2021年7月30日金曜日

出羽三山ー羽黒山


 (羽黒山国宝五重塔)

 (出羽三山神社@羽黒山頂)

 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐憫の情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊において俳諧興業。

 ありがたや雪をかをらす南谷

 五日、権現に詣づ。当山開闢能徐大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の羽毛をこの国の貢に献る」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき山と謂つつべし。

 羽黒三山は修験道の山岳信仰の場。羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)であり、羽黒三山の旅は生まれかわりの旅とされます。

羽黒三山には2013年10月に登りました。福岡からだと新潟空港まで飛行機で行き、そこから特急いなほで鶴岡駅まで。鶴岡駅から羽黒山の麓まで車で20分ほどです。

一日目は羽黒山に登り、麓の宿坊に泊まりました。羽黒山は標高414メートル、ほぼ四王寺山とおなじ高さです。

図師は、染物師。阿闍梨は、天台宗高僧の職名。権現は、仏が神の姿を借りて現れたとする神号(本地垂迹)。

能除大師は、崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子のこと。崇峻天皇が蘇我氏に殺害されたとき、出羽に逃げたところ、羽黒権現が示現し、羽黒三山を開いたとされます。人々の苦悩をよく除いたことから、能除大師と呼ばれました。

武江東叡は、上野の寛永寺のこと。止観は、天台宗でもっとも大切な教義。妄念を止め精神を集中し道理を悟ること。円頓融通は、円満にして偏らず、すみやかに成仏し、すべてをまんべんなく悟ること。

ここらあたりの解説は、曽良によるものでしょう(室の八島の段参照)。いまでいえば、博識なガイドつきで羽黒三山詣でをしているかんじでしょうか。

2021年7月29日木曜日

最上川ー大自然のパワー

(最上川@大石田) 

(最上川@米沢)

 最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
 最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危ふし。

 五月雨をあつめて早し最上川

前半は那須野の段や謡曲『遊行柳』を彷彿とさせますね。旅は人生、俳諧の道も旅の道もおなじということでしょう。貞門・談林の古道から蕉風の新道を切り拓いていきつつある芭蕉。おくの細道において俳諧の新道を指導しているぞという、彼の快感・歓喜が伝わってきます。

最上川の源流は、吾妻山・登山記で紹介した吾妻山です。吾妻山に発し、米沢に流れ下り、山形を貫流して、大石田に至ります。日本三大急流の一つ。あと2つわかりますか。富士川と球磨川です。急流は水害とも裏腹で、球磨川の水害は記憶に新しい。

芭蕉は、最上川という大自然のパワーに翻弄・圧倒され、人為の卑小さを痛感したことでしょう。

2021年7月28日水曜日

立石寺ー宇宙の閑かさ

 

 山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

大石田駅から山形新幹線で山形に向かいます。途中には、さくらんぼ東根駅や天童駅があります。ちかくのスーパーでさくらんぼを買うと、さくらんぼ東根でつくられたものに出会います。天童駅はあの演歌歌手の出身地なのでしょう。

山形からは、仙山線で5駅行くと山寺駅に着きます(仙台からだと15駅目です。)。駅からすぐ正面に山と絶壁が見え、立石寺の院々が山のあちこちにはりついています。

3度行きましたが、いちばんは雪の立石寺です。すばらしい景色でした。蝉の声は聞こえませんが、一見を勧めます。

慈覚大師は、瑞巌寺のところででてきました。最澄の弟子、延暦寺をもり立てた人で、東北各地の寺を創建したといわれています。

閑かさは、長谷川櫂さんにしたがい、宇宙の閑かさと解します。そうしないと、蝉が啼いているのになぜ閑かなのか分からないからです。ミンミンゼミやヒグラシなら別ですが。

宇宙が閑かで心が澄みやすらぐのは、自然と一体であることをよしとする老荘思想のおかげでしょう。西欧の哲学者のように、宇宙の閑かさに神の不在を感じるようだと、戦慄するしかありませんから。

2021年7月27日火曜日

おもひでの尾羽沢

 




 尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。

 涼しさをわが宿にしてねまるなり

 這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声

 眉掃きを俤にして紅粉の花

 蚕飼ひする人は古代の姿かな 曽良

 奥羽山脈を山刀伐峠で越えて最上の庄にでました。そこは尾花沢です。花笠音頭発祥の地。

芭蕉は山刀伐峠を越えてたどりつきましたが、私は山形新幹線を大石田駅でおり、駅前から路線バスに乗って、芭蕉・清風歴史資料館を尋ねました。

バスのなかは、若い人がいっぱい。なんとこちらでは芭蕉人気がすごいなぁと関心していたら、かれらは資料館のさきにある銀山温泉まで乗っていってしまいました。

銀山温泉は、『おしん』の舞台になったほか、『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルの一つといわれ、若い人に人気らしい。

鈴木清風は紅花を商う豪商でした。芭蕉も清風宅をよほど気にいったのか、松島でさえ一泊しかしなかったのに、10泊もしています。句もたくさん作りました。

ねまるというのは、腐ることではなく、くつろぐこと。清風宅のもてなしに対する最大級のご挨拶です。

蟾はひき、ヒキガエルのことです。近年、宝満山を登るヒキガエルたちが太宰府市の市民遺産になりました。

紅花の咲く時期に山形をいちど訪れたいと思っています。スタジオジブリのアニメ映画『おもひでぽろぽろ』の舞台となったからです。いまさら自立を考える年でもないですが、一面の紅花畑をまえに、おもひでにひたるのも悪くないでしょう。

最後の写真はなにかわかりますか。葉はクワ、下のほうに写っている虫はカイコ(蚕)です。むかしは絹織物が高級衣服で、養蚕はとても大事な産業でした。が、化学繊維の普及により、なかなか難しい時代になりました。

ちなみに、写真は近年世界遺産となった富岡製糸工場跡で撮ったものです。製糸というのは生糸を製造するという意味です。蚕の繭から糸をつむぎ、よりあわせていく工程はとても神秘的でした。

2021年7月26日月曜日

飛騨山脈周回記


(神が降りた地、上高地。梓川に河童橋、穗高連峰)

  あれれ。芭蕉とともに奥羽山脈を越えていたと思ったら、連休は飛騨山脈(北アルプス)へ。

上高地を起点に、焼岳、北穗高岳独標、双六岳を周回してきました。ふだんだったらありえないコースですが、夏山トップシーズンであること、連休であること、キャパ50%としか予約を受け付けないことから、双六小屋一泊分しか山小屋の予約がとれなかったことによるものです。

ようやくウィズ・コロナの時代がはじまったのでしょう。交通機関や宿ではウィルス対策がなされ、人々もマスクや手洗いに余念がありませんでした。

天気予報は毎日猫の目のようにクルクルと変わりました。はじめはとても登れるようなものではありませんでしたが、われわれの祈りが通じたのか、どんどんよき方へ変化していきました。

上高地はさすが神が降りた地、すべてのものがキラキラと光輝いていました。

山小屋がとれなかったぶん、一方で、登りくだりが激しかったものの、他方で、麓の温泉宿に泊まり、疲れを癒やしました。どこも露天がすばらしく、芯から効きました。

高山植物はもちろん、イワナ、サル、ライチョウ、高山蝶やアサギマダラが出迎えてくれました。人情にも触れ、小屋前の売られていたリンゴ、オレンジ、バナナ、トマトの味も絶品でした。

2021年7月20日火曜日

山刀伐峠ー切れ

(奥羽山脈・栗駒山) 


(最上の庄、晴れていれば向こうに月山が見える)

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと言ひて人を頼みはべれば、究竟の若者、反脇差を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじの言ふにたがはず、高山森々として一鳥聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男の言ふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞こえてさへ、胸とどろくのみなり。

尿前の関は奥州と羽州の境にある関。奥羽山脈は奥州と羽州の境にある山脈。奥州は福島、宮城、岩手、青森、羽州は山形、秋田です。鳥の羽を献上したのが由来らしい。鳥の羽は矢羽根に使われ、つまり当時の軍需物資だったんですね。

奥州から羽州へ越える峠を越えるため、山刀(ナタ)でぶった切りました。これにより、初折りと名残りの折りの間の「切れ」はより鮮やかになりました。

むかしはわが家にもナタがありました。ノコギリやカンナとともに。当時は藪があちこちにありナタが必要でしたが、最近は見なくなりましたね。

一鳥聞かずは、王安石の「鐘山即事」からの引用、「山更に幽なり」と続きます。雲端につちふるは、「杜甫」の「鄭附馬宅宴洞中」からの引用。木の下闇は夏の季語から。自在です。

最上の庄は最上川が流れているところです。最悪の道中を経て、最上の庄に着きました。

2021年7月19日月曜日

尿前の関ー馬の尿する枕もと


   南部道遙かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

 芭蕉一行は旅のクライマックス平泉で、義経主従の鎮魂を行いました。われわれも落合くんの追悼を行いました。平泉の光を際立たせるため、尿前の関の段は暗転します。例によってさんざんな目にあっています。尿前の関は義経の子が尿をしたことにちなむらしい。

ちかごろの博多弁でバリは超みたいな意味ですが(このラーメン、バリうまーみたいな)、ここでは尿のことです。尿前の関は、しとまえのせきと読みます。

おくのほそ道は構成がしっかりしています。これまでずっと北(岩手県・南部地方)に向かって旅をしてきましたが、平泉を折り返し地点として南に転針します。物語全体も起承転結の承から転に転じます。尿前の関は、太平洋側の奥州(宮城県)と日本海側の出羽(山形県)との境です。おくのほそ道も前半・後半の大きな切れ目です。

俳句は連句の発句を独立させたものです。連句は、いくつつなげるかにより百韻とか三六韻とか種類がありました。三十六韻のものを歌の名手三十六人にちなんで歌仙と呼びます。

連句は懐紙に句を書き連ねていきます。懐紙は二つ折りにして表と裏に書きます。歌仙の場合、懐紙を2枚使い、一枚目を初折り、二枚目を名残の折りと呼びます。初折りの表に6句、裏に12句、名残りの折りの表に12句、裏に6句を書いて、合計36句になります。

おくのほそ道の構成は、この三十六歌仙の形式を俤にしています。白河の関が初折りの表・裏の切れ目、尿前の関が初折りと名残りの切れ目、あと新潟と富山の境ででてくる市振の関が名残りの折りの表・裏の切れ目になります。

そしてそれぞれのセクションについてテーマが決まっています。初折りの表が旅の禊ぎ、その裏が歌枕めぐり、名残りの折りの表が宇宙めぐり、その裏が別れ。これで起承転結です。

不易流行でいえば、歌枕は流行、宇宙は不易です。ここからいよいよ不易の領域に入っていくことになります。

宇宙の領域というだけあって、ここから先、句のテーマが大きく永遠になります。宇宙、太陽、月、銀河。スケールが大きくて、すてきな句だらけです。ワクワクします。

芭蕉が岩手県の平泉を通過したのち、この宇宙の領域に入っていくのはとても興味深いです。岩手の宮沢賢治が描いた銀河鉄道に芭蕉一行も乗り込んだかのようです。

2021年7月16日金曜日

平泉(3)-光を求めて

 

(経堂)


(光堂の旧覆堂)


(光堂@新覆堂前にて)

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の屏風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢になるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降り残してや光堂

光堂は中尊寺金色堂。数字の列挙がリズミカル。そして高館のくだりとの暗/明の対比が鮮やか。

 ・・・功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

かたや時が移るなか草むらとなってしまい、かたやいまも黄金色に燦然と光輝いている。流行と不易。かたや戦の結果、かたや仏教による平和希求の結果。長い長い梅雨の五月雨さえ、光堂を避けて通ったのだろうか。

光堂は柳之御所から北西の山上に光輝いて見えていたという。石の巻の金華山、金鶏山につづき光堂。「光」は奥州藤原三代が祈念して求めた平和の象徴なのでしょう。わが事務所も、五月雨が降り残しますように。

2021年7月15日木曜日

平泉(2)ー夢の跡


 (北上川@高館跡から)


(義経堂@高館跡) 


 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな  曽良

北上川、わかりにくいけれど、南部とは岩手県南部地方のことで、写真の左手、北のほうです。そして右手、南のほうへ流れ、モネの登米をへて、石の巻湾に注ぎます。

写真のちょっと左手、支流の衣川が北上川に注いでいます。和泉が城の和泉は、塩竈神社の段ででてきた和泉三郎のことです。最後まで、義経に忠誠を尽くしました。対する泰衡は、三代目秀衡亡きあと、頼朝の圧力に屈して義経を攻め殺してしまいました。

衣川は歌枕です。

 ただちともたのまざらなん身にちかき 衣の関もありといふなり よみ人しらず

衣川の関という言葉は、衣服でへだてていることから、すぐ身近にいながらも男女が関係を結ばないことのたとえとして用いられるようになりました。

これを踏まえて、もう一度、芭蕉の文章を読んでみてください。衣川は、義経に忠実だった和泉三郎の城を巡りて、義経の住まいであった高館の下で北上川に合流していた。これに対し、義経を責め殺した泰衡らの旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えた(どっち向いてんだよ!)。

義経は泰衡軍に攻囲されて、高館で自害して果てました。享年31歳、なんと落合くんと同い歳です。曽良の句にでてくる兼房も義経の義臣。もうだいぶ年で、白毛がトレードマークです。義経の自害を見届け、高館に火を放ち、最後の奮戦をして自害しました。

兼房がなぜ高館に火を放ったのか、なぜその事実が義経記などに特筆されているのでしょうか。敵方の大将や、強い武将はちゃんと死にましたよと世に知らしめることが重要だったんですね。このため世論が納得するよう、京都の六条河原に首をさらしたりしました。

義経は死んでいない、大陸にわたってチンギスハンになったなどという伝説が生まれたのは、兼房が高館を焼いたため義経の死がはっきりしなかったためだったのかもしれません。

芭蕉は触れていませんが、もちろん西行も500年前にここを訪れています。三首。

 とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見にきたる今日しも

 涙をば衣川にぞ流しつる ふるき都をおもひ出でつつ

 衣川みぎはによりてたつ波は きしの松が根をあらふなりけり

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」が杜甫の「春望」から採られていることは、「はなれて奏でる(5)」で述べました。すごくないですか。中国古代の大詩人の詩から、西行の旅と歌、その500年後の芭蕉の旅と句を経て、現代まで。北上川のように、とうとうと流れています。

骨が折れる

 

「店長の骨が折れたので店を休みます」という張り紙を見かけました。

コロナ禍で、何分、苦労の多い飲食業かとお察ししますが、これは本当に骨が折れた話なのでしょうね、慣用句ではなくて。


骨折して苦労することを、慣用句を交えて説明すると、

「骨折れて、骨折れる。」になりますね。どうでもよいですが。


同じような言葉がないかなーと思案すると、ひとつ思いつきました。

「足洗う、から足洗う。」

それだけはやめてくれ~。


富永

2021年7月14日水曜日

平泉(1)ー邯鄲の夢


 (平泉・柳之御所跡。背景に金鶏山)

 きのう、わが事務所の仲間であった落合真吾くんの墓参りに行ってきました。平成24年7月12日が命日、31歳でした。お墓を水で浄め、花を捧げ、線香をたき、冥福を祈りました。

かれは、福岡地裁における最初の裁判員裁判を先進的に引き受けるなど弁護士として有能であったことはもちろん、お客さんだけでなく事務所スタッフにも心配りができるなど、すぐれた人でした。ほんとうに惜しい人をなくしました。

当ブログもかれがはじめてくれました。すこしめんどうくさいですが、過去ログを2010年6月17日までさかのぼれば「ブログ始めました。」という照れ気味の挨拶をきけることでしょう。

花を捧げて死者を追悼する人類の行為は1万2,000年前まで遡ることができるそうです。われわれはなぜ死者を追悼するのでしょうか。

おくのほそ道の旅の大きな目的の一つは、悲劇の死をとげた義経、奥州藤原氏らを弔うこと、すなわち鎮魂にありました。ようやくその目的地である平泉に到着しました。

 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

清衡、基衡、秀衡と三代つづいた奥州藤原氏の栄耀栄華もあっという間、夢のよう。一睡は一炊。お能に『邯鄲』というのがあります。学校でも「邯鄲の夢」もしくは「邯鄲の枕」という言葉を習ったと思います。人の栄枯盛衰は所詮夢にすぎないという言葉です。

ある若者がわずかな畑を耕すだけの人生に疑問を抱き、田舎をでて都をめざして邯鄲に。そこで出会った導師に夢が叶う枕を授けられました(魔法のランプのよう)。枕をつかって眠ると、みるみる出世、名声をえ、嫁をもらい、ところがえん罪を受け、自殺をしようとしたり、波瀾万丈の人生を送り、そして死にました。ふと目覚めると、寝る前に火にかけた粟飯が炊き上がりました。かれは導師に「人生の栄枯盛衰すべてを見ました。ありがとうございました。」と礼をいい、故郷に帰りました。とさ。

 さて夢のあひだは粟飯の、一炊のあひだなり  『邯鄲』

秀吉の辞世の歌も、これを踏まえているのかな。

 露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢

大門の跡は一里こなたにあり。奥州藤原氏の栄華はすさまじく、門から屋敷まで4キロメートルもあったというのです。

ジェームス・ディーンがでていた『ジャイアンツ』という映画だったと思いますが、都会出身のエリザベス・テーラーがテキサスの大富豪のところへ嫁入り。門から屋敷まで車でぶんぶんとばしてもなかなかた辿り着かないシーンがありました。門から屋敷までの距離は、どれだけたくさんお金をもっているかを示すバロメーターになるようです。

芭蕉のころ、秀衡が跡は田野でしたが、いまは柳之御所跡として整備されています。金鶏山はいまも残っています。写真の小山がそうだった記憶ですが、もしかすると高館のある小山だったかもしれません(平泉の旅は夢のようだったので、そこのところの記憶がはっきりしません・・)。

栄耀栄華が一睡の夢だとしても、山は最後まで残る。やはり山に登らねば!強引?いやいや人為に対する自然、不易流行の考えにもとづく見解です(笑)。

「何」とも言えぬ相談事

 

仕事以外でお会いした人に、弁護士ですと言うと、

「何かあったらお願いします。」

と返ってくることが多いように思います。


やっぱり、「何」かあってからお願いする人、トラブルになってから裁判する人、というイメージなのでしょうかね。

実際は、ご相談に来られた方の半分以上が裁判などにはならず、ご相談だけで解決しているように思います。

「何」とも言えぬ相談事でも、早めにご相談いただいた方がよい場合もあります。


私も最近、「何」とも言えぬ体験をしたのでご相談してもよいでしょうか。


とある会議がありました。

建物の2階で行われ、帰ろうとしたとき、ちょうどエレベーターに乗り込む方がおられました。

私も乗ります、と早足で駆け込むと、

「上ですけどいいですか。」とのこと。

「すみません、間違えました。」と慌てて降りました。恥ずかしいので、さも最初から待っていましたみたいな顔をして、下のボタンを押し、もう1台のエレベーターが来るのを待ちます。

その横を、会議に参加されていた年配の方が、いかにも

「若輩者が!2階ごときで何をエレベーターを使っとるんじゃ!」

という表情を浮かべながら、

「お疲れ様です。」と述べて階段を降りて行かれました。


「何」とも言えぬ、いたたまれない体験でした。

えっ、最初から階段使いなさいって?おっしゃるとおりです。


富永

2021年7月13日火曜日

大雪山~トムラウシ山縦走


 師匠の旅は平泉、岩手県まで来ました。この旅で最北です。せっかくなので、蝦夷地まで足をのばしてきました。

大雪山の最高峰である旭岳をスタート。間宮岳、北海岳、白雲岳を経て、白雲岳避難小屋で一泊。

二日目は、高根ヶ原、忠別岳、五色岳、化雲岳を経て、ひさご沼避難小屋で一泊。

三日目は、日本庭園、ロックガーデンを経て、トムラウシ山頂。そこから前トム平、コマドリ沢を経て、トムラウシ温泉・東大雪荘まで。

天気は曇り、最終日ロックガーデンからは雨でした。が、高山植物はさかりでした。エゾシカ、エゾサンショウウオなどのほか、ヒグマにも遭遇しました。

ステイホームでなまった体を叱咤しつつも、大自然にふかく癒された山旅でした。

警察のDNAデータベースの拡充について


脈絡のない話で申し訳ないのですが、私、阪神ファンなんです。プロ野球の。

現在セ・リーグ首位の阪神。一時は独走状態でしたが、徐々に2位巨人とのゲーム差が小さくなってきました。

何と言っても、13ゲーム差をひっくり返されて優勝を逃したのも北京オリンピックイヤーの2008年のこと。阪神の優勝なんて・・・という阪神ファンならぬ半信ファンの方もまだまだ多いことでしょう。 昨日は、なんとかDeNAに勝って、貯金を増やしたようですが・・・。



増やしているといえば、DNAも増やしているそうです。

何のことかと言うと、警察が、捜査で取得するDNAのデータベースが年々拡充されているという話。

弁護士会の仕事で、警察庁に情報公開請求したところによると、令和2年までで、被疑者から取得したDNAのデータベース件数が140万件を超えていました。


このデータベース、犯罪の捜査で、遺留DNAと対照するなど、役に立つものではありますが、法律の根拠なく収集されており、警察庁の通達もあって、犯罪の種類にかかわらず、被疑者からは積極的に収集されているようです。


「それの何が問題なのか?悪いことした人から採取しているんでしょ?」という考えもあるところですが、犯罪の種類にかかわらず、というのがなかなか怖いところです。

例えば、迷子のペットを探していますという張り紙を電柱に貼ったことが条例違反にあたるという理由で警察から調べられ、DNAまで採取されたという事案もあります。


1度データベースにDNA型が登録されると、本人が死亡するか、99歳に達した場合でなければ削除されないというのが現在の警察庁の運用のようです。


DNAの採取は、令状がない限り強制できないものですから、データベースを拡充するために広く採取する現在の運用にも問題があるように思います。


増やすのは、阪神のDeNAに対する勝ち星くらいにしてほしいものです。


富永

2021年7月12日月曜日

し~ず・うみ法律講座「子どもに関する法律問題」

 


先日、6月24日に、し~ず・うみ(福岡県糟屋郡宇美町宇美2-1-11)において、井上弁護士による「子どもに関する法律問題~大切な子どもさんと笑顔で過ごすために~」と題する法律講座を行いました。


いじめ、学校事故、少年事件、離婚時の親権・面会交流など、子どもに関する法律問題について、経験を踏まえ、事例を交えて講演を行いました。


11名の方に受講いただき、「法律相談を身近に感じられるように思いました。」「実例をまじえて話をしてくださったのでわかりやすかったです。」などのご感想をいただきました。


次回は、7月15日(木)19時から、し~ず・うみにおいて、向井弁護士による「交通事故」の法律講座が行われます。

参加費500円、コロナ感染対策に伴い事前の申込が必要ですので、申込みは下記までお願いいたします。


宇美町働く婦人の家 し~ず・うみ TEL 092-932-0365


富永

2021年7月6日火曜日

あたらしい歌枕・登米


(モネの睡蓮@ビュールレ展)

  思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿を借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遙かなる堤を行く。戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

思いがけず石の巻に来て、宿を借りようとしたけれども借りられず、平泉にむけて出発したけれどまた道に迷い、袖の渡りなどの歌枕には行き損ねたらしい。またまたほんとうでしょうか。

ここも『曽良随行日記』によれば、事実と異なっていて、実際はそれなりのもてなしを受け、道迷いもなかったらしい。芭蕉がこのように旅程を困難に暗く書いているのは、念願の目的地である平泉や金色堂をより光かがやかすためであるとされています。

芭蕉は『笈の小文』で、紀行文とは何かについて、こんなことを書いています。

 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどといふ事、たれゝもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なけれ。

小・中学校のときに、日記の書き方について、先生から指導されたとおり。朝起きて、顔洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、着替えて・・・ということを書いてもしかたがない。なにかしら新しいことや興味あることを書かないと、面白くないし意味がないというわけです。

 されども其所ゝの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの糧となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所ゝ跡や先やと書集侍るぞ、猶酔者の妄語にひとしく、いねる人之譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。

とは言っても、いろいろと旅の思い出などを書き連ねるので、フィクションと思って話半分に聞いて欲しい。なるほど、分かりました。

松島から平泉まで、姉歯の松、緒絶えの橋、袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱原という5つの歌枕がありましたが、全部スルー。各歌枕の地元の観光協会としてはさぞかし悲憤慷慨でしょう。

「昔より詠み置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬことのみ」(多賀城碑の段)なので、歌枕を尋ねる気力が失せたのでしょうか。

そして歌枕をスルーして遙かなる堤を行く。遙かなる堤は北上川の土手です。そして芭蕉一行は、戸伊摩(といま)といふ所に一宿しました。

戸伊摩って、どこか分かりますか。いまの登米町(とよままち)です。登米って、どこか分かりますか。いまのNHK朝ドラ『おかえりモネ』で、主人公の百音ちゃんが夏木マリの家に下宿して森林組合の職員として働いているところです。

百音ちゃんは、いま気象予報士めざして勉強に励んでいます。ひとつまえの石の巻で、日和見(観天望気)の話をしましたので、うまいぐあいに響きあっています。

モネちゃんは百音と表記されていることから、音と関係が深いのでしょう。主題歌はBUMP OF CHICKENの「なないろ」です。なないろは、もちろん虹の色でしょうが、百音ともひびきあっているのでしょう。

歌を歌った場所が歌枕だとするなら、登米は最新の歌枕じゃないでしょうか。♪闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって・・それでもいい これはぼくの旅

ということで、道迷いしながらも、芭蕉の旅は念願の平泉に至ったのでした。パチパチ。

2021年7月5日月曜日

こがね花咲く・石の巻

 

 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道ふみたがへて石の巻といふ港町に出づ。「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。

芭蕉一行は、松島から平泉をめざしました。途中、姉歯の松、緒絶えの橋などの歌枕を尋ねようとしたものの、道に迷ってしまい、あやまって石の巻についてしまったというのです。ほんとうでしょうか。

『曽良随行日記』によると、実は迷ってはいないらしい。ではなぜ真実のとおり書かなかったのか。人から、姉歯の松はどうでした?緒絶えの橋はどうでした?と訊かれたときに、道に迷いましてな・・・というかんじでしょうか。

ともあれ、芭蕉らは石の巻にある日和山にのぼったらしい。日和山は漁港であればたいがいどこにでもあり、観天望気(天気予報)をするために登る小高い山です。日和見主義とかいうばあいの日和見です。

そこから、まず「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山が見えたといいます。この歌を詠んだのは、松島夜泊で予告した大伴家持です。

大伴家持は、西鉄を毎日走っている旅人の子で、万葉集を編んだといわれています。この歌を詠んだ当時は、越中の国司(富山県知事)。おくのほそ道の後半、奈呉の浦を訪れたときにまたまた登場する予定です。

家持が歌を詠んで奉った相手は聖武天皇。当時、奈良の大仏を建立の途中でした。そして、仕上げのお化粧をする黄金が手に入らないなあと困ってありました。

するとなんというグッドタイミング、奥州のほうから黄金が見つかっりましたぞ~と献上されてきたのでした。

いまの大仏さまを見て金でコーティングされていたといわれてもピンときませんが、光背や脇侍を見ればいまでも金キラキンです。

黄金の献上を祝して元号は天平から天平感宝へ変更。家持の歌もこれを祝したものです。もちろん万葉集歌。

 すめろきの御代栄えむとあづまなる みちのく山に黄金華咲く

芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』の旅で奈良をたびたび訪れ、二月堂のお水取りにも参加していますが、大仏についての記述はありません。芭蕉の美的感覚にあわなかったのかなあと思いましたら、当時は松永久秀(吉田剛太郎@麒麟が来る)が焼いてしまって復興まえだったよう。

奥州の黄金は、奥州藤原氏の繁栄の源泉でもありました。平泉の金色堂は奥州で金が産出されていたことの象徴です。芭蕉があえて道迷いしたわけは、平泉をまえにこうした効果をだすためだったのかもしれません。

金華山は恐山、出羽三山とともに奥州三霊場の一つ。三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはないそうです。

ところがなんと、金華山は石の巻からは見えません。金華山は牡鹿半島の東北に位置していて、半島にじゃまされて見えないのです。それを心の目で見てしまう、いや見えてしまったほうがより効果的、芭蕉はそう考えたのでしょう。

「金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。」という部分は、やはり舒明天皇の万葉集歌を本歌ないし俤にしていますかね。

 大和には群山あれどとりよろふ、天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ、うまし国ぞ蜻蛉洲大和の国は

ところで石の巻は石ノ森章太郎の故郷です。いまの人なら『仮面ライダー』、ぼくらの世代なら『サイボーグ009』の作者。石の巻→石ノ森、めちゃ覚えやすいです。

古代のみならず現代のヒーローをもうみだした石の巻、とりわけお金に困らなくなる金華山、道迷いしてでも行きたいところです。

2021年7月2日金曜日

瑞巌寺(2)

 

 『牛島税理士物語』を読みふけることは、新人弁護士にとって急を要し、絶対必要なことだと思いますね(鼻息荒く、まえのめり気味に)。若書きで、読みにくいことは認めますが。さて、

 その後に雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光をかかやかし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。

きのうの法身上人の活躍のあと、ふたたび瑞巌寺は廃れてしまいました。江戸時代に入り、伊達の殿様の招きで寺を再興したのが雲居禅師。雄島の磯の段で紹介した人物です。

その徳化により、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなりました。パチパチ。

ふぅ、つかれた(伊達の殿様のてまえ、せいいっぱい、ヨイショしたので)。東大寺の大仏も立派だけれども、そのあとは興福寺の阿修羅にあいたいよね。清水寺、知恩院の大伽藍もいいけど、そのあとは修学院、詩仙堂あたりで息抜きしたいよね。みたいな気分。

こんな気分になった芭蕉が思い浮かべたのは見仏聖。芭蕉の慕う西行ゆかりの人です。別名「月まつしまの聖」。もちろん「月の松島」と「月待つ」がかけられています。

彼の寺はいづくにや。答えは、寺ではなく、妙覚庵という草庵で、場所は雄島です(雄島の磯の段、2つ目の写真)。

聖は12年間まったく島からでないで、毎日法華経を読誦。そして人びとに法華経を授け、法華浄土への往生を説いて死後の不安を解消させました。

六根すでに浄く、能く神物を使役し、霊異すこぶる多し。神物を使役するとは、役行者か陰陽師・安倍晴明のようですね。死者の声を伝達し、空飛ぶ超能力もありました。そこから「空の聖」の別名も。

西行は諸国遍歴中、能登稲津で聖に出会いました。彼は岩窟で帷子のみで端座修行中でした(あれれ、12年間まったく雄島からでないで修行したのではないの?)

聖は「毎月10日ばかりここに必ずくるが、本来住んでいるところは松島である」と言ったそうです。毎月10日を能登で、残りを松島で修行するには、もちろん空を飛んで、県をまたいで行き来するしかありません。

西行はそれを聞いて、感涙にむせびつつ、その場から松島を目指したそうです(西行作とされていた『撰集抄』)。さすが西行、月見るだけで涙する感受性躍如。

このような現実と夢を自在に行き来する感覚と能力、すばらしいですね。トミーももっと修行を積めば、現実と夢を自由に行き来することができるようになることでしょう。さすれば、車中で寝過ごすなどという失態をしでかすことは・・・。

2021年7月1日木曜日

不要不急の県をまたぐ移動は控えましょう・・・


東区役所での法律相談に行きました。

つつがなく相談が終了し、帰りは吉塚駅からJRで事務所へ向かいます。

乗り換えもないし、二日市駅まで本でも読もうかと、『牛島税理士訴訟物語』を読み始めました。

U先生のノリノリ憲法判決のひとつです。

「ちくし法律事務所」の日常: ノリノリ憲法判決 (chikushi-lo.jp)


長らく積ん読になっていましたが、ようやく手に取りました。

読書していて、ふと顔を上げると、原田駅を通過。

「ん?原田駅ってどこだっけ?」

「次は、基山」とのアナウンス。

いつの間にか、佐賀県へ。

不急どころか、まさに不要な県をまたぐ移動。

すみません、すぐ帰ります。

滞在時間5分でとんぼ帰りしました。


なぜ佐賀まで来てしまったかって?

それは本を読んでいたらぼーっと・・・、もとい、夢中で読んでいたからです。


富永

瑞巌寺(1)




  十一日、瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。

瑞巌寺といえば、われわれが小学生のときは、音楽の副読本により、民謡「斎太郎節」を習いました。♪エンヤードット 松島~の 瑞巌寺ほどの 寺もない~という。ドリフターズがアレンジしたやつです。いまはもう習わないのでしょうか。

いま瑞巌寺は、奥州平泉の中尊寺、毛越寺、出羽の立石寺とともに「四寺回廊」という観光・巡礼コースになっています。

このあたりのお寺はだいたい慈覚大師・円仁が創建したとされています。円仁は最澄のあとをついだ天台宗の高僧で、上記四寺はみな円仁の創建と伝えられています。

ところが瑞巌寺は現在、臨済宗のお寺。黒羽の雲巌寺、京都の妙心寺や博多の聖福寺などとおなじです。あれれ。いつのまに。

瑞巌寺はもともとは天台宗だったところ、鎌倉時代のなかごろ、臨済宗になっています。その際の開山が芭蕉のいう真壁の平四郎あらため法身禅師です。

時代は5代執権・北条時頼のとき。かれは、水戸黄門のモデルになった人で(つまり、水戸光圀本人は諸国を漫遊するような人ではなかった)、諸国を旅して民情視察を行ったという廻国伝説があります。

能『鉢木』の題材にもなっていて、日本史の教科書にコラムで紹介されていました(ご恩と奉公の封建関係を示す逸話として)。いまはどうでしょう。北鎌倉などを散策していると、精進料理屋の看板に見かけますが。

ある雪の日、旅の僧が上州で難渋して、貧乏武士である常世の家に宿を請いました。常世は、たいせつにしていた梅、桜、松の鉢の木を薪にして暖をとり、貧しいながらできるかぎりのもてなしをします。そして零落し貧しくとも鎌倉武士のはしくれとして、「いざ、鎌倉」のときは鎌倉にはせ参じるつもりだと話します。

後日、関東武士団に鎌倉集合の号令がかかりました。集まった武士のなかに、痩せ馬に乗った常世の姿もありました。旅僧はじつは北条時頼。水戸黄門でいえば「ええい、ひかえ、ひかえい。ここにおわすはどなたとこころえる・・。」の場面です。時頼は常世の奉公に対し、梅、桜、松の名のつく領地を与えます。

この時頼が瑞巌寺あたりを廻国した際、法身に命じて、天台宗から臨済宗にあらためさせたのだとか。中世ですからお寺も領主さま、時頼としては自分の息のかかった寺にしたかったのでしょうね。

ところで『鉢木』の名台詞のなかに「松はもとより煙にて、薪となるも理や」というのがあります。それが江戸時代、徳川家=松平氏に遠慮して、「松はもとより常磐にて、薪となるは梅桜」と変えられていたとか。

江戸時代の人たちは、言葉や名前を大切にし、言霊とかも信じていたのでしょうね(もちろん、言論の不自由もあったでしょうが)。ここらあたりに、松尾・芭蕉が松や松島がだいすきだった理由の一端があったのでしょう。この線で行くと、彼は松の尾、徳川=松平の隠密だったという説の傍証にもなりそうです。ははは。