2021年12月15日水曜日

古市古墳群訪問記

 






 槙尾山の翌日は、古市古墳群を訪れた。大阪平野の中央部に、百舌鳥・古市(モズ・フルイチ)古墳群がある。堺に百舌鳥古墳群、羽曳野市・藤井寺市に古市古墳群が分布している。

4世紀後半から6世紀前半にかけて、この地域に古墳が200基も作られた。2年前に世界遺産に登録されている(1番上の写真)。

200基もあるので、とても一日ではまわれない。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群のほうが有名であろう。が、道明寺や葛井寺にも寄ってみたかったので、古市古墳群のほうをまわることにした。

JR天王寺から近鉄阿部野橋に向かう。近鉄南大阪線に乗り、古市で降りる。藤井寺、土師ノ里、道明寺、どこからでもまわれるのであるが、たまたま急行が先発だったので古市で降りた。

古市は羽曳野市だ。羽曳野の名は古代の英雄ヤマトタケル(日本武尊)に由来する。死後、白鳥となってこの地に舞い降り、天高く飛び去ったようすが「羽を曳くが如く」だったという(古事記、日本書紀)。

古代の官道である竹内街道が市内を東西に貫いている。源平合戦などで源氏というときは、河内源氏のことをいうが、ここは河内源氏・頼信の本拠地でもある。

駅前を西に向かう。白鳥の交差点を南に折れ、竹内街道を西に折れる。入口に「日本武尊御陵参拝道」の石柱がたっている(2番目の写真)。

まもなく白鳥陵古墳。先のヤマトタケル伝説から羽曳野市の名前の由来となったもの。住宅地のなかにあり、のどかだ(3番目の写真)。

日本最初の歴史書は古事記と日本書紀。8世紀初めに編纂された。それより前は歴史ではなく、中国の魏志倭人伝などの断片的記載を除き、口承や考古学の時代である。

ヤマトタケルが活躍した時代を西暦に機械的に換算すると1世紀らしい。白鳥陵古墳が築造されたのは古墳時代中葉だから5世紀ころか。300~400年のズレがある。

古事記や日本書紀が編纂された時代からみて300年前のことである。われわれからみて江戸時代中期の話である。よく分からないというのがほんとうのところだろう。

白鳥の交差点まで戻り、北(市役所方面)へ向かう。左手に墓山古墳がある。ミズナラだろうか、茶色く黄葉している(4番目の写真)。

さこから北東をめざすと誉田御廟山古墳がある。実際の被葬者は明らかでないが、またの名は応神天皇陵だ。

外濠部が畑に浸食されたりしていて測るのが難しいが、墳丘長は約420メートル。大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、日本第2位の大王陵である。大きすぎて、ドローンでも飛ばさないかぎり、地上からでは一枚の写真におさまりきれない(5番目の写真)。

写真はかろうじて前方部の一角(北西角)が写っている。奥の方、後円部ははるかかなただ。右奥は二百名山の金剛山。前方部は山を指している。まるで、山をめざせという指示アイコンのようだ。

さらに北に行くと古村(室)山古墳がある(6番目の写真)。誉田御廟山古墳は柵があって立入禁止だったが、こちらは立入自由で公園になっている。親子が球技をして遊んでいる。被葬者もこのほうが毎日楽しいのではなからろうか。

そこから西に行くと、岡ミサンザイ古墳(7番目の写真)。これも実際の被葬者は明らかでないが、仲哀天皇陵に治定されている。

仲哀天皇はヤマトタケルの子、また神功皇后の旦那さまである。そのため、香椎宮に祭られていたりして、九州ともご縁がある。

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