ヘミングウェイの『日はまた昇る』(高見浩訳・新潮文庫)2回目を読み終えた。反芻読書の実践である。以前は1回読めば、ほぼ理解できると思っていた。しかし最近は1回読んだくらいでは、ほとんど理解できないと思うようになった。
むろん、できる人もいるだろう。法曹を養成する司法研修所には優秀な人が集まっていた。東大や京大をでて司法試験に受かったのだから、あたりまえにも思える。しかし、そのなかにもやはりレベルに歴然たる差がある。
研修所での教育は、一般的・抽象的な法規範を個別・具体的な事実関係にあてはめる訓練を中心としていた。過去に起きた実際の事件の記録からプライバシー情報を抜き取った記録(白表紙と呼ばれた。)が配付される。それを読んで、事案を分析、事実上・法律上の問題を抽出し、自説を述べて小論文を完成させる。それを半日でやらされた。
われわれというか、自分は、白表紙を1回読んで薄ぼんやりと事案を把握、2回読んでようやく問題点がぼんやりと分かるというかんじだった。しかし、Kくんは違った。さーっと1回読んだら、問題点を的確に分析・指摘できたのである。
KくんはT大を現役で合格していた。学生時代は先生がたの論文を読んでいたそうである(そしてヨーロッパをバッグパックで歩いたそうである。)。そのせいか、われわれが知っている受験知識は乏しかった。
が、白表紙を読みこなす分析能力は格段に優れていた。裁判官になり、いきなり内閣官房に入れられた。その後もエリートコースを歩んだ。
話が脱線してしまった。Kくんならともかく、われわれ凡人は1度読んだくらいでは、小説は読み解けないと思う。自分の能力というか、その限界をそのように正確に把握できるようになったことが、この間の進歩といえるかもしれない。
(以下、ネタバレ)
『日はまた昇る』は、6人の男女の愛憎劇である。女性1人に男性5人のアンバランス。女性はブレット、いわゆるファムファタル。運命の女性であり、男たちを破滅させる存在である。
男性側はブレットを中心にして、「ぼく」(ブレットの元恋人)、ぼくの友だち(ぼくの釣友だちのアメリカ人、ブレットを気にいっている)、ブレットの婚約者(破産手続中のイギリス人)、ブレットと最近交渉をもった彼氏(元ボクサーでユダヤ人)、新進気鋭の若き闘牛士(物語終盤、ブレットの彼氏となる)である。
「ぼく」らは、第一次大戦後心に深い傷を負って、パリで自堕落な生活を送っていたところ、スペイン旅行へ行き、釣や闘牛を通して、そこから回復していく(日はまた昇る)。
闘牛というお祭りの盛り上がりを背景に、物語も盛り上がっていく。闘牛は、日本の祭りと同じで、本来は神事のようだ。そのお祀りの周りに、お祭り(フィエスタ)が発生し、その目玉が闘牛という構造になっている。
岸和田出身のわれらに照らして言えば、だんじり祭りのようなものだ。その際に、一人の女子をめぐって、複数の男子が恋をして告り、誰が勝者となったのかという、どこかで聞いたようなプロットである。そうなると、われわれとヘミングウェイの違いは、このような素材にあるのではなく、構想力、筆力にあるということである。そうなのか。
闘牛は、一言で言えば、強い雄牛を闘牛士が殺すドラマである。その雄牛の興奮をなだめるため、本番まで去勢牛があてがわれる。
また闘牛士にも2つのタイプがある。牛の角のすれすれまで体をさらして、生と死のギリギリの線で魅せるタイプと、派手な装飾でそれっぽく見せるタイプである。新進気鋭の闘牛士は前者である。
そして、ヘミングウェイの作家としてのあり方や文体も前者である。派手な装飾で読者をあざむくあり方と決別し、そういう作家たちを非難してもいるのだろう。
フィエスタは、闘牛に出場する雄牛を中心としてグルグルと展開する。そういう意味でのこの小説の中心は、「ぼく」ではなくブレットのようだ。
まわりの男性陣は、あるいは、去勢牛のようにふるまい、あるいは、欺瞞的な闘牛士のようにふるまい、あるいは、正統派闘牛士として振る舞う。
1回目はストーリーを追うことに手一杯。2回目を読んで、このような楽しい読みをすることができた。本はまた読める。