2021年5月31日月曜日

草枕?

 

朝から仕事で色々と調べ物をしていると、とある論稿を見つけました。

釣田竜也『「荒廃地の復旧治山,緑化工が環境に及ぼす影響」に関する現地研究会に参加して』(ja (jst.go.jp)


何気なく冒頭から読み始めると、


「最近土壌断面調査の度にこう考える。地に働けば腰にくる。土壌に刃をさせばすぐ傷む。石が多いと窮屈だ。とかくに不攪乱土壌は採りにくい。」


森林立地学会誌に掲載する論稿の、冒頭にこれを持ってくるセンス。夕方で疲れていましたが、思わずにやっとしてしまい、元気が出ました。


富永


P.S.

「書面を書きながら、こう考えた。土日働けば疲れくる。条文読まねば間違える。ドジをやらかすと窮屈だ。とかくに弁護士は生きにくい。」


源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(2)

 

 源義経主従と奥州藤原氏なのですが、源義経、弁慶、佐藤兄弟、藤原清衡、藤原忠衡(和泉三郎)及び十郎権頭兼房らが登場人物になります。

主役の義経はご存知でしょう。平治の乱で敗れた源義朝の九男(九郎判官と呼ばれます。)、本来なら切られてしまうところ助命されて、鞍馬寺に預けられました。

一の谷の戦いをはじめ、身ごなしが軽く軍事的天才だったことから、鞍馬の天狗に武術を習ったとされています(鞍馬天狗もさぞや鼻が高かったことでしょう。)。

弁慶が配下になったのは、京の五条の橋の上。唱歌・牛若丸にあるとおり。

♪京の五条の橋の上
 大のおとこの弁慶は
 長い薙刀ふりあげて
 牛若めがけて切りかかる・・・

太宰府にも五条小橋がありますが、薙刀をふりあげるには狭いようです。

義経は長じて奥州に下り、奥州藤原氏三代目・清衡の庇護を受けました。そして関東で兄・頼朝が旗揚げするやはせ参じ、以後、頼朝軍の先頭にたって戦闘を戦いました。

一の谷、屋島、壇之浦の戦いで連戦連勝、平家を滅ぼします。下の写真は、関門海峡・壇之浦での八艘飛びの様子。

戦勝の最大の功労者だったものの、戦後、頼朝の了解を受けずに官位を受けるなど政治音痴だったために頼朝に追われることに。ロレンスの末路とおなじです。

義経主従が落ち延びる様子は、能や歌舞伎の題材に好んで取り上げられています。義経千本桜、船弁慶、安宅など。

なぜでしょう。新田次郎の小説でも、武田信玄の上昇話より武田勝頼の没落話のほうが人間ドラマとして面白いんです。

義経がふたたび頼ってきたことから、奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされる運命の渦に巻き込まれてしまいます。こうして義経主従、奥州藤原氏の悲劇の幕が切って降ろされます。

頼朝にとって義経はほんとうに利用しがいのある駒になりました。平家打倒の際には最大の貢献をしてくれましたし、打倒後は武家政権を確立する口実を与えてくれたうえ、金や馬など莫大な財産をもっていた奥州を手に入れる口実まで与えてくれたのですから。

当時から、庶民はこれはひどい、あんまりじゃないかと思ったわけです。そして義経はつよい恨みを残して死んだにちがいないと思いました。頼朝や武家のまわりでなにか事故があると、義経の怨恨にちがいないと・・・。こうして誰かが義経らの鎮魂をすることが必要になるんですねぇ。

2021年5月28日金曜日

源義経主従と奥州藤原氏の鎮魂(1)

 

 ちくし句会では、トミーが苦吟しているようです。でも心配ありません。芭蕉だってそう簡単に作句していたわけではないのです。おくのほそ道の旅の第1の目的は、なんといっても俳句の詠み方(蕉風)の革新でしょう。

しかし、そのほかの目的も言われています。公儀隠密として仙台藩の実情を探るなどという説もあります(あとで触れます。)。源義経と主従、それと義経に助太刀して滅びた奥州藤原氏の鎮魂が目的だったという考えもあります。

旅の前半の目的には、やはり義経らの鎮魂も含まれていたのではないでしょうか。旅のクライマックスが平泉であるほか、そこに至るまでにあちこち伏線がはられているからです。屋島の戦いについては、黒羽のところですでに触れました。

 ところでぼくが好きな映画を2つあげるとしたら、デビット・リーン監督作品の『アラビアのロレンス』と『ドクトル・ジバゴ』です。どちらも大きな時代の流れに翻弄されながらも奮闘する主人公たちの生きざまに魅了されます。

義経主従の悲劇との関係では、なかでも『アラビアのロレンス』を思い浮かべてしまいます。実在のイギリス軍将校、ロレンスの栄光と挫折を描いた映画です。

オスマン帝国が衰退するなか、その旧領だったバルカン半島の支配をめぐってドイツとロシアの利害が対立。それが引きがねとなって、同盟国側と協商国側の2大陣営に分かれ、第一次世界大戦となりました。

ロレンスの母国イギリスは協商国側であったところ、オスマントルコが同盟国側で参戦したことから、両国は敵対することになります。

他方、アラビア半島のアラブ人たちはオスマン帝国に支配されていたことから、その独立を求めてオスマン帝国と戦います。

敵の敵は味方というわけで、イギリスはアラブを軍事的に支援します。ただし、英仏は戦後におけるアラビア支配を目論んでいるので、その支援は限定的(お主も悪ようのう~)。

そうしたなか、ロレンスはそれまでバラバラで弱体だったアラブ軍をまとめ、彼らを引き連れて少人数で戦略拠点アカバを奇襲して攻略。以後次々と軍事的成功をおさめ、アラブの英雄に。ついには、英軍に先んじて、首都ダマスカスを攻め落としてしまいます。

そうした人間ドラマが砂漠の自然を背景に、美しい映像、壮大なスケールで描かれていて感動的です。

ところが、そのころには戦後処理をめぐり英仏とアラブ側の政治的駆引きがはじまっています。イギリス人でありながらアラブの英雄であるロレンスの存在は、どちらの陣営からも邪魔になってしまいます。そこでひとり故国に返されることに・・・。

軍事的天才でありながら政治音痴なため、戦中は英雄にまつりあげられながら戦後は邪魔者として排除されていく。栄光と挫折、明と暗の物語である点がロレンスと義経に共通しています。

 「判官びいき」という言葉があります。庶民はむかしから、冷徹な政治家・頼朝よりやんちゃな義経のほうを「贔屓(ひいき)」にしてきたんですねぇ。芭蕉もその一人でした。

2021年5月27日木曜日

第6回ちくし句会を開催しました。

 

本日、第6回ちくし句会を開催しました。

兼題は「紫陽花」と「蛍」。

20句(4名×5句)の中から、優秀句を2句(同票)、三席を2句(同票)を選出しました。


今回は、M先生が初参加でした!

私は、句をつくっておらず、オブザーバー参加しました。


優秀句等は事務所に掲示していますので、来所された際は、ぜひご覧ください。


富永

はなれて奏でる(5)


  「おくのほそ道」の有名な冒頭

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

よく言われるように、李白の詩「春夜 従弟の桃花園に宴するの序」を下敷きにしています。  

 夫れ

 天地は 万物の逆旅なり

 光陰は 百代の過客なり

ここから芭蕉が旅へ誘うのに対し、李白はやっぱり宴に誘います。嗜好の違いですからやむを得ません。

 「おくのほそ道」の末の松山の段。

 末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの木も、つひにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。

 これは白居易の「長恨歌」から

 天に在りては願わくは比翼の鳥となり

 地に在りては願わくは連理の枝とならん

玄宗と楊貴妃がモデルで、永遠の愛を誓う言葉。比翼連理という四字熟語になっています。ただし、いまの若い人に言っても、怪訝な顔をされるでしょう。

 これもまた有名な平泉の段。

 さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 これは杜甫の「春望」から。

 国破れて山河在り

 城春にして草木深し

 時に感じては花にも涙を濺ぎ・・・

 むすびは、松島とならぶ絶景といわれた象潟の段。

 俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

西施は中国絶世の美女の名。李白が好んで詩の題材としました。

 ここでは再度、先に紹介した白居易の「長恨歌」から。

 太液の芙蓉 未央の栁

 芙蓉の面の如く 栁は眉の如し

 此に対して如何ぞ涙の垂れざらん

 また蘇軾の「湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる」から。

  山色空濛として 雨も亦奇なり

  西湖を把って西子に比せんと欲すれば

  淡粧濃抹総べて相宜し

 芭蕉の頭のなかでは、時空をへだてた李白や杜甫とも詩のハーモニーが奏でられていたことでしょう。が、漢詩の素養に乏しいわれわれの頭のなかで、芭蕉ほどにはハーモニーを奏でていないのではないかと心配です。

2021年5月26日水曜日

はなれて奏でる(4)


 はなれて奏でる。こんかいは時空とも大きくはなれた中国古代の大詩人たちと奏でる。-出会うことのない二人の出逢い。運命の歯車が、いま動き出す(『君の名は。』)。みたいな。

 写真は、寺社建築を手がける知人の社長さんがSNSに投稿していたもの。茶室の写真を見るだけでも、背筋が伸び心が澄む感じがします。掛け軸になんと書いてあるか読めますか。

 「行きては水の窮まる處」

 「座しては看る雲の起きる時」

盛唐の詩人、王維の「終南の別業」の一部です。

 中歳 頗る道を好み

 晩に南山の陲に家す

 興来たれば毎に独り往き

 勝事空しく自ら知る

 行きては水の窮まる處

 座しては看る雲の起きる時・・・

50歳くらいから山歩きを再開し、山にハマった自身の心境にこれほどピッタリな詩はありません。

 さてつぎは絵本。読んだことありますか。シュルヴィッツの『よあけ』。

夜明け前の閑かな湖のほとり
月が湖を照らし山々は漆黒
そこにいま朝が訪れる・・・

これも唐代の詩人・柳宗元の詩「漁翁」から。

 学生時代にマーラーの交響曲をよく聴きました。長大な曲が多いなか、第1番「巨人」、第4番のつぎに聴きやすいのが9番目の交響曲「大地の歌」。

 Dunkel ist das Leben, ist der Tod!(生は暗く、死もまた暗い!)

歌曲のような交響曲で、ベートヴェンの第9のように歌がついています。これも原詩は漢詩であると知っていましたか。ぼくは最近知りました。

第6楽章まであり、李白の「悲歌行」、銭起の「效古秋長」、李白の「宴陶家亭子」、同「採蓮曲」、同「春日酔起言志」、孟浩然「宿業師山房待丁大不至」・王維「送別」を原詩としているそうです。

時空を超えてマーラーにたどりつくまでに、複数の詩人がアレンジを加えています。そのため対応関係がはっきりしないものもあり、原詩としているというのはそういう意味です。

 きょう最後に紹介する漢詩は、張継の「楓橋夜泊」。わが事務所から歩いて3分、西鉄通りにある中華料理屋・大京園の壁に拓本がかかっています。

 月落ち鳥啼いて 霜天に満つ

 江楓漁火 愁眠に対す

 姑蘇城外 寒山寺

 夜半の鐘声 客船に到る

さすが西鉄通り、中華料理屋にも文化の香りが。そうと知れば、なにげない定食の味にもハーモニーが生まれます。

 「分かる」とは、Aと非Aを分けること。しかし、さいきんは、まったく無関係だと思っていたAとZがつながったときも「分かった!」と思うことが増えました。

あれれ。きょうは芭蕉まで話がたどりつけず。ではまた。

2021年5月25日火曜日

はなれて奏でる(3)


 はなれて奏でるといって、まっさきに思い浮かぶのは、『伊勢物語』東下り、隅田川の渡し(9段の3)。隅田川の都鳥(ユリカモメ)を見て、都を思いやります。

なお行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゑて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、・・みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。

さるをりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。

おくのほそ道でも、江戸から旅先を、また旅先から江戸を思いやる場面がいくつかでてきます。

まず冒頭、旅をあこがれ。

春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず・・・

千住までの見送り。

むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ。

 行く春や鳥啼き魚の目は涙

これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。

草加の宿での物思い。

痩骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。

そして武隈の松を見て。

 武隈の松見せ申せ遅桜

と、挙白といふ者の餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月越し

挙白は芭蕉のお弟子さんで陸奥出身ではないかといわれています。その人が餞別に送った句。みちのくの遅桜よ、うちの師匠に武隈の松の姿をお目にかけなさい。それに対し、芭蕉は現地で返しの句を詠む。はなれて奏でる師弟愛。

また松島の夜。

予は口を閉ぢて眠らんとしていねらず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

おくのほそ道の旅は、芭蕉の孤高の精神から発したものだったでしょうが、芭蕉を慕うお弟子さんたちとの暖かい心の交流という支えがあってこそという一面もあったようです。

2021年5月24日月曜日

はなれて奏でる(2)

 


山浦善樹先生の『お気の毒な弁護士』は、ほんとうに素晴らしい本です。先生のお考えがちくし法律事務所のポリシーと一致していることに驚きました。

このようなポリシーは地域事務所でこそ実践できると信じてきたのですが、東京でもそれができることに畏敬の念を覚えました。とともに励みになりました。東京と二日市、はなれていても同じハーモニーを奏でることができます。

さておくのほそ道のほうですが、他にも、はなれて奏でていると思う句をさがしてみました。

まず、卯の花。

 卯の花をかざしに関の晴れ着かな

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな

ほととぎす。

 野を横に馬引き向けよほととぎす

 松島や鶴に身を借れほととぎす

生き物の声。

 這い出でよ飼屋が下の蟾の声

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

かわいい花の名。

 かさねとは八重撫子の名なるべし

 しをらしき名や小松吹く萩薄

よそおい。

 卯の花をかざしに関の晴れ着かな

 蚕飼ひする人は古代の姿かな

化粧・美人。

 眉掃きを俤にして紅の花

 象潟や雨に西施がねぶの花

閑かさ・涼しさ・寂しさ。

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 涼しさやほの三日月の羽黒山

 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

他より優れたる。

 寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

 石山の石より白し秋の風

秋の風。

 塚も動けわが泣く声は秋の風

 あかあかと日はつれなくも秋の風

 石山の石より白し秋の風

感嘆!

 あらたふと青葉若葉の日の光

 ありがたや雪をかをらす南谷

最上川。

 五月雨をあつめて早し最上川

 暑き日を海に入れたり最上川

むすびは不易流行。

 木啄も庵は破らず夏木立

 五月雨の降り残してや光堂

2021年5月23日日曜日

基本書ばい!


「『家栽の人』は読んだことある?」

ある日のこと、S先生から聞かれました。

読んだことないです、と答えると、

「あんた、これは基本書ばい!」

とお叱りを受け、翌日、『家栽の人』漫画全15巻をお借りしました。


またある日のこと。

「富永さん、正木ひろしは知ってる?」

とI先生から聞かれました。

知らないです、と答えると、

「今読んでる著作集が面白いからぜひ読んで」

と勧められ、数日後、『正木ひろし著作集Ⅱ』(なぜⅡ?)をお借りしました。


またある日のこと。

朝事務所に来ると、山浦善樹先生の『お気の毒な弁護士』が私の机に置かれていました。

なんだろう、と思っていると、事務所のメーリングリストに、S先生から、

「『お気の毒な弁護士』を読みました。若い期から回します。」

とのこと。

「読んでみます!」

と、返事だけは威勢良く返しました。


その他、読みたいと思うとすぐアマゾンする悪い癖もあり、事務所やら、自宅やらに「あれ、この本、いつ買ったっけ?」と思われる本が多数、鎮座している状況です。

あれこれ並行して読み過ぎて、今何をどこまで読んでいたかよく分かりません笑。


とりあえず、上の3つは5月中に読んでお返ししますね。

勧められてばかりなので、私も最近読んだ本からおすすめを一冊。


ちゃんへん『ぼくは挑戦人』


富永


2021年5月22日土曜日

はなれて奏でる(1)

(川合玉堂「早乙女」山種美術館@講談社・日本大歳時記)

現在、福岡でもコロナ禍の緊急安全宣言第3回目の状況下にあります。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

去年、第1回目の宣言で息苦しい状況下にあったとき、NHKーBSで「はなれてひとつに奏でる~奇跡の〝パプリカ”誕生秘話~」という番組が放送されました。ご覧になったでしょうか。

コロナ禍で、新日本フィルハーモニー交響楽団は、コンサート活動がすべて中止になり、危機的状況に陥りました。そうしたなか、有志がオンラインを利用してパプリカの演奏を行いました。これをYouTubeにアップしたところ再生回数200万回。その誕生秘話を伝える番組でした。

はなれてひとつに奏でる。むずかしいですが、心をあわせることができればできる。奇跡だって起こせる。とても感動しました。

というわけで、きょうは「はなれて奏でる」というお題で。信夫の里・しのぶもぢ摺りの石の〆の句はこれ。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

この句にあう写真を探しましたが、ありません。いまどきは田植機がやってくれますので、神事でもないかぎり、早乙女さんが早苗をとる場面など出会うことはありません。

やむなく、川合先生の「早乙女」のお世話になりました。あれ?どこかで見ましたね。そうです。須賀川(2)句会での交流につづき2回目です。そこでの句は

 風流の初めや奥の田植ゑ歌

でした。なにか気づきませんか。2つの句を並べてみましょう。

 風流の初めや奥の田植ゑ歌

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

はなれたところに置かれていた2句ですが、ハーモニーを奏でていると思いませんか。

おくのほそ道では、地の文と句が緊密にハーモニーを奏でていることはいうまでもありません。さらに、はなれたとこに置かれた句どうしも、ハーモニーを奏でているようです。推敲に推敲を重ねた芭蕉ですから、その点にも当然気をくばったものと思います。

そういえば、旅立ちの千住のところにあった立春の句と旅の終着地の大垣におかれた立秋の句も対になっていました。つぎの2句です。

 行く春や鳥啼き魚の目は涙

 蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ

この2句が「おくのほそ道」の初めと結びにあって、ハーモニーを奏でていることは明らかだと思います。

2021年5月21日金曜日

吾妻山・登山記

 


信夫の里から、芭蕉一行は北へむかい、月の輪の渡しで阿武隈川を越えて、瀬の上方面へ向かわれました。われわれは、一度福島駅へ戻り、そこから福島・山形県境に連なる吾妻山に登りましょう。

おくのほそ道の旅なのに、途中で山登りが多いなぁとお思いのみなさん、話は逆です。実際は、日本百名山を踏破するついでに、おくのほそ道の足跡を尋ねたのですから。

吾妻山は福島駅から西方にのぞむことのできる百名山、山形まで複数の山が連なる連峰。西吾妻山が最高峰で、2035メートル。火山、峰、沼、湿地といろいろな顔が楽しめるのが魅力です。

10年以上まえに1度だけ登っています。その後、夏に1度、冬に1度計画しましたが、前者は火山情報のため、後者は悪天のため中止になりました。

駅から車を利用して1時間で登山口の浄土平に着きます。名前からして火山ぽい。そこから一切経山に登り、魔女の瞳と呼ばれるコバルトブルーの五色沼を望んで、縦走となります。

家形山のあたりは笹がはえ藪漕ぎ、烏帽子山、昭元山、東大嶺といくと湿原となります。全行程のコースタイムは10時間40分なので、山と渓谷社のガイドブックはその先にある弥衛平小屋で一泊することを奨めています。

でも当時は元気だったのでしょうね、西吾妻山まで全行程を1日で踏破しました。最高峰は西吾妻山なのですが、樹林となっていて展望はききません。登った回数が少ないのはそのせいですかね。ただ最近は冬期のスノーモンスターの美しさが人気で、わたくしも一度見てみたいと思っています。

西吾妻山頂から少し戻って、下りはリフト、ロープウェイを利用して天元台、白布温泉に着きます。そこから車で30分で米沢です。米沢はNHK大河ドラマ『天地人』で、妻夫木くんが北村一輝とともに転封を余儀なくされたところです。経営者には、上杉鷹山も人気があります。

米沢からは新幹線で北上すれば、まもなく山形です。山形から東へ向かえば蔵王、仙山線で仙台方面に向かえばほどなく山寺(立石寺)に着きます。蝉の声が岩にしみ入る、あの寺です。でもあまり先回りすると師匠に叱られますから、福島に戻りましょう。

福島まで新幹線で30分ほどです。左手は蔵王連峰、右手は吾妻連邦という樹林の谷を通って、山形県から福島県に戻ることになります。

2021年5月20日木曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(6)

 

さいきん同行トミーの姿が見えぬなぁと心配して、信夫の里で長居をしておりましたら、昨夜の弁護士会議でそろそろ書きますと反省の弁を述べておりました。もうまもなく追いつくことでしょう。乞うご期待!

さて、なんでしったっけ?そうそう、源氏が若紫を垣間見て、惚れてしまうやろ~と言ったところでしたね。「ちら見」で惚れてしまうのは、日本人の美意識とも関係しているかもしれません。「秘すれば花なり」といいますから(世阿弥「風姿花伝」)。

断っておきますが、のぞきは現代では犯罪となりえます。正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者は、拘留又は科料に処せられます(軽犯罪法1条23号)。

ですが、美少女の若紫は源氏に垣間見られてマイ・フェア・レディになりました。のぞくは恥だが役に立つというわけです。

脱線がながくなったので、そろそろ出発しましょう。最後に、むかし男に関するクイズを2つ。1つ、むかし男は信夫の里に行ったことがあるのか。2つ、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。

まず、むかし男が信夫の里に行ったことがあるのか。『伊勢物語』に、信夫の里に行ったとの記述はないのですが、すぐ西にある「しのぶ山」に行ったことがあるとの記述はあります(15段)。なので、おそらく行ったことがあると思われます。いわく。

むかし、陸奥にて、なでふことなき人の妻に通ひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、
 しのぶ山忍びて通ふ道もがな 人の心の奥も見るべく
かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見ては、いかがはせむ

つぎに、むかし男は太宰府に来たことがあるのか。この点は筑紫に行ったと『伊勢物語』に明記されています(61段)。「東へ西へ」、色男・好き者は忙しい。いわく。

むかし、男、筑紫まで行きたりけるに、「これは、色好むといふ好き者」と、簾のうちなる人の言ひけるを聞きて、
 染河を渡らむ人のいかでかは 色になるてふことのなからむ
女、返し、
 名にし負はばあだにぞあるべきたはれ島 浪の濡れ衣着るといふなり

天満宮参道甘木屋角を南に下ると光明禅寺があります。寺に入らず、国博通りをそのまま西に50mほど行くと、左手に藍染川が流れていて、これが『伊勢物語』にいう染河だそうです。

藍染川の端には、玉垣に囲まれて梅壺侍従蘇生の碑があります。ここは謡曲「藍染川」の舞台で、その筋はこうです。

京都の女性・梅壺は天満宮の神官・中務頼澄を慕って筑紫に下ってきました。しかし彼女は彼に会えず、悲しみから藍染川に身を投げました。頼澄はそれを知り天神様に祈ったところ、彼女は生き返りました・・とさ。もとい、げな。

2021年5月19日水曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(5)

 


河原左大臣と虎女の話を読んで、どこかで聞いたことがあると思いませんでしたか。浅香山のところで紹介した葛城王と采女の話に似ていますね。変奏されたのかもしれません。

河原左大臣の歌はさらに変奏されています。『伊勢物語』の初段です。芭蕉の頭のなかの歌枕の理想郷には、当然この話も燦然と輝いていたと思います。いわく。

 むかし、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みにけり。この男、かいま見てけり。思ほえず、古里に、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ、着たりける。
 春日野の若紫の摺衣 しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、おいづきて言ひやりける。

『伊勢物語』の主人公である「むかし男」のモデルは、いろいろなエピソードが共通であることから在原業平とされています。かれが成人して狩りに行き、初恋をしてしまったときに来ていた着物が信夫摺だったというのです。

とはいえ、在原業平の生まれが822年、源融のそれが825年ですから、むかし男のほうが3歳年長です。これだけだと、どちらの話が先行しているか分かりません。しかし、『伊勢物語』のつづきにこうあります。

・・ついでおもしろきことともや思ひけむ、
 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。

河原左大臣の歌の趣向を踏まえての行動だというのです。『伊勢物語』の初段が河原左大臣の歌の変奏であることは明らかです。

さらにこの初段、どこかで読んだことありませんか。あさきゆめに見たような・・。そう『源氏物語』ですね。

まず『帚木』の段冒。

・・大殿には絶え絶えまかで給ふ。忍ぶの乱れやと、疑ひ聞ゆることもありし・・

大殿は源氏の義父である左大臣家。源氏は娘のもとには新婚早々ときどきしかやってこない、これはどこかで忍ぶの乱れの恋におぼれているのではないか、と疑われててしまう。左大臣の頭のなかでは、『伊勢物語』の初段、さらには源融の歌が思い浮かべられています。

つぎに『若紫』。当時の感染症に罹患した源氏は治療のため北山を訪れます。その地で、かれは大好きな藤壺そっくりな美少女を垣間見てしまいます。

夜目・遠目・傘の内、いまならマスクの内。男性は「ちら見」に弱い生き物です。そのようにプログラミングされているのですねぇ。

垣間見は、垣根の間から屋敷のなかを見る行為。これも「ちら見」の一種。むかし男・在原業平も、源氏もこれで恋に落ちたんですねぇ。

これにとどまらず、『源氏物語』による『伊勢物語』の変奏は随所に見ることができます。紫式部も幼いころから『伊勢物語』を愛読したんでしょうね。みなさんが『あさきゆめみし』を愛読されたように。

2021年5月18日火曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(4)

 


さて前提となる知識の解説がようやく終わったので、おくのほそ道の本文に戻ります。

「信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば埋もれてあり。」

あこがれの石はなんとも無残な状態にありました。歌枕のシンボルである、しのぶもぢ摺りの石はなぜ、なかば地中に埋もれていたのでしょうか。その答えは里の子どもが教えてくれました。

「里のわらべの来たりて教へける、『昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり』という。」

虎女伝説を知った男女が遠くの愛する人に会いたいあまり、麦をちぎって畑を荒らして、石に麦を擦りつけるもんだから、畑の主が怒って石を谷に突き落としたというのです。その結果、芭蕉が訪れたときには、石は面を下にして半分埋もれてしまっていました。

それまで芭蕉の頭のなかでは、河原左大臣の歌、虎女伝説が理想的に輝いていました。ところが、現実ではこのざま。この理想と現実の落差に、芭蕉のガッカリは相当のものでした。ここは歌枕における3大ガッカリの1つと言っていいでしょう。

後の「壺の碑」の段で、このような事態をつぎのように述べています。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」

歌枕について芭蕉が抱いていた理想が「流行」のなかで、つぎつぎと打ち砕かれていったわけです。ああ~時の流れのなかで~。そうした「流行」の厳しさにぶちあたればあたるほど、芭蕉はなんとかして芸術における、人生における「不易」を救い出さなければならないと考えたと思います。

芭蕉は現地でそうとうガッカリしたにもかかわらず、本文では「さもあるべきことにや。」とおだやかな感想になっています。なぜしょう。

おくのほそ道の本文はなんども推敲されています。現地では「遠路はるばるここまで来たのに、木戸銭返せ~」と怒り心頭にたっしました。が、不易流行の考えが深まるにつれ、怒りもおさまり、ま、流行とはそういうことじゃろねという感想になったわけです。

われわれも現地でこの石を見て、感動の嵐というわけにはまいりません。わたくしの写真の腕が悪いわけではなく、しのぶもぢ摺り石だけを見て感動するのは至難のわざといわざるをえないのです。

じゃ、どうすればよいのか。それはこのブログをよく読んで、「そうかそうか、さすが芭蕉!」と理解したうえで、現地を訪れてくだされ(宣言明けに)。

2021年5月17日月曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(3)

(窓開けて田園を聞かねば)

みちのくのしのぶもぢずりの模様のように忍び心が乱れはじめたのは誰のせい?(私のせいではないよね)

河原左大臣がこう詠みかけた相手はだれでしょう?その答えのひとつとして虎女伝説があります。

みちのくに赴任した際、融は虎女さんという美人とふかい仲になりました。それなのに任期を終えた融はひとり都へ帰ってしまいます。

虎女は融が忘れられません。ある時、かの女がもぢ摺り石に麦をこすりつけると、あら不思議、石が鏡のようになって、融の面影が浮かび上がりました。とさ。(あれ?石に擦りつけるのは忍草じゃなかったっけ?ま、いいか)

この話をきいた若い男女は、誰もかれも、畑から麦をとってきてこの石に摺りつけ、遠くにいる恋人を偲びました。とさ(九州弁だと「げな」となります。げなげな話)。

福岡にも似たような名所があります。宝満山のキャンプセンターから女道をすこし下がったところです。サイカチの木が生えています(竈門神社境内にも生えています)。

この木に向かい、愛する人との再会を願うと、あら不思議、願いはかなえられるのだそうです。なぜなら、サイカチの木→再会の木だから。・・・けっして、駄洒落ではありません。はい。

いまならラインで、京都だろうとイタリアだろうと、動画つきで会話ができます。いわばスマホの「しのぶもぢ摺り石」機能、あるいは「サイカチの木」機能です。

ですが、虎女さんといまの若い男女のどちらが幸せなのでしょう。その判定がむずかしいところが人間の愛、人間の幸せの一筋縄でいかないところでしょうか。

2021年5月15日土曜日

信夫の里・しのぶもぢ摺りの石(2)

 

たとえ川柳じゃないと突っ込まれたっていいじゃない。柳に川、じゃくて柳に風としなやかにうけながしましょう。不易流行というぐらいだから、流れ流れて行きましょう。阿武隈川の流れに沿って。

えっと・・、河原の左大臣の

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

の歌の話でしたね。

「もぢずり」とは信夫の里で作られていた、乱れ模様の摺り衣。摺り衣は忍草(しのぶぐさ)の汁をつかい、模様のある石の上に布を擦りつけて染める方法だそうです。

上の写真が忍草(シノブソウ)です。小倉百人一首にはもういちど出てきます。100番〆の順徳院の歌。

 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

こちらの歌のほうが忍草のイメージにあいます。百人一首は、秋の田のの天智天皇、春過ぎての持統天皇の歌で幕があき、人もをしの後鳥羽院、ももしきやの順徳院で幕が閉じられます。

承久の変で武家に敗れ、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流されます。御所や院の建物には忍草がさぞやたくさん生えたことでしょう。おくのほそ道の主題としても、こちらのほうがあっているようです。

下の写真はネジバナ。別名モジズリ。ネジバナがモジズリと呼ばれる由来は分かりません。またもぢずりの乱れ模様がどのようなものだったのかも分かりません。が、このような柄だったのかもしれませんね。

第5回ちくし句会を開催しました。


5月13日(木)に、所員5名が参加して、第5回ちくし句会を開催しました。

兼題は「麦」と「ゴールデンウィーク(黄金週間)」。自由題とあわせて1人5句つくりました。

私も、今回は5句つくって参加しました。


結果はなんと、優秀句、準優秀句、三席までをI先生が総ナメにされました。す、すごい。

優秀句、準優秀句、三席は事務所に掲示しておりますので、来所された際はぜひご覧ください。


ちなみに、俳句ど素人の私が出した句がこちら。

「五句悩み 四苦八苦する 黄金週間」


それではまるで川柳じゃないか、とツッコミをいただきました笑

俳句でも方向音痴を遺憾なく発揮しております。

参加者のハードルを下げることには一役買っていると自負しているので、ひとまずよしとしてください笑


俳人求む。


富永

2021年5月14日金曜日

信夫の里・しのぶもじ摺りの石(1)



・・福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に・・。

福島駅から東に車で20分ほど行くと、遙か山陰に信夫(しのぶ)の里があります。そこにしのぶもぢ摺り石があります。ここも有名な歌枕です。

小倉百人一首に、河原の左大臣の歌が採られています。

 陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

河原左大臣は、源融。光源氏のモデルといわれています。紫式部をかわいがった藤原道長がモデルの筆頭ですが、嵯峨天皇の子でありながら臣籍降下し源氏となったこと、彼が建てた河原院が光源氏の邸宅・六条院のモデルと思われることなどが根拠です。

河原院(東六条院)はいまの渉成園(枳穀邸)。東本願寺と鴨川の間にあります。名前からして、昔は鴨川までおよぶ広大な敷地だったのでしょう。

融はここに陸奥の塩竃をモデルとして庭をつくり、わざわざ難波の浦から潮水を運ばせて塩を焼かせたといいます。庭造りの好きなおじさんはいまもいっぱいいますが、その先駆者ですね。河原院は河原左大臣という呼称の由来でもあります。

陸奥の塩竃はあとで芭蕉一行も訪れます。われわれものちほど訪れましょう。

いまの渉成園(枳穀邸)には塩竃がなかったように思いますが、京都の南西にある、在原業平ゆかりの十輪寺で、塩竃を見たことがあります(写真)。

融は河原院がだいすきだったようで、死後も亡霊となって、後の所有者である宇多院のまえにあらわれたという話が宇治拾遺物語にあります。

宇多院「あれは誰そ」
融「ここの主に候ふ翁なり」
院「融の大臣か」
融「しかに候ふ」
院「さはなんぞ」
融「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭く候なり。いかが仕るべからん」
院「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」
と高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。

建物売買の際の告知事項として、その建物内部で人が死亡したかどうかがあります。そのような事情があった場合、心理的瑕疵となり、買主に告知しなければなりません。河原院も融の亡霊が悪さをしていたのであれば、心理的瑕疵の可能性ありだったでしょうね。

また融と河原院を題材にした謡曲『融』もあります。融は本作ではワキ僧を悩ませることもなく、われわれともども美の世界にいざなってくれます。世阿弥作、本来の曲名は『塩釜』。

融は陸奥の塩竃にならって庭造りをするほど、陸奥がだいすきだったようです。ただし、彼の官暦にはたしかに陸奥出羽按察使があるのですが、実際には赴任しなかったのではないでしょうか。

実際に赴任したかどうかはともかく、彼の陸奥に対する愛はひとかたならず、河原院をつくったほか、前記しのぶもぢ摺りの歌を残したというわけです。ようやく歌の話までたどりつきましたが、執務時間となったのでその解説は次回。

2021年5月13日木曜日

安達太良山・登山記


 

 

芭蕉一行は二本松より街道を右に切れて安達原・黒塚に行ってしまわれました。われわれは師匠にちょっと待ってもらい、街道を左に切れて安達太良山に向かいましょう。

安達太良山?どこかで聞いたことがある・・でしょ。高村光太郎の詩集『智恵子抄』の「あどけない話」にでてきます。

 智恵子は東京に空が無いという
 ほんとうの空が見たいという
 ・・・
 智恵子は遠くを見ながら言う
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出ている青い空が
 智恵子のほんとの空だという・・・

安達太良山には夏2回、冬2回登りました。そのうち晴れていたのは半分の2回。智恵子さんは安達太良山の山の上に青い空が毎日出ているとおっしゃっていますが、僕の経験上は2日に1回というところです。

二本松駅前では、智恵子さんが空を指さしています。詩集のイメージからすると、こころもち体格がよろしいようです。

駅から30分ほどバスに乗ると岳温泉に着きます。温泉は帰りのお楽しみです。そこからさらにバス20分で、奥岳・あだたらスキー場に着きます。そこが登山口です。

智恵子ファンのかたがたでしょうか。こころもち年配のご婦人がたのグループが多いような気がします。

登山口から道は二手に分かれます。右回り、左回り、どちらでもよいのですが、左回りはゴンドラリフト「あだたらエクスプレス」が使えます。が、われわれは右回りで行きましょう。

勢至平を経て2時間ほどで、くろがね小屋に着きます。日程に余裕がある人はぜひ泊まりましょう。温泉につかれます。つかれた体によいです。

翌日、峰の辻、牛の背を経て1時間ほどで山頂に到達。山頂はあるものに見えることで有名です。なにに見えますか。・・・安達太良山は別名、乳首山と呼ばれています。

九州人はシャイなので、九州の山にはそのような呼称はないように思います。でも東北人はきっと大好きなのでしょう、乳頭温泉とかもありますし。

山頂から薬師岳・あだたらエクスプレスの山頂駅まで1時間ほどです。ふきんは五葉松平と呼ばれ、五葉松がたくさん生えています。

五葉松平には「この上の空がほんとの空です」と、二本松市の標識がたてられています。なかなかよいユーモアです。残念ながら、この写真を撮影した日は曇っていて、ほんとの空は見えませんでした。

夏もよいのですが、やはり冬の美しさは絶品です。芭蕉はちょっと苦手という方で、でも智恵子なら好きという方、ぜひ一度どうぞ。

2021年5月12日水曜日

安達原・黒塚

 

浅香山で花かつみをさがしあぐね、芭蕉はあきらめて福島に向かいました。途中、二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を「一見」しています。

芭蕉は触れていませんが、黒塚については謡曲があります。曲名は「黒塚」もしくは「安達原」です。

熊野山伏の祐慶がワキです。例によって諸国をめぐって修行中、安達原で日が暮れてしまいました。しかたがないので野中のぽつんと一軒家に宿を請います。

あるじの女は薪を採りに山に出かけます。出がけに、決して閨(寝室)を見るなと言い残して。にもかかわらず、山伏の従者が閨を見ると死骸の山。あわてて逃げ出すと鬼女が追いかけてくる・・という話です。

この鬼女伝説はふるく王朝時代にはあったようです。この鬼女伝説をもとにした歌を平兼盛が詠んでいるからです。

兼盛は白河の関で、すでに登場しました。その時の歌はこれでした。

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと

百人一首にはつぎの歌が採られています。

 しのぶれど色にいでけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで

その兼盛には友人がいました。源重之です。重之は藤原実方とも仲がよかったようで、実方が陸奥に下向した際、いっしょに行ったようです。重之も百人一首に歌が採られています、つぎの歌です。

 風をいたみ岩うつ波の己のみ くだけて物を思ふころかな

ふたりとも歌もうまい、女にももてるというライバルどうしだったようです。一方の重之は、父が安達原に土着し、たくさんの妹がいました。これを知った兼盛がひやかしに詠んだのが次の歌でした。

 陸奥の安達原の黒塚に 鬼こもれりといふはまことか

兼盛がこんな歌を詠んだのは、重之の妹たちに下心があったことはもちろんでしょうが、ふたり共通の認識として鬼女伝説がすでに存在したからです。

兼盛による「まことか」という質問に対する答えが謡曲の「黒塚」「安達原」という趣向になっています。「まことだよ」ということです。

子どもが小さいころ、「みるなのくら」という絵本を読み聞かせていました。福音館書店刊、おざわとしお再話、赤羽末吉画の美しい絵本です。

ある貧しい若者がうぐいすの声に誘われて山奥に迷い込み、美女がもてなす。その屋敷のくらを見るなと言われたにもかかわらず、男は見てしまう・・。

再話というからには、いまもそのような伝説が残っているということです。いまも昔も、女に見るなと言われて、それを守れた男はいません。見るなと言われると条件反射的に見てしまう、男はそのようにDNAにプログラムされているのです。

昔話「鶴の恩返し」もそうです。昔話は、「見るな」と言われたのに見ると怖い目にあうよという、男に対する教えなのでしょうか。むしろ、バカな男に「見るな」と言っても無駄だよという、女子に対する教えではないでしょうか。あはは。

李白・杜甫や先輩歌人たちには言及していますが、芭蕉は謡曲にはまったく触れていません。なぜでしょう。じぶんが謡曲中の諸国「一見」の僧そのものであるとの認識だったからでしょうか。

2021年5月11日火曜日

浅香山

 

時間があれば、裏磐梯を観光していきたいところですが、師匠に叱られてはいけませんので、いそいで戻り、芭蕉一行に追いつきましょう。芭蕉はどのへんでしたでしょうか。

等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり。そうそう、ここでした。浅香山は檜皮(ひはだ)ならぬ、日和田(ひわだ)駅で降ります。

浅香山は有名な歌枕。歌は万葉集のこれ。

 浅香山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに
 (浅香山の影さえ見えてしまう山の井のような、浅い心を私はもっていません)

この歌には注がつけられていて、言い伝え。葛城王が陸奥国に派遣されたとき、国司の接待が怠慢だったので、王は怒りの色を面にあらわしました。そこで前は采女だった雅たる娘が水瓶で王の膝を撃ちながらこの歌を詠みました。すると王は機嫌をなおして喜びましたとさ。葛城王は、日本史の教科書に登場する橘諸兄のことです。

古今集の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」とありますが、猛き権力者の機嫌を和らげたのは歌でした(もちろん歌の魅力だけでなく、采女の魅力もおおきく作用したことでしょう)。

そのせいか、古今集の仮名序に、この歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の初めにもしけるとあります。手習のお手本だったのですね。また紫香楽宮跡の木簡にこの歌が記されていたという記事も、記憶にあたらしいところです。

ですが、芭蕉はここで橘諸兄にも采女にも触れず、藤原実方を召喚しています。このシリーズの最初のほう、室の八島で覚えていてくださいと言った例の貴公子です。

福岡では左遷された悲劇の人として菅原道真が圧倒的な知名度と人気です。東のほうではどうでしょう。すくなくとも芭蕉の頭のなかでは、藤原実方が圧倒的な人気です。みなさんも小倉百人一首のこの歌はご存じでしょう。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

日本百名山の伊吹山がでてくるので、ぼくも大好きな歌です。このような歌が詠める実方は女子によくもてたようで、あの清少納言とも交際していたと伝えられています。

ところが実方は和歌について藤原行成と口論になり、怒って行成の冠を投げ捨ててしまいました。運の悪いことに、一条天皇がこれを目撃していてその怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたのだそうです。

一条天皇といえば、清少納言がつかえた中宮定子と、紫式部がつかえた中宮彰子の夫君。「歌枕をみてまいれ」とは、さすが左遷命令も雅です。

陸奥では節句に人々が菖蒲を葺かないので、実方がなぜかと問うたところ、陸奥には菖蒲が生えておらず、そのような習慣もないとの返事でした。そこで実方は浅香沼には花かつみがあるので、菖蒲の代わりにそれを葺くよう命じたのだそうです。彼がそう考えた根拠も古今集掲載のこの歌です。

 みちのくの浅香の沼の花かつみ かつ見る人に恋ひやわたらむ

こうして芭蕉は、いづれの草を花がつみとはいふとぞと、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ・・・。

ここで芭蕉はガッカリしました。あれだけ(和歌の世界では)有名な浅香沼の花がつみを地元の人は誰も知らないというのです。いまでいえば、小便小僧、人魚姫、マーライオンを見たときの海外旅行者の気持ちでしょうか。あるいは、「フランダースの犬」でネロがどうしても見たかったルーベンスの絵が地元ではいまひとつ人気がないことを知った旅人の気持ちでしょうか。

芭蕉はこのあとも歌枕を訪ねるたびにガッカリ体験に遭遇します。なぜ、こうなのだろう、どう考えればよいのだろう・・・。ご心配なく、芭蕉はここから不易流行の考えにたどりつくことになります。さすが考えが浅かないですね。

2021年5月10日月曜日

会津磐梯山・登山記


おくのほそ道の旅はつづきます。いわく。等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり・・・。ちょっと待ってください、芭蕉さん。飛ばしてしまっていますが、須賀川から檜皮(日和田)の宿へ行く途中には、郡山があります。

東北新幹線を郡山でおり、磐越西線で西に向かうと40分ほどで猪苗代駅。同駅の手前から左手に猪苗代湖が見え、右手には磐梯山が聳えています。

猪苗代駅でおりないでさらに行くと、綾瀬はるかが主演した『八重の桜』の舞台である会津若松に着きます。

先に紹介したとおり、芭蕉らも会津根を見ています。しかし、芭蕉らが見た会津根とこんにちの磐梯山は少なくとも北半分が違っているはずです。なぜなら明治21年に水蒸気爆発をおこし、北半分は山体崩壊をおこしているからです。

大惨事だったのですが、いまではそのおかげで裏磐梯という美しい湖沼群を形成しています。秋などお奨めです。

猪苗代駅でおりると、車で10分ほどで猪苗代スキー場に着きます。ここが磐梯山の登山口。スキー場の上部が1合目です。山の南東側になっています。

ここから磐梯山を中心に反時計まわりに進みます。東側の赤埴山、北東側の沼の平を経て、北側の噴火口上部につきます。すこし迂回すると弘法清水に着き、そこから直登すると磐梯山の山頂1819メートルです。山頂から南をのぞむと、猪苗代湖が広がっています。

猪苗代湖の向こうは那須岳、朝日連邦、北を振り返ると、安達太良山や吾妻山をのぞむことができます。

これまで夏に2度、春1度、冬1度登りました。この写真は春にのぼったときのものです。赤埴山をすぎ、裏側にまわったところからみた磐梯山です。まだ大量の雪が残っています。

このときは、帰りがけ、噴火口上部あたりで雷に見舞われました。閃光が光るのと雷鳴が轟くのが同時で、いつ雷にうたれてもおかしくない状況でした。低木のあるところまで、背をひくくするため這ってくだりました。10分ほどだったでしょうか、生きた心地がしませんでした。

古人が神の存在を感じたのはやはり雷によってはないでしょうか。旧約聖書の神の怒りは雷のイメージです。数ある死に方のなかでも雷にうたれて死ぬのだけはご免こうむりたいです。

2021年5月7日金曜日

須賀川(3) 世の人の見付けぬ花


(天神に咲いている橡の花)


(ハイデルベルクで咲いていたマロニエの花)

(栗の花)

(栗斎宅跡の句碑)


(宝満山登山道の句碑)

ちくし句会には、あの連歌屋の住人も参加しているとか。同行トミーは苦吟しているようなので、ひとり先に進みます。

須賀川の宿のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼みて、世をいとふ僧がありました。その名も栗斎さんといい、等窮さんの友人です。

街中で生活しながら世を厭い自由に生きる、こういう生き方に芭蕉はあこがれています。いまでいう清貧の思想や断捨離の先駆者です。お金や物、人付きあいと距離をおいて、精神的な自由を獲得しようとする生活です。

ここで芭蕉は尊敬する旅の先輩歌人、西行をふたたび召喚します。

 山深み岩にしただる水溜めむ かつがつ落つる橡拾ふほど

トチの実がかつがつと落ちてくる、その実を拾う間に岩にしたたる水を溜めよう、その水は山が深いのでしたたってくるのだ。-おもしろくてしかも心ことに深き歌です(後鳥羽院)。

橡(トチ)といわれるとピンとこないかもしれませんが、いま天神にいくとたくさん咲いています。栃木県という県名までありますから、昔はとても馴染みのある木だったのでしょう。ただし、いま天神に咲いているのは西洋トチノキで、紅花です。

西洋トチノキというとピンとこないかもしれません、いわゆるマロニエの木です。マロニエというとパリのシャンゼリゼ通りの街路樹が有名、でも探しだせなかったのでハイデルベルクのものを貼り付けておきます。

マロニエというぐらいだから、マロン(栗)に似た実がなります。不作の年にこれを食べたという説もあれば食べられないという説もあります。すくなくとも日本のトチの実は栃餅にして食べています。西行も食べるために拾ったのでしょう。

栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、芭蕉はものに書き付けました。芭蕉が書いたからには駄洒落ではありません。

漢字を分解して楽しむやり方は芭蕉の発見ではありません。みなさんご存知の百人一首にもこんな歌があります。

 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ

                             文屋康秀

嵐という文字は山に風と書くからです。百人一首に歌がとられているからには、やはり駄洒落ではありません。

さらにさかのぼって行基菩薩も、西方浄土に便りありと信じて、杖にも柱にも栗の木を用ゐたまふとかや。行基さんは社会運動の先駆者です。国が僧に対し民衆への布教を禁止していた時代に、禁を破って仏教を説き、社会事業を各地で行いました。ついには、その功績が認められ、聖武天皇から大仏造立の責任者に任命されました。もはや爪のアカは残っていないでしょうから、それを煎じて飲むことはできませんが、威徳を慕って栗の木の杖を使うことはできそうです(インターネット通販で売っています)。

そして一句。

 世の人の見付けぬ花や軒の栗

お金や世俗のことに心を奪われている世の人々には栗の花の価値は分からない。栗斎のように、世間の喧噪を離れ、心の自由を獲得する境地に達したいものだ。

この句碑が須賀川の栗斎宅跡にあるのはわかります。しかしなんと、太宰府は宝満山の登山道の脇にもこの句の碑があります(中宮から100メートルくだったところ)。なぜでしょう。芭蕉は九州には来ていません(忍者だったという説もあるので、お忍びできたのかもしれませんが)。

前に書いたとおり、江戸時代、宝満山中では多くの行者が民衆を救うべく修行をしていました。その人たちが、自分たちの修行は世の人の知るところではないものの、志高く修行をつづけようという趣旨で、建立したのではないでしょうか。

われわれも栗斎、行基、宝満山中の修行者ら諸先輩に見習いたいものです。

2021年5月6日木曜日

俳句募集中


連休が明けましたね。いかがお過ごしでしょうか。

人によっては、有給利用などでまだ連休中という方もおられるのでしょうかね。

当事務所は5月6日(木)より平常運転です。


来週13日には、事務所の恒例行事、第5回ちくし句会が開催されます。

次回の兼題は「ゴールデンウィーク(黄金週間)」と「麦」です。

兼題と自由題で俳句を5句つくって参加します。


ここのところ、句をつくらずにオブザーバー参加ばかりでしたので、次回こそは私も句をつくって参戦したいところです。

5句、というのがまた結構大変なんです。

いい句を考えた!という方、こっそり教えてください。

相談料をサービスします!・・・みたいなことをするかどうかは分かりませんが、とりあえず私が喜びます。


富永

須賀川(2) 句会での交流

 

(川合玉堂「早乙女」山種美術館@講談社日本大歳時記)

契約書はともかく、「鬼滅の聖地」方面に向かいます。途中、太宰府天満宮参道の交差点を過ぎると、連歌屋という町があります。

なぜ連歌屋なのか。江戸時代には連歌の会所があったそうです。碁会所や雀荘はよく見かけますが、連歌の会所というのはいまでは見かけませんね。

俳句は五・七・五の17文字を定型とする詩です。これに七・七をつけると短歌になります。数人の人が一座となり、これを繋げていくと連歌になります。尻取り遊びのように。

むかしは百韻といって100句繋げて2,3日かかっていたそうですが、芭蕉のころは歌仙といって36句が主流だったようです。36句を歌仙と呼ぶのは、平安時代に藤原公任が和歌の名人を36人選んだことが由来です。

このうち最初の五・七・五、つまり発句だけを楽しむようになったのが、いまの俳句です。だんだん時間の流れが速くなっていったんですね。

うちの事務所の所長弁護士は連歌屋に住んでいます。そのせいか、さいきん俳句にはまっているようです。門前の小僧といいますが、連歌屋に住むと俳句を詠みたくなるのでしょうか・・・。

おくのほそ道の旅の目的は複数あり、お弟子さんたちと連歌の句会を開くこともその一つでした。須賀川には等窮という先輩がいて、さっそく句会が開かれました。

等窮は「白河の関いかに越えつるや」と問いました。芭蕉が「長途の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂奪はれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。」と弁解しながら、「むげに越えんもさすがに」として披露したのは次の句。

 風流の初めや奥の田植ゑ歌

この句を発句として、次の人が七・七と脇の句をつけ、さらに別の人が五・七・五と第三句と続け、あっというまに連句三巻になりました。さすが手練れの集まりです。

2021年5月3日月曜日

鬼滅の契約書

 


先日、いまさらというか、ようやくというか、鬼滅の刃(きめつのやいば)のアニメを見ました。

知らない方のためにざっくりと書くと、「鬼」に家族を殺された主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が、鬼殺隊(きさつたい)という組織に入って鬼を倒す話です。

「最近の若い子の間で流行っているやつでしょ」と、おじさん的思考で距離を置いていましたが、巣籠もりのアマゾンプライムで一気に見てしまいました。

 

さて、今回は、契約書の話です。

法律の世界も、簡単に言えば「約束は守りましょう」の世界。どういう「約束」をしたのかを明確にする意味でも、契約書をつくることは大事です。

 

私は、契約書に関して、ずっと疑問に思っていることがあります。

●●●●(以下「甲」という。)と●●●●(以下「乙」という。)とは・・・

のように、契約の当事者をなぜか「甲」、「乙」と表記する慣例についてです。

 

契約書としては、契約の当事者が誰なのかを特定できてさえいればよく、別に「甲」、「乙」でないといけないという決まりはありません。

「乙さん」、なんて、「おっさん」みたいな響きで、なんか嫌です。

それこそ、水戸黄門好きの方であれば、

●●●●(以下「助」という。)と●●●●(以下「格」という。)とは・・・

にしたっていいはずです。

助さん格さんの方が、契約後も争わなさそうですし。

 

それなのに、なぜか「甲」、「乙」にすることが多いです。

そもそも「甲」、「乙」って何でしょうか。

 

「甲」、「乙」は、

「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)」とつづきます。

「十干(じっかん)」という古代中国の陰陽五行説にのっとった観念なのだそうです。

世界が「木・火・土・金・水」の5つの要素からなり、それぞれ「陰」と「陽」に分かれるという考え方のことなのだとか。

 

十干も、訓読みすると、読み方が変わります。

甲(きのえ)

乙(きのと)

丙(ひのえ)

丁(ひのと)

戊(つちのえ)

己(つちのと)

庚(かのえ)

辛(かのと)

壬(みずのえ)

癸(みずのと)

 

これ、鬼滅の刃の、鬼殺隊(きさつたい)の中の階級に使われています。アニメを見ただけだと、音声でしか聞かないので、「十干」のこととは気付いていませんでした。

主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)も、最初は一番下の階級の癸(みずのと)から始まります。

 

と、いうことですので、慣例に従って契約書をつくる場合、10番目の当事者になれば、炭治郎と同じ、「癸(みずのと)」になれます。

10人も契約の当事者はおらん!という方は、契約書作成の際に「炭治郎と同じがいい!」と一言お声かけください。「癸(みずのと)」をサービスいたします。

 

富永

2021年5月1日土曜日

【ノリノリ憲法判例の天邪鬼談義②】最高裁、除斥の壁を打ち破る

 

先月26日、B型肝炎訴訟の最高裁判決がありましたね。

除斥期間の起算点について、画期的な判決でした。

090269_hanrei.pdf (courts.go.jp)


当事務所では井上弁護士が弁護団に所属していますので、喜びもひとしおです。

井上先生、ブログ書きませんか。書かないですよね。じゃあ代わりに書いておきますね。


長いので、B型肝炎訴訟の説明等は※※※以下に書いておきます。


除斥期間というのは、この期間内に損害賠償請求をしないと権利が当然に消滅しますよ、と法律で定められた期間のことです。

今回の判決で、最高裁は、すでに除斥期間を経過していると判断した福岡高裁の判決を破棄して差戻しました。

被害救済に向けての大きな前進です。


さらにすごいのは、三浦守裁判長が以下のような補足意見を書いたことです。

「極めて長期にわたる感染被害の実情に鑑みると、上告人らと同様の状況にある特定B型肝炎ウイルス感染者の問題も含め、迅速かつ全体的な解決を図るため、国において、関係者と必要な協議を行うなどして、感染被害者等の救済に当たる国の責務が適切に果たされることを期待するものである。」

要するに、この裁判の原告だけの話じゃないぞ、と国に釘を刺したわけです。かなり踏み込んだ補足意見だと思います。


以下に、詳しめに説明を書きますが、私は弁護団には所属していませんので、先に、このブログの過去の記事から補足意見を引いておきましょう。

あ、井上先生、追加の補足意見(ブログ更新)もお待ちしていますよ。

「ちくし法律事務所」の日常: 【B型肝炎訴訟-①】B型肝炎訴訟を支援する会 (chikushi-lo.jp)

「ちくし法律事務所」の日常: 【B型肝炎訴訟-②】東京運動 (chikushi-lo.jp)

「ちくし法律事務所」の日常: 【B型肝炎訴訟-③】九州和解協議期日 (chikushi-lo.jp)


富永


※※※


B型肝炎訴訟とは、昭和60年代初頭まで行われていた集団予防接種を乳幼児期に受けた際、注射器を連続使用したため、B型肝炎ウイルス(HBV)に感染した方が、国に対して損害賠償請求をするものです。


平成元年から裁判が始まり、平成18年に最高裁で国の責任が確定しました。

033231_hanrei.pdf (courts.go.jp)

その後、特定B型肝炎ウイルス感染者給付金等の支給に関する特別措置法が制定され、基本合意に基づき国と和解した方に給付金が支給される仕組みになっています。

厚生労働省「B型肝炎訴訟の手引き」より


B型肝炎ウイルスに乳幼児期に感染すると、

①免疫寛容期(無症候性キャリアが長期間続く)

②免疫応答期(活動性肝炎となる)

③低増殖期(肝炎が沈静化し、非活動性キャリアとなる)

④寛解期(臨床的寛解、つまり疾患リスクが事実上消失した状態となる)

という経過となります。


誤解をおそれずに(正確性<分かりやすさ)書くと、

感染→①しばらく無症状→②肝炎発症→③症状おさまる→④事実上治る

ということだと思います。


平成18年の判決では、除斥期間の起算点は②だよ、と言っていました。

もっとも、③となった症例の10~20%は、長期間経過した後にB型肝炎ウイルスが再増殖して②に戻るのだそうです。

②発症→③おさまる→②’再発

ということですね。


除斥期間は20年ですから、今回問題となったのは、②からは20年経過しているが、②’からは20年経過する前に訴えを提起した、という場合です。


除斥期間を経過しているかどうか、は基本合意に基づいて国と和解して給付金を受ける場合にも影響します。

特措法によれば、除斥期間前の提訴であれば給付金が1250万円、除斥期間後の提訴であれば給付金が150万円か300万円のようです。


だからこそ、三浦裁判長も国に釘を刺したわけですね。