2023年8月18日金曜日

『ユリシーズ』と『エデンの東』と『風と共に去りぬ』と『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』と(1)

 

 ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』をなんどめか読み返している。読書百遍の効果もわずかばかり感じられるけれども、あいかわらず難解。

普通の小説との最大の違いは文体。文体が千変万化し、一章ごとに新たな戦い(文体との)が待っている。しかし、内容もやはり難しい。

ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』、その他ギリシアの古典・思想、旧約・新約の聖書、キリスト教の歴史(カトリックとプロテスタント、イギリス国教会)、エジプト・ギリシャ・ローマの歴史、アイルランドの歴史(とくに植民地からの独立運動)・文学、イギリス帝国の歴史・文学,シェークスピアの人生と著作、ユダヤ教、ユダヤ人の歴史など膨大な情報が踏まえられている。

これらに前提知識に精通していいないと、ちゃんと理解できない。そのため、集英社文庫の丸谷才一ら訳には膨大な訳注がふされている。たいへん便である。が、それらをいちいち参照していると意識の流れがそちらへ行ってしまって、本文の流れを見失う。困ったもんだ。

たとえば、第7章「アイオロス」。『ユリシーズ』は1904年6月16日(木)ダブリンにおける平凡な市民ブルームの一日が描かれている。ブルームの仕事は新聞の広告とり。

平凡な一日なのだが、背景には『オデュッセイア』におけるユリシーズの冒険が踏まえられている。アイオロスというのは『オデュッセイア』にでてくる風の神の名だ。

「アイオロス」の舞台は新聞社。そこで3人の主人公のうちブルームとスティーブンが出会いそうで出会わない。スティーブンが来社した際、ブルームは広告とりに出かけてしまう。

その際、アイオロスの生まれ変わりというか、すくなくともアイオロスに擬されている編集長がブルームの背中をおして、こういう。

 -行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。

この点について、丸谷ほかの訳注にはこうある。ミルトンの『失楽園』の結びに「世界は二人の前に広く開けていた」とある。「二人」は楽園を追放されたアダムとイヴ。

この訳注はこれでよいのだろうか。丸谷らの訳には、多方面から批判がある。原典が難解なのだから、やむを得ないのであるが。

「世界はきみの前に開けているぞ。」ときいてぼくが思い浮かべるのは、『エデンの東』のラストシーンだ。『エデンの東』はジョン・スタインベック原作。ジェームス・ディーンが主人公キャルを演じる映画が有名。しかし、ぼくが強い印象を受けたのは米国テレビドラマ版。

キャルは、粗暴な言動から八方塞がりな状況に陥ってしまう。孤独感からそのような言動をしてしまうのだけれども、まわりの理解は得られない。兄は出生の秘密を知ったショックから出征し、父はそのショックで脳出血に倒れてしまう。かくて、すべての道が閉ざされているように感じられた。

そうしたティムに対し父は、言葉も不自由ななか、こう言って背中を押す。

 「ティムショール(ティムシェル)。」

意味は「道は開けている」。旧訳聖書・創世記「カインとアベル」に由来する。

そもそも『エデンの東』は、「カインとアベル」を踏まえている。カインとアベルはアダムとイヴの息子たちで兄弟。それなのにカインはアベルを殺してしまう。人類最初の殺人。

近時、兄弟姉妹の遺産分割協議が激烈化していると感じる。しかし旧約の時代からそうなのだと知るとなんだか慰められる。

弟を殺したカインに対し神が言った一言が先の言葉、「ティムショール」である。

前記「-行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。」の訳注としては、こちらを紹介すべきと思われるのだが、いかがなものであろうか。

(旧約はもちん『失楽園』も、『ユリシーズ』も、『エデンの東』さえも原典で読んではいないので、思わぬ間違いがあるかもしれないが)。

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