2021年12月17日金曜日

『菅原伝授手習鑑』


  道明寺、道明寺天満宮を訪れたので、旅の反芻もかねて、『菅原伝授手習鑑』を反芻読書した。

とはいっても、オリジナルの脚本ではなく、河出からでている日本文学全集10のなんちゃって現代語訳である。とはいっても、三浦しをん訳。とても読みやすい。

とはいっても、最初はとても戸惑う。平安時代の話なはずなのに、江戸時代に書かれた脚本なので、セリフや風俗などは江戸時代である。ま、当時からなんちゃって江戸時代訳だったわけである。

でも二読、三読するうちに、そんな違和感はなくなってしまう。いつしか江戸時代の観客と一体化して舞台に見入り、手に汗をにぎってしまう。

時の権力者である藤原時平やその子分たち、かれらの悪逆非道に負けるな道真公!

面白かったので、つづけざまに『義経千本桜』まで読んでしまった。こちらはいしいしんじ訳である。現代の売れっ子小説家による、江戸時代の売れっ子脚本家の翻訳であるから、手慣れたものだ。

義経もでてくるが、主役は彼らをめぐる人物群像である。源平合戦も、壇ノ浦の戦いはでてこない。屋島の戦いのなかで済まされてしまう。こまかいことは気にしない。

壇ノ浦や熊野沖で死んだはずの、安徳天皇や平の知盛、維盛、教経も生きている。そして義経一行にからんでくる。だいたい義理と人情の板挟みというやつだが、いまでも面白いし感動する。

これかと思ったものがあれだったりして二転三転する。ハリウッド映画のようだ。逆か。真似たとすれば、ハリウッド映画のほうだ。この点は歴史的に明らかだ。

さらに『仮名手本忠臣蔵』まで読み進んでしまった。松井今朝子訳というのがいい。『義経千本桜』読了の日がちょうど12月14日だったこともある。討入りの日だ。流れで『仮名手本忠臣蔵』に討ち入ってしまった。

これも読みやすくはない。実話のとおりに書くと、江戸幕府を批判しているともとられかねない。当時の脚本家がその点をはばかって、時代を足利幕府に設定しているからだ。

登場人物は、吉良上野介と浅野内匠頭ではなく、高師直と塩治判官となっている。吉良上野介の役職「高」家→「高」師直、赤穂藩主・浅野内匠頭→赤穂の特産は塩→塩治。こうしたサジェスチョンにより、当時の観客にも実は赤穂浪士の討入りの話だと分かる仕組みになっている。

こちらも読みながら、頭の中でいちいち翻訳しなければならない。足利時代→江戸時代、さらに現代への三段跳び。言論の自由がないというのは、じつに不自由なことだ。

12月10日フィリピンとロシアのジャーナリストにノーベル賞が授与された。彼らが命がけで表現の自由を守っているからだ。

朝ドラ『マー姉ちゃん』でも、太平洋戦争がすすむにつれ言論統制が厳しくなってきた。いま思えばこっけいなことばかりだ。でも当時はみな「死ぬほど」まじめにやっていたのだ。

いまの日本はどうだろう。権力悪にたいし真相究明・真相解明がなされているだろうか。たとえば、森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題。

自殺した財務省職員の妻が裁判で損害賠償を求めた。国は争わずして妻の請求を全面的に認めた。なぜか。公文書改ざん問題の真相を法廷で追及・明らかにされたくなかったためだろう。

しかし、それでは逆だ。国は責任を全面的に認めたのであるから、すべての真相を明らかにする責任がある。そうでなければ、天神さまの怒りに触れ、天罰がくだること疑いない。

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