『関ヶ原』では、西東にわかれた原因として、岡田くんと役所広司の喧嘩だけでなく、 近江人と尾張人との気質のちがいを挙げていた。
岡田くん演じる石田三成は近江長浜の出身である。あの有名な逸話、秀吉が鷹狩り中ある寺で休憩したとき、寺小姓がでてきて、まずはぬるい茶をたっぷり、つぎにすこし熱い茶を中量、最後に熱い茶を少量だしたという。あれは秀吉が三成を見いだした逸話という。
対する加藤清正らは尾張時代からの秀吉の子飼い。ということは秀吉の正妻である北政所ねねの子飼いでもある。
近江は中心に琵琶湖があり、天空と景色が大きく開けている。開放的な環境は人の成り立ちにも影響を及ぼすであろう。
舟運が発達し、東海道だけでなく、中山道、北陸道らの結集点であり、物流・人流の拠点であった。算法に明るく、三方よしの近江商人を排出した。そのような近江人かたぎを尾張人は計算高いとして苦々しく思っていたのである。
むかし教科書では文治派と武断派の争いなどと説明されていたところである。北政所ねね殿と淀殿茶々(側室、信長の姪、秀頼の母)の女の争いもからんでいたことだろう。
県民性のちがいといえば一番に思い出すのは、ハンセン病訴訟をどこに提起するのかという議論である。
九州は人権侵害の宝庫である。ハンセン病関係でも国立療養所が、熊本、鹿児島鹿屋、奄美大島、沖縄本島、宮古島に。全国13のうち、5つもあった。九州の人口は全人口の1割程度であるから、療養所の割合が異常に多い。患者狩りをはじめ、差別偏見などの人権侵害の激しさも推し量れるというものだ。
九弁連(九州全体の弁護士会の連合体)全体で人権侵害を告発する訴訟を提起することになっていた。その際まずは、熊本に提訴するのか、福岡に提訴するのか激論をかわした。熊本には療養所がある。福岡には九弁連を動かした原告が在住し、情報の発信地としても優れていた。
なかなか結論を得ることができなかった。最後は原告に訊いてみようということになった。その回答は福岡だった。それじゃ、福岡に・・・とはならなかった。
熊本の弁護士たちが弁護団を割って自分たちは熊本に提訴すると言い出したからだ。いままでの議論は何だったのか?
肥後もっこすという。頑固で譲らない。日本三大頑固の1つだそうである。以来、熊本県人との会話は苦手である。石田三成にも、加藤清正らにたいし同じような苦手意識があったのかもしれない。
芭蕉にもそういうところがあった。蕉風が進化し、晩年は「かるみ」の境地に達した。名古屋の門人たちはついてこれず、近江の門人たちはついてこれたという。自然、晩年は近江人と過ごすことが多くなった。
行く春を近江の人と惜しみける
きのうの相談者は近江出身者だった。やはりどこかさっぱりしていた。気のせいかもしれないが。
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