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2021年11月10日水曜日

『日はまた昇る』


  ヘミングウェイの『日はまた昇る』(高見浩訳・新潮文庫)2回目を読み終えた。反芻読書の実践である。以前は1回読めば、ほぼ理解できると思っていた。しかし最近は1回読んだくらいでは、ほとんど理解できないと思うようになった。

むろん、できる人もいるだろう。法曹を養成する司法研修所には優秀な人が集まっていた。東大や京大をでて司法試験に受かったのだから、あたりまえにも思える。しかし、そのなかにもやはりレベルに歴然たる差がある。

研修所での教育は、一般的・抽象的な法規範を個別・具体的な事実関係にあてはめる訓練を中心としていた。過去に起きた実際の事件の記録からプライバシー情報を抜き取った記録(白表紙と呼ばれた。)が配付される。それを読んで、事案を分析、事実上・法律上の問題を抽出し、自説を述べて小論文を完成させる。それを半日でやらされた。

われわれというか、自分は、白表紙を1回読んで薄ぼんやりと事案を把握、2回読んでようやく問題点がぼんやりと分かるというかんじだった。しかし、Kくんは違った。さーっと1回読んだら、問題点を的確に分析・指摘できたのである。

KくんはT大を現役で合格していた。学生時代は先生がたの論文を読んでいたそうである(そしてヨーロッパをバッグパックで歩いたそうである。)。そのせいか、われわれが知っている受験知識は乏しかった。

が、白表紙を読みこなす分析能力は格段に優れていた。裁判官になり、いきなり内閣官房に入れられた。その後もエリートコースを歩んだ。

話が脱線してしまった。Kくんならともかく、われわれ凡人は1度読んだくらいでは、小説は読み解けないと思う。自分の能力というか、その限界をそのように正確に把握できるようになったことが、この間の進歩といえるかもしれない。

(以下、ネタバレ)

 『日はまた昇る』は、6人の男女の愛憎劇である。女性1人に男性5人のアンバランス。女性はブレット、いわゆるファムファタル。運命の女性であり、男たちを破滅させる存在である。

男性側はブレットを中心にして、「ぼく」(ブレットの元恋人)、ぼくの友だち(ぼくの釣友だちのアメリカ人、ブレットを気にいっている)、ブレットの婚約者(破産手続中のイギリス人)、ブレットと最近交渉をもった彼氏(元ボクサーでユダヤ人)、新進気鋭の若き闘牛士(物語終盤、ブレットの彼氏となる)である。

「ぼく」らは、第一次大戦後心に深い傷を負って、パリで自堕落な生活を送っていたところ、スペイン旅行へ行き、釣や闘牛を通して、そこから回復していく(日はまた昇る)。

闘牛というお祭りの盛り上がりを背景に、物語も盛り上がっていく。闘牛は、日本の祭りと同じで、本来は神事のようだ。そのお祀りの周りに、お祭り(フィエスタ)が発生し、その目玉が闘牛という構造になっている。

岸和田出身のわれらに照らして言えば、だんじり祭りのようなものだ。その際に、一人の女子をめぐって、複数の男子が恋をして告り、誰が勝者となったのかという、どこかで聞いたようなプロットである。そうなると、われわれとヘミングウェイの違いは、このような素材にあるのではなく、構想力、筆力にあるということである。そうなのか。

闘牛は、一言で言えば、強い雄牛を闘牛士が殺すドラマである。その雄牛の興奮をなだめるため、本番まで去勢牛があてがわれる。

また闘牛士にも2つのタイプがある。牛の角のすれすれまで体をさらして、生と死のギリギリの線で魅せるタイプと、派手な装飾でそれっぽく見せるタイプである。新進気鋭の闘牛士は前者である。

そして、ヘミングウェイの作家としてのあり方や文体も前者である。派手な装飾で読者をあざむくあり方と決別し、そういう作家たちを非難してもいるのだろう。

フィエスタは、闘牛に出場する雄牛を中心としてグルグルと展開する。そういう意味でのこの小説の中心は、「ぼく」ではなくブレットのようだ。

まわりの男性陣は、あるいは、去勢牛のようにふるまい、あるいは、欺瞞的な闘牛士のようにふるまい、あるいは、正統派闘牛士として振る舞う。

1回目はストーリーを追うことに手一杯。2回目を読んで、このような楽しい読みをすることができた。本はまた読める。

2012年12月20日木曜日

Eureka!





パソコンとかネットとかいうとたいそうだが
ブログの正体は絵日記である。

三日坊主の魔の手から
のがれられるわけではない。

本ブログも
例外ではない。

ときどき,いや,ひんぱんに
やめたくなる。

あ~今週いっぱいにしょう,
今月いっぱいにしよう,みたいな。

すると
まか不思議。

Mother Maryが
ボクのもとに来てくれるんですねぇ。

女性の読者が「読んでますよ。」とか
「面白いですね」とか言ってくれる。

これは励みになる。
よし,また明日もがんばろう,と。

(もちろん,男性の読者からも
声かけはあります。)


ときには「間違ってるわよ。」
といわれることもある。

これも
ウエルカム。

「読んでますよ。頑張ってね。」と
素直にいえない女性なんだなと善解する。

(「善解する」とは,法曹用語で
「わかりにくいけど,よきにはからうぞよ」という意味)


きのうの記事にも
ご指摘をもらった。

 つーことで
 あれこれ考え,調べてみた。

 そうか!ユレイカ!
 わかったぞ。

という部分。
さて,どこが問題でしょう?


「間違ってますよ。」とは言わず,婉曲に
「『ユリイカ』という雑誌とおなじ意味?」と訊かれた。

ボクもアホだから
上から,こう答えた。

「そう。ギリシャ語。
アルキメデスの言葉

黄金の王冠の体積を量る方法を
思いついたとき,こう叫んだらしい。

風呂場で叫んで
興奮のあまり裸で通りを走ったらしいよ。」


この黄金の王冠のエピソードは
こうだ。

 王様が神殿に奉納するために
 黄金で王冠をつくらせた。

 王冠製作職人が銀の混ぜ物をして
 ごまかしたという疑惑が浮上した。

 王はアルキメデスに
 その調査を依頼した。

 密度を調べればよいが
 それには体積を求める必要がある。

 体積を簡単に求めるには
 長方形に成形しなおさなければならない。

 そうすると
 王冠を壊して溶かすことになる。

 それじゃいけないので
 他の方法で体積を求める必要があった。

 アルキメデスは,この問題の解決法を
 入浴中にひらめいた。

 浴槽に入ると
 水面が高くなる。

 王冠を水に沈めれば同じ体積分水面が上昇し
 容易に体積を測ることができる。

 王冠の重量をこの体積で除すれば
 密度が求められる。

 もし比重が軽い安物の金属を混ぜていれば
 密度は同じ体積の純金より低い。

 アルキメデスは,この方法により
 王冠に銀が混ざっていることを示した。


ユリイカとユレイカのちがいは
ローガンがレーガン大統領になったようなもんじゃね?


ほんとうにそうか?
気になって,調べてみた。

アルキメデスが叫んだのは
「Eureka」。

古典ギリシャ語で
「私は見つけた」「わかったぞ」というほどの意味。

古典ギリシャ語では,ヘウレーカ、ヘーウレーカ
現代ギリシア語では,エーヴリカ。

英語では,ユリーカ、ユーリーカ、ユアリーカ
日本語では,ユーレカ、ユーリカ、ユリカ、ユリイカなど。


ん?
どこにも「ユレイカ」という表記がない。

どうも
「ユーレカ」と「ユリイカ」をチャンポンにしていたようだ。

ゴメン
間違い。

慎んでお詫びもうしあげます。
きのうのブログは訂正させてもらいました。


調べている途中
さらに気になる事実が判明。

…というところで時間切れ
つづきはまた。

(ちなみに,『ユリイカ』は青土社から刊行されている月刊誌
詩および批評を中心に文学,思想などを広く扱う芸術総合誌。)