2023年9月15日金曜日

足利尊氏と九州(3)少弐と菊池と合戦の事(つづき)

 

 『太平記』第15巻「少弐と菊池と合戦の事」のつづき。

 菊池は、手合はせの合戦に打ち勝って、門出よしと思ひければ、やがてその勢を卒ゐて、少弐入道妙恵が縦籠もりたる内山城へぞ寄せたりける。妙恵は、宗と軍をもしつべき郎等をば、皆子息頼尚に付けて、将軍へ参らせつ。阿瀬籠豊前は水木の渡にて討たれつ。城に残る勢、わづかに2百人にも足らざりければ、菊池が大勢に立て合わせて、合戦しつべき様もなかりけり、されども、城の要害よかりければ、切岸の下に敵を見下ろして、防き戦ふ事数日に及べり。

※少弐入道妙恵は、少弐貞経。後醍醐天皇の倒幕運動に参加して、鎮西探題を攻撃した。尊氏が離反すると、息子の頼尚とともに尊氏に付いた。

※内山城(有智山城)は、太宰府天満宮さらには竈門神社の奥・宝満山の麓に、いま堀と土手だけが残る。スギ・ヒノキの木立と藪におおわれている。「要害」とはいえないように思う。

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 菊池、荒手を替へて、夜昼十方より攻めけれども、城中には、兵未だ討たれる者も少なく、矢種も未だ尽きざりければ、今4,5日が間は、いかに攻むるとも落とされじmのをと思ひける処に、少弐入道が聟に、原田対馬守と云ひける者、俄かに心替はりして、攻めの城に引き上がり、中黒の旗を挙げて、「それがしは、聊か所望の候ふ間、宮方へ参り候ふなり。御同心候ぶべしや」と、舅の入道のもとへ使ひをぞ立てたりける。妙恵、これを聞いて、一言の返事にも及ばず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」と云ひて、持仏堂へ走り入り、腹掻き切って臥しにけり。これを見て、家子郎等162人、堂の大庭に並び居て、同音にゑい声を出だして、一度に腹を切る。その声天に響いて、非想非々想天まで聞こえやすらんとおびただし。

※貞経は多勢に対し奮戦したが、味方の裏切りにあって全員玉砕。原田対馬守は、いまの筑紫野市原田在の武士。聟が舅を裏切る話はむかしからあったようで。娘は身の置き所がなかったろう。

※このあたりで籠城・玉砕といえば、戦国末期の岩屋城の戦いのほうが有名。岩屋城には大友方の高橋紹運ら763人が立てこもり、北上を続ける島津方2万と戦い玉砕した。岩屋城のほうは子孫が柳川立花藩として永続したせいか、いまも四王寺山の一画にきれいに整備されている。

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※生きて義なからんよりは、死して名を残さん。義か死か、むずかしい選択だ。貞経は死を選んで、望みどおり名が残った。

 (引用はやはり岩波文庫『太平記』から)

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