顧問先企業の社員旅行にお誘いを受け、松山観光に同道した。
松山は5回目くらい。だけれども、いままでに行かなかったところも行けて楽しかった。
計画段階では陸路+船旅も考えられていたようだが、時間がかかるということで空路で。松山空港に着陸するや、あたり一面みかん推しである(1枚目の写真)。
貸切バスに乗り込んで、まずは伊佐爾波(いさにわ)神社へ。日本三大八幡社造の一つ。社殿によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。
仲哀天皇や神功皇后を祭神とする神社は北部九州にも多い。香椎宮や筥崎宮がそうだ。なぜだろう?
仲哀天皇と神功皇后の実在性は疑問視されている。しかし、神功皇后の事跡は斉明天皇のそれに似ている。
斉明天皇は、朝鮮半島で勃発した唐・新羅との戦で百済を救援するため九州まで来て、朝倉の地で没した。太宰府の観世音寺は天智天皇が斉明天皇を追悼するため建立したものである。
古事記が編纂されたのは、天智天皇の弟である天武天皇の時代である。国史を編纂するにあたり、昔のことは分からないとするより、斉明天皇の事跡を参考として神功皇后の事跡を創造したということはありうるだろう(というか、そのような説を聞いたことがある。)。
斉明天皇や中大兄皇子(天智天皇)は、いまのように飛行機でいきなり九州に来たのではない。船便である。途中、松山・道後温泉にも立ち寄り、風と潮を待っている。額田王の有名な歌はこのときの作とされている。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
熟田津とはいまの道後温泉あたり。湯が出て、田が熱くなっていたのだろう(と思っていたが、熱ではなく熟だった。熟田とはよく耕してある田の意味らしい。)。
神社の階段から下をのぞめば(2枚目の写真)、市電の道後温泉に停車中にチンチン電車が見える。あのあたりが道後温泉街だろう。
道後温泉本館は残念ながら改修中(3枚目の写真)。覆い屋がかけられていた。覆い屋の右側は石鎚山、左側はシラサギであろう。開湯伝説にシラサギが湯で傷を癒やしたとあるから。
道後温泉は日本三古湯(道後、有馬、白浜)の一つ(4枚目の写真)。万葉集にも詠まれている。二日市温泉も大伴旅人に詠まれているので、同格である。しかし、ちがいは夏目漱石だろうか。
夏目漱石は二日市温泉に新婚旅行に訪れている。しかし残念ながらそこを舞台に小説は書かなかった。松山では書いている。『ぼっちゃん』である(5枚目の写真。坊っちゃんカラクリ時計)。せっかく新婚旅行に来たのだから、短篇の一つでも書いて欲しかったな。
0 件のコメント:
コメントを投稿