露通もこの港まで出で迎ひて、美濃の国へと伴ふ。駒に助けられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合ひ、越人も馬を飛ばせて、如行が家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外親しき人々、日夜訪ひて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、
蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ
旧暦三月二十七日江戸深川を出発した芭蕉は、八月下旬ころ美濃大垣に到着しました。わがブログも新暦3月26日にスタートし、9月1日ここまで到達しました。ようやくエンディングです。ふう。
長旅を終えた芭蕉をたたえ、ねぎらうためお弟子さんたちが集まってきます。この場面は、江戸を出発する際、お弟子さんたちが集まり、長旅を心配し見送る様子と対称をなしています。句もそうです。
行く春や鳥啼き魚の目は涙
かたや行く春の句、かたや行く秋の句。
芭蕉はお弟子さんたちに囲まれてワイワイするのが大好きだったようですが、それにとどまることを自分に許さない。さらなる旅に出かけます。お弟子さんたちとの再度の別れ。別れの最終エピソードです。
行き先は伊勢。思えば、市振あたりからあちこちに伊勢が顔をだしていました。市振の遊女たちが目指していたのは伊勢でした。曽良も先に伊勢をめざしました。源平北国の戦のあとで還亡の話になったのも、朝廷が伊勢神宮に行幸することに決めたからでした。
その平家物語によれば、伊勢神宮とはこういうところです。
大神宮は、高間原より天くだらせ給ひしを、崇神天皇の御宇廿五年三月に、大和国笠縫の里より、伊勢国度会の郡、五十鈴の河上、したつ石根に大宮柱ふとしきたて祝そめたてまつってよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の大小の神祇・冥道のなかには無双也。
伊勢神宮は、白木でできているため、20年ごとに社殿を造り替えて神座を遷します。おくのほそ道の旅を終えた芭蕉が伊勢神宮の式年遷宮に旅立つのは心憎いばかりの構成です。
芭蕉が元禄2年におくのほそ道の旅を行ったのは、この年が西行没後500年にあたっていたからです。ですが、なんと、この年9月10日(内宮)、9月13日(外宮)に神宮の式年遷宮が予定されてもいました。そのため6日にはバタバタと出発することになったわけです。
去来は「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門のはい諧すでに一変す。」と述べています(『俳諧問答』)。蕉風がおくのほそ道の旅をへて革新されたというのです。式年遷宮は、あたらしい句風を打ち立てる蕉風のあり方を象徴しているでしょう。
蛤は伊勢の名物。「その手は桑名の焼き蛤」という言葉があるので、桑名が蛤を名物としていることは確実。桑名は伊勢湾の北部に位置し同じ海に面しているので、伊勢でも蛤を名物としていても不思議はないでしょう。蛤の句は、伊勢に対する挨拶句でもあるわけです。
写真は2014年2月京都にいた三女と二泊三日で奈良・伊勢を旅したときのものです。娘は海鮮がだいすきなので海鮮セットを注文しました。でもホタテやアワビの写真はありましたがハマグリの写真は見つかりませんでした。ハマグリは春の季語だからでしょうか。
ま、でもここでは、たとえハマグリでも、蓋と身に別れればOKです。「ふたみに別れいく」というのは、ハマグリが蓋と身に別れるというのと二見が浦を見にいくのシャレになっていればよいからです。
芭蕉の句であるからには決してダジャレではありません。季語が2つありますが、芭蕉の句であるからにはよいのだと思います。
この句は西行の歌を踏まえてもいます。
今ぞ知る二見の浦の蛤を 貝合とておほふなりけり 西行
ひとときも停滞することを自分に許さず、常に変転のなかに自己革新をめざした芭蕉の姿勢にならい、今後とも新しいことに挑戦し、自己革新を続けていきたいと思います、はい。
長い間この旅におつきあいいただき、激励いただいたみなさま、ありがとうございました。
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