『極楽征夷大将軍』で書いたけれども、足利尊氏と九州との関係について『太平記』の記述を紹介したい(岩波文庫から)。
第十五巻。「宗堅大宮司将軍を入れ奉る事」
さても将軍は、京都数ヶ度の合戦に打ち負けて、2月13日、兵庫を落ち給ひし・・筑前国多々良浜と云ふ湊に付かせ給ひける時は、その勢わずかに500人にも足らざりけり。
※多々良浜は、東区にある。JRだと筥崎駅の次は千早駅だけれども、その途中、多々良川を渡る。いまはアイランドシティで埋め立てられてしまったけれども、むかしはその河口付近が多々良浜だったのだろう。
多々良はたたら製鉄のたたら。もののけ姫に出てきた、あのたたらである。むかしは砂鉄がとれて製鉄が行われていたのだろう。
京都より始めて、処々の合戦に矢種は射尽くしぬ、馬、物具は、ことごとく兵庫を落ちし時乗り捨てぬ。・・
宗堅大宮司がもとより、使者を進せて、「御座の辺りは余りに分内狭くて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入り候ひて、暫くこの間の御窮屈を休めさせ給ひ、国々へ御教書をなされて、御勢を召されるべうや候ふらん」と申したりければ、将軍、やがて宗堅が館に渡り給ふ。
※宗堅大宮司は氏俊。中世、宗像氏は武将だった。後世、宗像大社が世界遺産になるとは夢にも思わなかったことだろう。
翌日、少弐入道妙恵がもとへ使ひを立てられて、憑むべき由を仰せられたりければ、妙恵、「子細に及び候はず。妙恵が命の候はん限りは、御方に於て粉骨の忠を致すべき候ふなり」と申して、即ち嫡子少弐太郎頼尚に、若武者300騎差し添へて、将軍の方へぞ進せける。
※少弐氏はいまの武藤氏。宝満山の先、仏頂山の手前を左に折れると、うさぎ道。その道を竈門神社へ向けてくだると里ちかくに有智(うち)山城跡がある。少弐氏の居城である。兵どもが夢の跡、いまはスギかヒノキ林になっている。
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