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2022年5月18日水曜日

ラピュタのような大野城跡


  大宰府政庁の背後に四王寺山が鎮座する。お鉢状の山容で、大城山、大原山などからなる。最高峰は大城山で410メートル。太宰府市、大野城市、宇美町にまたがる。

そこに古代の城跡がある。大野城跡。日本百名城の1つ。665年、古代日本が新羅・唐に白村江の戦いで敗れたのち、防衛のため築かれた。いまでも少なからぬ石垣がお鉢のふちに断続的に残る。写真は百間石垣の上部である。

四王寺というくらいだから、四天王が東西南北を守護していた。いまでも、増長天(南)、持国天(東)、広目天(西)跡に礎石等が残り、毘沙門天(多聞天、北)は御堂が建っている。

この城は古代において戦場となることはなかった。が、戦国末期、島津勢の侵攻を受けた高橋紹運が岩屋城で玉砕している。

いまの季節、新緑が石垣を覆っている。美しい。生け花や茶器の美しさと違い、長い長い歴史を背負った美しさだ。

ロボットはいないけれど、天空の城ラピュタを思い浮かべてしまう。各自治体で数体ずつロボットを配置して、ラピュタの聖地にしてしまってはどうだろう(もちろん、スタジオ・ジブリの承諾はとってくだされ。)。

2021年6月23日水曜日

忠義を貫いて名を残した、高橋紹運

(四王寺山、右肩あたりが岩屋城跡)
 (岩屋城跡)
(高橋紹運墓所)

 きょうはもうひとりの武将、高橋紹運の話。武藤資頼・資能父子の墓は四王寺山の麓にあります。そこからすこし北に行くと登山口があり、ひと登りで、高橋紹運の墓につきます。そこからまた5分ほど登ると岩屋城跡があります。

ときは戦国末期の天正14年(1586年)。九州はながらく大友、島津、龍造寺による三つ巴の戦いが繰り広げられていました。しかし、そのころには貿易や鉄砲の影響でしょうか、島津が九州を統一する勢いにありました。

島津にとって不幸なことに、その時期は豊臣秀吉が日本全体を平定しようとしていた時期でした。統一権力の特徴の一つは私闘を許さないということです。忠臣蔵で仇討ちが禁止され、われわれが自力救済を禁止されているのはその現れです。

秀吉は九州の大友宗麟と島津義久に私闘(地域紛争)をやめるよう命令しました。しかし、島津はこれに従わず、6月、総勢2万といわれる軍勢で筑前への侵攻を開始しました。

大友かたでこれを阻止しようとした武将が高橋紹運です。紹運は四王寺山の東南にある岩屋城に陣取りました。島津の2万に対し、紹運のほうは763人、26倍以上の兵力差です。

7月13日戦闘開始、紹運らは頑強に抵抗し、岩屋城が落ちたのは同月27日、半月かかりました。島津かたは城を落とすには落としたけれども甚大な被害を出して撤退を余儀なくされたといいます。以上が岩屋城の戦いです。

島津の陣は天拝山にあり、四王寺山の反対側にある宇美八幡宮周辺も焼き払われたといいます。うちの事務所ではいま鹿児島県人と宇美町民が仲良くしていますが、400年前だったらそうはいかなかったことでしょう。

紹運かたは投降することなく全員玉砕です。紹運はよほど人望があったのでしょう。しかも紹運はもともと高橋の家のものではなく、あとから社長になった雇われ社長のようなものでした。よくぞ部下たちは紹運の命令にしたがったものだと思います。

紹運の子は、立花宗茂。このとき香椎の背後にある立花山城を守っていました。のち、柳川藩を開いています。妻は女武将の誾千代。いま人気で、NHK大河ドラマにしょうという運動があります。詳しくは、御花で(うなぎでも食べながら)。

紹運の辞世。

 屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき

武藤資頼とちがい、紹運は忠義をつらぬいて雲居の空(あるいは、柳の川)に名をとどめたのでした。歌を詠んだ場所が歌枕であれば、岩屋城跡も歌枕でしょう。

岩屋城は四王寺山の一角、岩屋山にあります。四王寺山は、ふるくは大野山と呼ばれ、最高点は大城山です。大野山、大城山は万葉時代からの歌枕です。

 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯の風に霧立ちわたる 山上憶良

 今もかも大城の山にほととぎす 嘆きとよむらむ我なけれども 大伴坂上郎女

どうもむかしは嘆きを喚起する歌枕だったようです。大宰府(に左遷されていること)そのものがそうだったのかもしれませんね。

四王寺山ではいまも、ほととぎすが鳴き渡っています。もちろん大伴坂上郎女はいませんが。いいですよ。