄り集まって何世紀もかかるだろうと予言したとか。すごい自信である。悔しいけれど、たしかに一読や二読では到底意味が分からない。「読書百遍意自ずから通ず」。百遍読めばなんとかなるかもという代物である。

もう一つの最高峰『失われた時を求めて』の日本語訳が4つ,5つあるのに対し、こちらの通訳はいまのところ丸谷・永川・髙松の共訳が1つあるのみ。

そのためもあり、この共訳がまた議論の的になっている。誤訳が多いなどなど。もともとが難解なので、理解できないわれわれとしては、(われわれの頭が悪いのではなく)訳が悪いのではないか、とついつい責任転嫁してしまう。実際、丸谷訳の『誤訳の研究』と称する本も出ている。

なかでも、難解さで知られるのが第14挿話「太陽神の牛」。息子を失ったブルームが息子と同視してしまうスティーブンと産院でめぐりあう一節。こんかいの反芻読書はここからはじめてみた。反芻だけに牛でしょ。

なぜ難解かというと、この挿話が英語文体史をたどる作風模倣で書かかれているから。古代の呪い、ラテン語、古英語韻文、マロリー、欽定訳聖書、バニヤン、デフォー、スターン、ウォルポール、ギボン、ディケンズ、カーライルときて、最後はスラングだらけ。ジョイスの天才が冴え渡る。

これを丸谷は、単に和訳するだけでなく、古代祈祷文、漢文、古事記、万葉集、竹取物語、宇津保物語、源氏物語、平家物語、太平記、義経記、仮名草子、浄瑠璃、滝沢馬琴、森鴎外、夏目漱石、菊池寛、永井荷風、宮沢賢治、俗語に移し替えている。

これにも毀誉褒貶ある。いわく、すごい力業だ。いわく、やりすぎだ。もともと難解で知られるところを源氏物語の文体で書かれたのでは、しろうとにはハードルが高すぎる。ついつい、やりすぎだ派に与したくなる。

これまで2,3度読んだが、この挿話にはまったく歯がたたなかった。誰か分かりやすく解説してくれる人はいないものか。何人もの研究者が読解を試みているが、通訳はない・・・。

そう思っていたところ、小川美彦氏の手になるズバリ『ユリシーズ第14挿話新訳』(五月書房)なる本を入手することができた(写真右)。この挿話だけを訳出したもの。みなが持っている悩みに答えようとしたものだろう。丸谷訳に比べれば、数段平易である。

それでも難解で3度読んで何とか通読し、ぼやっと意味をとることができた。ぱちぱち。その上で、丸谷訳を読むとなんと読めるではないか。ぼんやりとではあるが。やったー。

読み比べて分かったこと。やはり丸谷訳はすぐれている。小川訳は書いてあることは分かるけれど、やはり丸谷訳のほうが文学的なのである(小川さん、ごめんなさい)。

2022年1月24日月曜日

シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々


  『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(J・マーサー著、市川恵里訳・河出書房新社刊)。カナダ人のもと新聞記者(犯罪記事担当)による同書店滞在記である。

シェイクスピア・アンド・カンパニーはこのブログでも2度ほど紹介した。1つはジョイスの『ユリシーズ』のことで。各地で発禁処分となるなか、書店主シルビア・ビーチは勇気をもってこれを出版した。

2つはヘミングウェイの『移動祝祭日』で。ヘミングウェイのパリでの修業時代、やはりいろいろと支援の手を差し伸べた。

書店は、パリはセーヌ川左岸にある。1920年代から1930年代にかけて、ガートルード・スタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジッド、ヴァレリーら名だたる作家や芸術家が出入りした。

『移動祝祭日』のブログ記事のなかで、すこし戸惑ったことがあった。上記書店はオデオン通りにあったとされる。しかしヘミングウェイが歩き回ったパリ左岸を案内した際、ストリートビュー上ではセーヌ河岸からすぐ、ノートルダム大聖堂の南にあったから。

とはいっても近くなので、そのときは、ジュンク堂が建物の建替により仮店舗への移動を余儀なくされているように、なんらかの事情で本書店も移動を余儀なくされたのだろうと考えた。

しかし本書を読むと、じつはそうではないことが分かった。春日に「千太」という店がある。天神にもむかし「千太」という店があった(スポーツセンターのちかくにあり、センターシネマなどとおなじ由来の店だ。)。ま、この両「千太」の関係に似ているとだけ言っておこう。

でもタイトルにあるとおり、新書店においても、シルビア・ビーチ時代をほうふつとさせる「優しき日々」が続いている。欧米人だけでなく、アルゼンチン人や中国人にたいしても、わけへだてなく優しい。やたらと美人が登場するのも魅力だ。いちどお世話になってみたい。それにはまずフランス語会話の習得が必要だろうけど。

2021年10月15日金曜日

目のまえの稲を刈れ


  いまもまだヘミングウェイを反芻している。読書力・鑑賞力にすぐれているわけではないので、すぐれている人たちの頭を借りる必要がある。

ゼネコンだって、自社だけでビル1棟を建てているわけではない。他社に外注しながら工事を進めているのである。・・参考書を読むいいわけとしては、いささかおおげさか。

なにごともそうだけれども、ある極端から逆の極端へ振れながら前進していく。それまでの時代は、理性や言語の存在が自明のことであり、絶対的に信頼されていた。

ヘミングウェイの時代は、逆サイドにスイングし、理性や言語に懐疑を投げかけた。

フロイトが発見した無意識が最大だろうけれども、ウィリアム・ジェイムズが提唱した意識の流れもすくなからぬ影響を世に与えた。

それまで人間の意識は静的・スタティックなものと考えられていたけれども、動的・ダイナミックなものでありたえず流れているものだという。コロンブスの卵。言われてみれば、あたりまえだ。

これを文学に応用したのが、意識の流れや内的独白の手法だ。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』で使用されている。

ぼくはきのうの出来事について考えていた。あのとき、なぜ、ぼくは彼女に告白できなかったのか・・・。ふつうは、このような書き方だ。地の文と頭のなかの思考の境界ははっきりしている。読みやすい。

スタバでコーヒーを飲む。舌をヤケドした。人間の体はなぜかくも脆弱なのか。心もそうだ。彼女がなんだっていうんだ。あれ、あの娘は彼女かな。ちがった。それにしても似ているな。後ろ姿、特に髪の色がそっくりだ。・・・。意識の流れ・内的独白だと、こんなかんじ。地の文と心のなかのことが説明もなく接続されるので、まことに読みにくい。

修業時代のヘミングウェイを教育した一人はガートルード・スタイン。彼女はラドクリフ出身で(われわれの世代で、ラドクリフというと『ある愛のうた』を思い浮かべてしまう。)、そこでウィリアム・ジェイムズの講義を受けたのだという。ウィリアム・ジェイムズはプラグマティズムの本しか読んだことがなかった。このような人的なつながりを示されると新鮮だ。

さて、理性や言語に懐疑を投げかけたヘミングウェイは、どうしたか。身体性を重視した。身体性を重視すると、頭でいろいろ考えず、いま・ここに意識を集中することになる。

ヘミングウェイの作品は、都会にあるスタバで知的な会話をするのではなく、戦争、釣、闘牛、猟など野性的・非人間的な環境下で身体性があらわになる行動をすることになる。

苦難に直面したとき、人は将来の不安を考えがち。うちに来られる相談者や依頼者も、将来の不安の大きさを自力で抱えかねている。思考があちこち拡散してしまい、うまく苦難に対処できていないことが多い。

こういうときに、どうすればよいのか。

 いま考えられることってあるか、と老人は思った。何もない。何も考えずに、次に襲ってくるやつを待つ。それしかない。(『老人と海』)

せっかく釣り上げた獲物の大きなカジキを横取りしようと、サメがつぎつぎと襲って来る。そいつらと闘う場面。将来の不安を考えてもどうしようもない。いま・ここの闘いに集中するしかないのだ。

これは、現在のマインドフルネスの方法論と一致している。禅の方法論もそうだ。吾・唯・足るを・知るというやつだ。

わが高校の校長先生の朝礼のあいさつはおおむね退屈だった。が、いまでも覚えているのは稲の刈り方だ。「稲を刈るときゃ、広い田んぼを見わたしてはいかん、目のまえにある稲束を刈ることに集中することだ。」

将来の不安にうまく対処できない相談者に対し、いつも校長先生のこの言葉を紹介する。皆さん、なんとなくわかったような顔をされる。そうそう、それでいいんです。