西鉄都府楼駅をおり、北側にいくとすぐ都府楼前駅の交差点だ。左折すると御笠川に刈萱大橋が架かっている。
交差点を直進して御笠川をわたると日田街道である。T字路を左折して150メートルくらい行くと左側に「刈萱の関跡」がある。
水城堤防はいまJR線や高速道路に寸断されている。しかしかつてはここしか通り道がなく、関所になっていた。刈萱の関である。大宰府への入口であり、出口でもある。
かるかやの関守にのみみえつるは人も許さぬ道べなりけり
道真公の歌にも歌われている。大宰府に左遷され都へ戻れぬ現実を、ここで強く感じられたことだろう。
もちろんいま関所はなく、黒い大理石の碑がひっそりとたつのみである。うちの秘書さんもこのちかくに住んでいるけれども知らないのではなかろうか。
太宰府観光協会のHPによると、「刈萱道心と石童丸」の伝説でも有名とある。有名といわれても、そもそも刈萱の関を知る人がすくないのであるから、この伝説を知る人も多くはあるまい。
さてこのブログを読んでくださっているかたにはうっすら記憶があるかもしれない。この間のブログの流れはこうである。
①講演をたのまれ和歌山へ出張した。
②出張ついでに、翌日は槙尾山・施福寺に、翌々日は道明寺・道明寺天満宮にそれぞれ参拝した。
③道明寺参拝の旅の記憶を反芻するために、道明寺がでてくる『菅原伝授手習鑑』を反芻読書した。
④『菅原伝授』は日本文学全集10のなかの一話である。つづけて同書の『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』も読んだ。
さらに『曽根崎心中』(いとうせいこう訳)、『女殺油地獄』(桜庭一樹訳)を読み、つづけて説経節(伊藤比呂美訳)を読んでいる。
小学館の『日本国語大辞典』によると、説経節は説教浄瑠璃で語られる曲節。説教浄瑠璃は語り物の一種。
仏教の説教が歌謡化し、江戸時代初期に流行した民衆芸能とある。ラジオやテレビのない時代、民衆の娯楽、楽しみだったのだろう。
説経節として知っていたのは『小栗判官』だったけれども、本書にとりあげられていたのは『かるかや』。これがまさしく先の「刈萱道心と石童丸」の伝説である。
刈萱道心はもと、筑前の国、刈萱の荘、加東左衛門重氏。重氏は松浦党の総領。松浦党は武士の大集団、筑後、筑前、肥後、肥前、大隅、薩摩の6か国をおさめていたという。
筑前の国、刈萱の荘といわれると思考停止する人が続出すると思うけれど、なんのことはない、先の「刈萱の関跡」あたりである。そこにいまでいえば、福岡高裁の長官が住んでいたと思えばそれほどおおきな間違いではあるまい(ただし重氏はいまだ21歳)。
人はいつ、どのようにして発心(ほっしん)するのか。それを書いたものが『発心集』らしいが、いまだ読んだことはない。重氏は、花見の宴で、桜が盃のなかにはらりと落ち、くるくる回ったのを見て発心したという。
発心した重氏は領地も家族も捨てて出家した。家族には妻、3歳の娘のほか、妻のお腹のなかの男の子もいた。男子が石童丸である。
出家した重氏は刈萱道心と呼ばれ、京都の法然のもとで修行にはげんだ。13年経って妻子が尋ねてくる夢を見、対面を避けるため高野山に逃れた。高野山は女人禁制であり、妻が追ってこられないからである。・・・
「刈萱道心と石童丸」らの苦難の人生は佳境に入っていくのであるが、その前にいまでいえばCMのようにして、高野山の説明がながながとなされる。なんの話だったか忘れそうである。
と思っていたら、高野山をひらいた弘法大師空海が剃髪・出家した話がでてきた。その場所がどこあろう、槙尾山なのだ。
槙尾山か、懐かしいな。と思っていたら、まてよ、空海が剃髪した場所・・・たしか施福寺の坂の途中にあったよな。参拝したときの写真を検索するとたしかにあった。
まず愛染堂(上の写真)。またの名は弘法大師剃髪所跡。空海が得度して剃髪したとされる。つぎに弘法大師御髪堂(下の写真)。空海の剃髪した髪が祀られている。
かくて和歌山出張の旅は→槙尾山・施福寺→道明寺→『菅原伝授』→日本文学全集10→説経節『かるかや』→弘法大師剃髪所跡→槙尾山・施福寺という円環をなして、みごと完結したのでありました。