2023年6月30日金曜日
大学入学選考で黒人など人種考慮は違憲@アメリカ連邦最高裁
2023年6月29日木曜日
アール・ヌーヴォーのガラス ガレとドームの自然賛歌
「出し遅れの証文」という言葉がある。裁判というのは適時に証拠を出さないといけない。いかに真実であっても、証拠を出し遅れると、敗訴を免れない。そういう意味だ。
そういう意味では、会期の終了した特別展の報告をするのも、「出し遅れの証文」にちがいない。しかし、ま、本ブログは仕事をはなれた筆者らの日常を報告するものであるから、許されたい。
国立九州博物館でやっていた「アール・ヌーヴォーのガラス ガレとドームの自然賛歌」という特別展に行ってきた。
同特別展を九博でやっているのは知っていた。しかしアール・ヌーヴォーのガラス器は箱根のラリック美術館などで見知っていた。
もっといえば、フレンチのレストランひらまつに行けば、テーブルの装飾に無造作に置いてある。それで今回はパスしようかと思っていた。
すると、事務所ニュース夏号に寄稿していただく版画について打合せをしていた際、大場敬介先生がぜひ行ったほうがよいと力説された。アール・ヌーヴォーだけでなく、人類とガラス器の長い歴史の紹介がすばらしいのだという。
会期は明後日までだ。それならということで、あわてて行ってきた(こういうアドバイスは天の声だと思っているので)。
たしかに、よかった。メソポタミア、エジブトにはじまり、ガラス器は人類の歴史とともに発展したきたのだということがよく分かった(ただし、ぼくの場合、岡山のオリエント美術館へ行ってきたばかりなので、大場先生より感動がうすい)。
アール・ヌーヴォーについても認識をあらためることができた。これまではなんとなく、世紀末のデカダン(退廃的)なイメージをもっていたのだ。
認識をあらためた第1は、現代に通じる響き。ガレは1846年フランスはロレーヌ地方に生まれた。小学校か中学校でドーデの『最後の授業』を習ったと思う。
1871年普仏戦争に敗れたフランスは、アルザスとロレーヌ地方を割譲することになる。それまでまじめに勉強してこなかった主人公は、ある日、フランス語による授業が最後であることを知る。なぜ、いままでちゃんとフランス語を勉強してこなかったのか。ビブ・ラ・フランス!
ガレ25歳、祖国存亡の危機。義勇軍に志願したが、祖国は敗れてしまう。戦後は、祖国の窮状をガラス器等により、文化的に回復を図ろうとする。いわずもがな、ウクライナ戦争とその戦後復興に思いが流れる。
認識をあらためた第2は、日本文化とのつながり。印象派と浮世絵とのつながりはよく知られている。ほぼ同時代人であるガレやドームがこのジャポニズムの影響から無縁ではありえない。
美術・文化を革新していこうとするとき(アール・ヌーヴォーとは、新・芸術の意味)、日本文化はとても参考になったようだ。
器に描かれたカマキリや昆虫のモチーフは、われわれが自然と接する際のスタンスとおなじものだ。山を愛する筆者にとっても、とても近しく感じられた。毎日らんまんなこの時期はとくに。
2023年6月28日水曜日
指示代名詞急増中!まだ笑うところじゃないから!
わが事務所の秘書さんたちは優秀だ。「あの人の記録あるかな?」と言っただけで、その記録がでてくる。指示代名詞だけで通用する。阿吽の呼吸とはこのことだ。
ときどき「なんでわかったの?」と尋ねたくなる。こちらの頭のなかが正確に読まれているということだ。かのじょたちは連想ゲームに強いにちがいない。
最近は「あれ誰だっけ?」とか、「あの資料のことだけど?」など、当職の指示代名詞が急増している。かかる状況に対し、さすがに対応しきれない事態もときに発生している。
先日も、ある事件の相手方の弁護士の名前が思い出せなかった。いつもどおり「あの相手方の弁護士は誰だったっけ?」と問いかけたところ、「石井先生でしょうか?」との回答だった。
一瞬頭のなかが空白となったものの、「そうそう梅田先生だったね。」と返した。すると、事務所の1階フロアが大爆笑につつまれた。
医療問題研究会という弁護士グループに所属している。医療過誤訴訟は難しいので、みなで知恵を出し合い乗り越えていこうという会である。薬害エイズ、らい予防法違憲、薬害肝炎など困難な集団訴訟も中核はみな研究会所属弁護士がになっている。
なかでも小林弁護士は医療にくわしい。医者よりくわしい。あるとき、かれが虫垂炎になったことがあった。
腹痛をおぼえて済生会病院を受診したところ、医師はただの腹痛だから帰宅するように言った。しかし、かれは虫垂炎であると訴え、がんばって入院させてもらった。翌朝なんと、かれの自己診断が正しかったことが判明した。
かれが自己診断の根拠にしたのは、ブルンベルグ徴候である。普通の腹痛は押すと痛い。しかし、虫垂炎のときは、押すときは痛みはなく、離すときに痛みを感じる。人間の体は不思議だ。
さいきんのわが記憶もそうだ。なんだったっけ?と、意識的に記憶のネットワークをさぐっているときは、きまって思い出せない。しかし、他のことに意識を向けた瞬間、記憶が蘇ってくるのだ。
このときもそうだ。「あの相手方の弁護士は誰だっけ?」という問いかけに集中していると、いつまで経っても思い出せない。しかし、「石井先生でしょうか?」と返しがあったために、「それはちがうな。」と頭が反応した。その結果、あら不思議!?梅田先生の名前が浮かんできたのだ。間接アプローチという、そうとう高度な阿吽の呼吸。
翌日。れいによって「あれ誰だっけ?」と問いかけたら、他の秘書さんが早くもクスクス笑い出した。「ちょっと待てよ。」(キムタクふうに)「まだ笑うところじゃないから!」
2023年6月27日火曜日
関西の旅(5)総持寺、勝尾寺、箕面滝
2023年6月26日月曜日
関西の旅(4)ハマナデシコとモンキアゲハ
日出の石門の背後は崖になっている。崖にはところどころにハマナデシコが咲いていた。そしてハマナデシコにはモンキアゲハが蜜を求めて群れていた。
アサギマダラが渡りをするのはやはり秋だそう。残念ながらいまの時期、アサギマダラを見ることはできなかった。
万葉歌碑のあたりにはフジバカマが植えられていた。アサギマダラの好物はフジバカマの蜜。秋にはフジバカマが咲き、アサギマダラが群れるのだろう。
ハマナデシコもフジバカマも虫媒花というわけだ。花は虫に蜜を提供するかわり、雄しべの花粉を雌しべに運んでもらっているわけだ。
相互依存。一方が絶滅してしまうと、他方も絶滅してしまう。
アサギマダラが渡りをするのは、このような花の蜜の北上を追ってのことだろう。鷹が渡りをするのも、これら昆虫を追ってのことだろう。
モンキアゲハの羽に黄色い紋があるのは、鳥除けのためにベランダに大きな目玉をつるすのと同じ効果があるのかもしれない。
花の蜜を求めて移動する養蜂家がいる。われわれも、山の花や紅葉を求めてあちこち移動する。花と相互依存する昆虫や、渡りをする生き物にはとても親近感を覚える。
2023年6月23日金曜日
関西の旅(3)伊良湖崎
伊良湖崎では、自転車をレンタルして周辺を散策した。着岸してすぐのところに道の駅があり、そこで借りることができた。電動なので(初めて乗った)、らくちん。
まずは遊歩道をとおって岬を半周した。突端に灯台がある。外国人が多い。ハマナデシコの花が咲いていて、モンキアゲハが蜜を吸っている。その写真を撮っていた。
灯台から先は太平洋がひろがっている。さきほどフェリーで通過してきた神島も見えている。案内板があり、南方から鷹やアサギマダラが渡ってくるとの説明がなされている。
半島を半周すると恋路ヶ浜に着く。恋人たちの聖地で、プロポーズの場所として人気のスポットだそう。そうなのか!残念ながら、自分では使えそうもない知識である。
西側の岩陰ではカップルが親密そうに話をしている。プロポーズだろうか。東側の浜辺では親子連れがボール遊びをしている。その向こうにはこのあとで向かう「日出の石門(ひいのせきもん)」が見えている。
あたりは海鮮の店が並んでいる。ちょうど昼どきだったので、タコのピザを食べた。おいしい。
そこから少し山に登るかたちで戻ると、万葉歌碑がある。麻続王の歌が紹介されている。この歌については以前書いた。http://blog.chikushi-lo.jp/2023/06/blog-post_9.html
途中、フジバカマを植えているので踏まないようにと注意書きがあった。フジバカマはアサギマダラの大好物である。
さて「日出の石門」へ。恋路ヶ浜から42号線を東へ向かう。まっすぐ行くと浜松に着くようだ。それなりの坂なのだけれど、電動自転車なのでなんのことはない。
左手にオーシャンリゾートホテルがあり、このへんのはずだがと思い、坂をくだりはじめたころ、右手に降りていく道が見つかった。
坂をおりると、「椰子の実」の歌碑があった。これについても前に書いた。http://blog.chikushi-lo.jp/2023/06/blog-post_14.html
さこから先、急な階段を降りると、火曜サスペンスにつかえそうな断崖である。♪ジャンジャンジャーン~頭のなかでメロディーが鳴る。
さらに階段を降りると、「日出の石門」に着いた。なかなかの奇岩である。独特の雰囲気がある。NHK大河「どうする家康」のロケもおこなわれたらしい。
案内板が立っている。そのまま引用しよう。
日出の石門は、とても緻密で固いチャートという堆積岩でできている。
このチャートは、約二億年前に、放散虫の殻などの珪酸分が、はるか南方の海洋底に沈殿してできた。
その後、太平洋プレートの移動とともに、現在の位置に運ばれてきた。
層状に堆積したチャートは、海底地すべりや強い圧力で衝突したため変形した。うねるような褶曲や、褶曲を断ち切る断層は、過去の変動の記録でもある。
石門の洞穴は、断層により破砕されもろくなった部分が、長い間に波の力で浸食されて、海食洞になったものである。
チャートといえば、みなさん受験期にお世話になった参考書を思い浮かべることだろう。毎日のコツコツとした努力の積み重ねが固い知識層となって、受験に合格する(はずだ)。
伊良湖崎は、とてもロマンチックなところだ。黒潮に乗って、鷹やアサギマダラが、そして椰子の実が渡ってくる。さらに、太平洋プレートの移動とともに、日出の門までが太平洋を渡ってきたのである。
2023年6月22日木曜日
関西の旅(2)神島
2023年6月21日水曜日
関西の旅(1)伊賀上野
2023年6月20日火曜日
笈の小文(5)源氏物語か平家物語か
『笈の小文』と秋の関係について、もう一つの考えは『笈の小文』には秋の景を描ききれなかったということが考えられる。
それは弟子の乙州が芭蕉の死後、『笈の小文』と『更科紀行』をセットで出版したことにあらわれている。
『笈の小文』の旅と『更科紀行』の旅は、実際には同じ旅。すなわち江戸を出発し、故郷の伊賀で年を越し、流刑中の杜国と関西の歌枕を旅し(京都で別れ)、さらに名古屋から木曾谷を経て信州更科で月見をして江戸に帰るという旅である。
旅行記であれば、一つのストーリーで完結したはず。しかし創作を含む紀行なので、芭蕉のなかで迷いがあったのではなかろうか。最後まで迷いは解決せず、未定稿のまま残されたのではなかろうか。
その迷いは、『更科紀行』を合体した構成にするのか、分離した構成にするのか。合体させれば、冬、春、夏ときた『笈の小文』の旅は秋で完結することになる。しかし、そうすることを憚らせる事情があった。
『笈の小文』は単なる四季の旅の記録ではない。愛する杜国との逃避行の旅の記録でもある。伊良湖岬で出会い、伊勢で合流した二人は、吉野の桜を愛で、関西の歌枕を尋ね、須磨・明石を経て、京都で別れる。
むかしある少年Aの付添人をしたことがあった。成人と異なり、少年には試験観察という中間処分がある。そのまま最終処分をすれば少年院送致になるのだが、がんばれば立ち直れるのではないかという少年用の処分。
試験観察には家庭でおこなうものだけでなく、家裁が委託した仕事先でおこなうもの(補導委託)がある。少年Aは筑後地区で仕事を提供する補導委託先に半年ほど預けられた。
ところが、しばらくして彼は補導委託先から逃げ、当職のもとを訪ねてきた。もう18時を過ぎていた。追い返すわけにもいかない。家庭裁判所(当直)にはその旨一報を入れた。
とりあえずその日は近くのホテルのツインの部屋を借りて、ふたりして宿泊した。そして翌朝、家裁にあらためて連絡した。
家裁では大騒動に発展していた。ま、非行少年が逃亡したわけだから、逃亡罪という犯罪である。当職も下手をすると、その援助罪が成立する可能性があった。家裁からはきつくお叱りを受けた。
流刑中の杜国と芭蕉の旅を読むと、いつもこの事件のことを思い出す。芭蕉たちは、つかまれば大罪を問われる覚悟をしていただろう。愛の逃避行である。
関西各地の歌枕を旅した芭蕉たちは須磨までやってきた。目の前は明石海峡を経て淡路島。明石海峡は須磨と明石を左右に分けている。いわく。
淡路島手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまゞの境にもおもひなぞらふるべし。
呉楚東南の詠とは、むかし漢詩でならった杜甫の「登岳陽楼」である。いわく。
昔聞く洞庭水、今上岳陽楼、呉楚東南折、乾坤日夜浮
芭蕉たちは、地形的に、大きな岐路に立っていた。文学的にも岐路に立っていた。源氏物語路線か平家物語路線かである。
源氏物語では罪を得た源氏は須磨で流寓したのち、明石で罪をあかして都へ帰っていく。平家物語では、平家の公達や女房たちの多くはここで滅亡してしまう。
芭蕉は、実際の旅でも、『笈の小文』の筆のうえでも、ここで迷ったのではなかろうか。そのすえ、平家物語の滅亡のイメージが優勢となり、杜国と分かれる決心をすることになったと思われる。
2023年6月16日金曜日
笈の小文(4)わびさび
『笈の小文』には、四時を友とすといいつつ、秋が描かれていない。それはヘミングウェイがいうところ「氷山の理論」による省筆によるものである。と書いた。こう書くと、ヘミングウェイは芭蕉より300年くらい後の人であるから、ちがうのではないかという意見もあろう。
しかし俳句という文芸そのものが、ある意味「氷山の理論」によってつくられている。「氷山の理論」とはこうだった。
もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。
そもそも俳句のばあい、五七五の17文字でつくらなければならないという制約がある。小説のように、言葉を尽くして、すべてを描ききることはできない。
17文字であれば、氷面上の部分だけしか描写できない。氷面下に隠された八分の七の部分は読者の想像にゆだねるほかない。
もちろん『笈の小文』は紀行文であるから、小説のように書くこともできたであろう。しかし芭蕉の頭のなかでは句作とおなじ意識がはたらいていたのではなかろうか。
芭蕉の俳句には「わびさび」の精神があるといわれる。わびさびとは、質素なものにこそ趣があると感じる心や、時の経過によってあらわれる美しさをいう。それは以下の代表句にあらわれている。
古池やかわずとびこむ水の音
閑さや岩にしみ入る蝉の声
紀行文も、「わびさび」の精神で書くとき、もっとも大事な部分を省筆して、読者の想像にゆだねることになる。
一番の例は『おくのほそ道』の松島の段。松島(の月)は『おくのほそ道』の旅のクライマックスである。しかるに、芭蕉は句をつくっていない・・ことになっている。
松島やああ松島や松島や
人口に膾炙しているが、偽作。
島々や千々に砕けて夏の海 (「蕉翁句集」)
実際にはこの句を詠んだ。しかし『おくのほそ道』では、松島のあまりの素晴らしさに詠めなかったことになっている。いわく。
・・その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。・・予は口を閉じて眠らんとしていねられず。・・
『おくのほそ道』は冒頭、「松島の月まづ心にかかりて」にはじまる。こうして読者の期待をさんざんじらしたうえで、クライマックスでの省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。
『笈の小文』でも、クライマックスは吉野の桜である。ここでも芭蕉は実際には句を詠んでいる。
花ざかり山は日ごろのあさぼらけ
しかしやはり『笈の小文』では句が詠めなかったことになっている。いわく。
よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、・・われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとじたる、いと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。
こちらも出発にあたり、「そゞろにうき立つ心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ話におもひ立んとするに」とか、「よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠」などと読者の期待をあおっている。そうして読者の期待を十二分にふくらませたうえ、クライマックスでのストイックな省筆。読者のイメージは爆発せざるをえない。
おなじようにして、芭蕉は『笈の小文』の秋を描かなかったと考えることはできよう。
※そういえば、芭蕉とヘミングウェイは似ている気がする。
2023年6月15日木曜日
笈の小文(3)四時を友とす
さて、ここからが本論。今回『笈の小文』を読んでいて、気づいた点が2つある。
まずは、四時を友とすること。
『笈の小文』は読みにくいと書いた。江戸を出て、故郷伊賀を経て、関西各地の歌枕を遍歴する紀行文なので、起承転結、序破急がなく、まとまりがないように感じるのである。
しかし、よく考えればあたりまえなのなのだけれども、季語を華とする俳句をちりばめた紀行文なのであるから、バックボーンは四季である。
そう思って読むと、冬にはじまり、春をクライマックスとして、夏に幕を閉じている。ちゃんと序破急で構成されているではないか。
冬のメインは伊良湖岬における冬の鷹、春のメインは吉野における観桜、夏の〆は須磨における平家滅亡の幻視である。
そう考えて、よくよく読めば、冒頭にちゃんとこう書いてある。
風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。
四時とは四季のこと。つまり、四季を友として書いているからよろしく、ということである。
ただし、そうすると大きな問題が残る。お分かりと思うけれど、秋がなくてもよいのだろうか。四季のなかで、秋がもっとも趣があり好きという向きも多い。夏で終わってしまうと、三時しか友にしていないのではなかろうか。
ひとつの考え方としては、わざと書かなかったということ。ヘミングウェイのいうところの「氷山の理論」。いわく。
もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、氷面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。
さてわれわれは、『笈の小文』を読んで、省略された秋の部分を強く感得できるだろうか。最後の部分、平家滅亡の幻視で文を結ぶ直前の記述はこうなっている。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
かかる所の穐(あき)なりけりとかや。此裏の実(まこと)は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさはいはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。
月といえば秋。ただ月といえば、秋の月をさす。春の花、冬の雪とともに、秋の月は日本の四季を代表する。しかるに、ここでは夏の月となっている。蛸壺のなかの蛸がみている夢がはかないのは夏の月ととりあわせになっているからである。
「かかる所の穐なりけるとかや。」は『源氏物語』の「須磨」段によっている。いわく。
須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。
在原行平の歌はこう。
旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風
というわけで、少なくとも昔の文人は、須磨と聞いただけで、行平、源氏、平家滅亡という歴史的・多層的な秋のイメージを思い浮かべることができた。
『笈の小文』のラスト、芭蕉は秋の情景を描いていないけれども、源氏物語や行平の歌のイメージを援用しつつ、須磨の秋の情景を感得するよう読者に促しているのである。
(つづく)
2023年6月14日水曜日
笈の小文(2)椰子の実
というわけで、『笈の小文』は何度か読んでいたのだけれど、いま一つ浸りきれないと思っていた。芭蕉が自分で書いたものかどうか分からないし、未定稿だし、『おくのほそ道』に比べて地の文が少なく、はなはだ読みにくいのである。
『笈の小文』に出てくる土地々も、『おくのほそ道』に比べると、発句が1句あるきりで地の文がなかったりする。伊良湖崎も、そういう意味で字面では理解しつつも、抽象的な存在であった。
ところが昨年末、恩師がここを訪ねたとSNSに投稿された。そして島崎藤村の「椰子の実」の歌碑も見学されたという。
藤村は『夜明け前』を書いたあの藤村である。藤村の「椰子の実」の歌はこう。
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
旧の木は生いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身の浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば
新なり流離の憂
海の日の沈むを見れば
激り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々
いずれの日にか国に帰らん
先に書いたとおり、伊良湖崎は本州の南端。南の国から鷹も渡ってくれば、椰子の実も渡ってくるのである。もしかすると、アサギマダラも渡ってくるかもしれない。
先日「ブラタモリ」で、種子島をやっていた。種子島には世界最大規模の海流である黒潮が南からやってくる。戦国時代、種子島銃を舶載したポルトガル船がやってきたのも、黒潮に流されてのことだという。
日本には南からいろんなものや文化がやって来るのだ。藤村はそれをきわめてロマンチックに歌っている。
しかしである。藤村はわがことのように歌っているが、実は椰子の実を見つけたのは、学友だった柳田國男である。柳田國男は『遠野物語』を書いたあの柳田國男。藤村は柳田から聞いた話を歌にしたてた。いまふうに言えば、藤村は柳田の経験をパクったのである。しかし、ここまで立派な歌になると、単なるパクリとはいえない。
話を戻すと、恩師の投稿をきっかけに、俄然、頭のなかを鷹や椰子の実やアサギマダラらが行き交い、伊良湖岬という名が生き生きと脈打つようになった。
かくて、旅好きとしては、是非一度尋ねてみたいと思うようになった。『笈の小文』をいま読み返している理由は、そういうことである。
2023年6月9日金曜日
笈の小文(1)伊良湖岬
芭蕉の紀行文に『笈の小文(おいのこぶみ)』がある。『おくのほそ道』の旅にでかける2年前、江戸から故郷の伊賀へ帰る里帰りの旅である。
里帰りだけでなく、関西各地の歌枕をめぐり、最後は須磨までの紀行文である(実際の旅は、その後、関西の旅、更科紀行の旅を経て江戸に帰るまで続く)。
芭蕉の死後15年も経ってから、弟子の乙州(おとくに)が出版したもの。そのため、分からないことも多い。
未定稿。芭蕉の発句や俳文で構成されていることは疑えないけれども、乙州の手がどの程度入っているのか、編集がなされているのか謎である。
この紀行をいま読み返している。そのいきさつはこう。
『笈の小文』は、冒頭の記述のあと、なぜか、名古屋の鳴海からはじまる。箱根も富士も遠江(浜名湖)も描かれない。
鳴海から、芭蕉は三河の国保美という處に二十五里戻る。保美は渥美半島の先端にちかい。写真でいうと、左上のほう、左から矢のように突き出ているのが渥美半島。その鏃(矢尻)の中央部分に保美はある。
100キロであるから25時間かかる。ナビで検索してみたところ、やはり99.6キロ。一日50キロ歩いても、まる2日かかる行程である。
旅の途中でなぜ100キロも後戻りしたかというと、愛弟子の杜国が罪人としてそこに流されていたから。杜国の罪は米の空売りである。
かれは裕福な米穀商だったが、在庫がないのに売るのは行きすぎ。ある種の詐欺である(現在では、流通が発達しているので、すべてが犯罪というわけではない。先物取引などは、いまだ実在しない商品の売買をあらかじめ行っている)。
「笈の小文」を読めば分かるが、ふたり旅のあいだ、芭蕉はとてもはしゃいでいて、単なる師弟関係以上のものがあったといわれる。恋人が罪をえて失意の底にあるときけば、彼を慰めるのに100キロの道のりもなんのその。
かれらは、伊良湖岬を訪れている。保美からわずか一里ばかり。1時間ほどの行程である。
天武朝の皇族麻績王(おみのおおきみ)は伊良湖に流されている。古くから流刑地だったようだ。その歌。
うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良湖の島の玉藻刈り食す
伊良湖岬は、三河の国の地つづきなのだけれども、万葉集では伊勢の名所に選ばれている。なぜか。写真を見ればわかるとおり、船便なら近いからである。
紀伊半島を度外視すれば、本州の南端に位置している。そのため、秋には南から鷹が渡ってくる。鷹は冬の季語だが、鷹渡るは秋の季語である。
西行の歌がある。伊勢で詠んだという。
巣鷹わたる伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな
巣鷹は飼育された鷹のこと。臆病なので、木に戻ってしまう。芭蕉らは、麻績王や西行の歌は当然知っていた。
罪人の杜国はもちろん、芭蕉も心細い気持ちだったろう。そこで詠んだ句。
鷹一つ見付てうれしいらご崎
もちろん、鷹とは杜国のことである。
冬の鷹といえば、吉村昭に同名の小説がある。Amazonの解説によればこう。わずかな手掛かりをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する・・。
100年後に苦労したこちらの冬の鷹も世渡りが下手だったのだろう。吉村昭の小説は、新潮文庫の100冊に選ばれていたので、読んだのだったと思う。残念ながら、さいきんは選に漏れているようだ。はやらないのだろうか。
(つづく)
2023年6月8日木曜日
はなれてひとつに奏でる-個人的な体験
BSーNHKで草刈正雄の「美の壺」を見ていたら、テーマは「宿」。長野で築70年の古民家を利用した宿が伝統と格式ある・・などとやっていた。
ふんふんと思ってみていたが、ちょっと待てよ(キムタクふう)。若いころはそれでよかった。しかし齢64歳になろうかといういま、70年などは自身とほぼおない歳ではないか。それほど昔のことではないぞ!
最近、こういうことが多い。
あるとき、マヨネーズから迷える子羊の話になり、マヨネーズのことをマヨエルという愛称で呼ぶことになった。それはいい。
それで、迷える子羊といえば、もともとは聖書にでてくるのだろうけど、夏目漱石の『三四郎』のなかにも出てくるよね。三四郎はしょっちゅうストレイシープと言っていたよね。と言うも、会話の相手は知らないという。う~ん。
しかたないから、グーグルさんに訊いてみる。YAHOO!知恵袋で、たしかにそうだと書いてある。どうだ~!というも、相手は興味がなさそうだ。
知恵袋によると、漱石は聖書からダイレクトにもってきたのではなく、当時、一部翻訳もして興味をもっていたヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』からひいてきたようなことまで書いてある。おそるべし、知恵袋。
漱石の『三四郎』を読んだことがないという相手に『トム・ジョーンズ』の話をしても、よけいうざがられるだろうと思い、以下自粛。
だが、グーグルさんはさすがだ。ストレイシープの予測変換のリストに「米津玄師」を提案していた。念のため、検索してみた。
そうすると、彼のアルバムに『STRAY SHEEP』なるものがあるらしい。会話の相手は、『三四郎』は読んだことはないけれども、『STRAY SHEEP』は保有しているらしい。俄然、興味をひきつけることができた。最初から、漱石ではなく、米津にいくべきだった(知らなかったけど)。
念のため、YouTubeで『STRAY SHEEP』を聴いてみた。なんと、自分も知っている曲たちだ!娘の車でドライブした際、車中で流れていたものだ。パプリカももちろん含まれている。
エウレカ! That makes sense!
コロナ期間中、やはりBSーNHKで「はなれてひとつに奏でる~奇跡の〝パプリカ”誕生秘話~」という番組をやっていた。NHKの番組紹介をそのまま引用すると、こういう番組。
「リモートでパプリカやってみるか!」コロナ禍の下、楽団員の一人の掛け声が62人の輪となり、奇跡のオーケストラが実現。離れてるからこそ心が一つに、感動の秘話を描く。
この番組にはとても感動した。本ブログでも以前紹介したと思う。
まとめると、マヨネーズにはじまり→迷える子羊→漱石『三四郎』→ストレイシープ→聖書、あるいは『トム・ジョーンズ』などを漂流しつつ→米津玄師→『STRAY SHEEP』→「パプリカ」→「はなれてひとつに奏でる~奇跡の〝パプリカ”誕生秘話~」で結び。
おおげさにいえば、迷える子羊は、迷い迷いの旅をし、感動の結末に至ったのだった。頭のなかでバラバラに存在していたピースたちが一つにまとまった感じ。脳内で快ホルモンでまくりである。
子どものころ、少なくともグーグルさんやYAHOO!知恵袋さんは存在しなかった。そう思うと、70年前は大昔かもしれない。
※写真は台湾の観光地の売店で絵付けをする店番の子。
2023年6月7日水曜日
薬害肝炎九州原告団総会@岡山(2)倉敷美観地区・大原美術館
2023年6月5日月曜日
薬害肝炎九州原告団総会@岡山(1)後楽園・岡山城ほか
薬害肝炎九州原告団総会@岡山に参加した。薬害肝炎は大筋解決したものの、薬害教育、薬害資料館建設など再発防止対策などをなお議論している。
会議は午後からだったので、午前中に岡山入りして観光した。駅前の桃太郎像からして親近感がわく。このところ、サルやキジが身の回りでワイワイしているからだ。
その後、県美、市立オリエント美術館をめぐった。県美企画は和田誠展。週刊誌の表紙などを飾るイラストレーターだったが、きょうび、ジブリはもちろん、銀河鉄道999だろうがゲゲゲの鬼太郎だろうが美術館に展示していけないものはなくなった。
2023年6月2日金曜日
100周年記念式典に参加して
顧問先の私立学校が創立100周年をむかえたということで、来賓として記念式典に呼んでいただいた(ひな壇上で緊張した。写真)。
教員、生徒のほか、PTA・来賓など多数参加。体育館のなかは500人くらい。生徒さんたちは代表だけで、あとは教室からオンライン参加。
100周年であるから、創立は100年前の1923年=大正12年である。大正デモクラシーの息吹に呼応したものだったのだろう。学校理念は「人を愛し ひとに愛される人間」。
創立の後、第2次世界大戦、高度経済成長、停滞、情報化、コロナ禍、ウクライナ戦争など政治・社会・経済環境は大きく変化した。
そうしたなか、学業はもちろん、野球・サッカーをはじめとするスポーツや美術・デザインの分野でも活躍されている。今年は受験者数・入学者数も過去最高といわれる。
近年、100年企業という言葉がしきりに言われる。一般企業はその特徴に学べということだが、第一は理念がしっかりしていること。生徒さんたちの笑顔をみて、学校理念の正しさを実感した。
わがちくし法律事務所も来年、ようやく40周年。地域に根ざし、自由と正義に貢献することを理念として活動してきた。100周年を自分で経験するのは難しかろうが、50周年まではなんとか頑張りたいものだ。