2010年12月28日火曜日

 健康な新年を


 「ノルウェイの森」はいいとして
 「異界と往来する者たち」とか「レイコ(霊子)さん」とかいう
 話題は法律事務所のブログとしてどうなの?

 そのような声も聞こえてきそうですので
 なんとか説明をつけて、本年の結びとさせていただきます。 

 憲法は、生命・自由及び幸福追求権(13条)や
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(25条)
 を保障しています。

 ここで「健康」とは、どんな状態をいうのでしょうか?
 WHO(世界保健機関)の定義があります。

 WHOは国連の専門機関で
 日本の厚生労働省にあたる国際的な行政機関です。

 WHOは健康について
 「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり
 単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
 と定義してきました。

 最近、その定義の改正が議論されています
 その案はつぎのとおり。

 「完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉の動的な状態であり
 単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

 "Health is a dynamic state of complete physical,
  mental, spiritual and social well-being and
  not merely the absence of disease or infirmity."

 このような議論の背景について、厚生労働省は
 「健康の確保において生きている意味・生きがいなどの追求が重要
 との立場から提起されたもの」と説明しています。 
 http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1103/h0319-1_6.html

 われわれが、生命、自由及び幸福追求権(13条)や
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(25条)
 を追求するにあたり、これまでのような健康の理解では
 グローバル・スタンダードに照らし、狭すぎるということです。

 これからは、よりひろく霊的に、しかもダイナミックに健康を確保し
 生きている意味・生きがいなどをもっと追求していきましょう
 ということでしょう。

 肉体的、精神的な健康を維持するのさえ困難な情況ではありますが
 そんなことを念頭におきつつ
 スピリチュアルな話題にも挑戦してみました。あしからず。

 さてみなさま、今年6月から半年間、当ブログにおつきあい
 いただき、まことにありがとうございました。

 ちくし法律事務所は、あす29日から1月5日まで
 新年のお休みをいただきます。

 その間、当ブログもお休みをいただきます。
 よろしくお願いします。

 というわけで、すこし早いですが
 きょうの写真は「行く年来る年」でよく放映される
 日本最古の梵鐘のひとつ、観世音寺の梵鐘です。

 みなさまの煩悩の数だけクリックしてみてください。

 ラスト・メッセージ


 いよいよ「ノルウェイの森」最終回。

 というか、まだまだ書きたいことはあるんですが
 年内最後の更新なので結びとさせていただきます。

 これまで長々と書いてきたのも
 最後の謎を解くためのようなもの。

 突撃隊が緑に転生したという話が飲み込めた人は
 きょうの話も飲み込めんでいただけると思います。

 さて最後の謎は
 直子のラスト・メッセージはなにか?

 「ノルウェイの森」が俗世界で現実におこったことだけを
 書いているとすれば、あまり愉快な話ではありません。

 直子が僕になんのメッセージものこさずに
 自死してしまったことになるからです。
 
 このままでは愛とイマジネーションの欠如
 はたしてそうでしょうか?

 O Freunde, nicht diese Töne!
 もっとイメージ豊かな物語ではないでしょうか?

 突撃隊の死と再生を認める立場からすれば
 もちろん(「もちろん」は僕の口癖)
 直子もなんらかの再生を遂げているはず。
 
 この謎を解く第1のヒントは、キズキが死んだのち僕が感じた言葉。

 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

 これは、死者は生者の外側ではなく、その一部として存在している
 とも読めます。
 
 そうすると、直子はレイコさんの一部として存在していることになりえます。 

 第2のヒント(というより、第2以下は情況証拠という感じですが)は
 玲子=レイコさんという名前。

 「玲」は、玉の涼しげに鳴る音の形容。また、玉のように美しいさま
 これは、彼女が音楽に堪能で、美しいことを表わしています。

 直子のばあい、ナオコと表記されませんが
 玲子さんはレイコさんと表記されます。
 これはレイコ=霊子という意味でしょう。

 宝満山には玉依姫(タマヨリヒメ)がゐますところ
 玉依姫は、もともと霊が依る姫=巫女という意味
 レイコさんもこの意味で、霊依女=巫女でしょう。

 僕がキヅキやハツミさんと玉突きをするのも
 霊(タマ)ツキと関連があるでしょうし
 緑が玉子と縁があるのも、霊子(タマゴ)ということかも。

 レイコさんが巫女だとすると、直子は死んだあとでも
 レイコさんをヨリシロにして語ることができます。
 (依り代・ヨリシロとは、神霊が依り憑く対象物のこと)

 ちょうど芥川龍之介の「藪の中」の
 「巫女の口を借りたる死霊の物語」のように。

 すでに直子の死のまえ(10章)から、レイコさんは
 直子に代わって手紙を書き、僕にメッセージを届けてはじめています。

 第3のヒントは、直子とレイコの交換可能性。

 直子の生前、こんなやりとりがあります。

 「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」
 とレイコさんが言った。
 「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」
 「嘘よ。私右側だわ」と直子が言った。

 単なる軽口かもしれませんが
 二人の交換可能性を示唆したものとも読めます。

 第4の証拠は、レイコさんと二人で一緒に暮らしたいという直子の希望。

 (レイコ)
 「彼女こんなことも言ったわ。二人でここを出られて
 一緒に暮すことができたらいいでしょうねって」
 (僕)
 「レイコさんと二人でですか?」
 (レイコ)
 「そうよ。」

 第5の証拠は、直子が生前、レイコと一緒に半分ずつ編んだ
 葡萄色のセーターを僕にプレゼントしていること。

 第6の証拠は、レイコさんが直子の服を着ていること。

 直子は「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」という
 謎の遺書を残します。

 「変な子ね。自分がこれから死のうと思っているときに
 どうして洋服のことなんか考えるのかしらね。」
 とレイコさんがいうとおり、変な遺書です。

 レイコさんは直子の服を着て僕に会いにきます。
 「これ直子のなのよ」
 「…だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。
 というか殆ど二人で共有していたようなものね」

 「…レイコさんが直子の服を着てくれていることは
 僕としてはとても嬉しいですね」という感じ。

 他人の服を着てその人になるという方法による変身は
 僕が緑の亡父のパジャマを借りたときにも起きています(9章)。

 第7の証拠は、レイコの若返り。

 ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレスを
 眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。

 第8の証拠は、残存記憶に従う行動という表現。

 「私はもう終わってしまった人間なのよ。
 あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。
 …私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」

 「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」
 「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。…」

 第9の証拠は、直子の生前の予言的なメッセージ
 直子は生前、不思議なメッセージを語っています。

 「これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの」

 これは死んで再生するとの予言でしょう。

 「あの人のことは私きちんとするから」

 僕のことをきちんとするというのは
 ラスト・メッセージを伝えるということでしょう。
 
 第10の証拠は、まるで直子が述べているかのようなつぎのセリフ。

 「私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ。
 はるばるあんな棺桶みたいな電車に乗って」

 これらの証拠からして、直子は死後、レイコさんを依り代として再生し
 僕に対して語りかけていると考えられます。 

 (レイコ=直子)
 「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」
 (僕)
 「直子が死んじゃったから物事は落ち着くべきところにおちついちゃった
 ってこと?」

 これがエウリピデス型解決なのかソフォクレス型解決なのかを問う
 重要な問いであることは前に書いたとおりです。
 (「運命に立ち向かう」参照)

 (レイコ=直子)
 「そうじゃないわよ。
 …あなたは緑さんを選び、直子は死ぬことを選んだのよ。
 あなたはもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと
 責任を持たなくちゃ。…」

 ソフォクレス型解決、すなわち神の采配ではなく
 人間による自己決定であることが、その答え。

 二十歳になった大人の僕に対する
 自己決定と自己責任の教えでもあります。

 (レイコ=直子)
 「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら
 あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じ続けなさい。

 そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。
 でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。

 …だから辛いだろうけれど強くなりなさい。
 もっと成長して大人になりなさい。」

 これが直子のラスト・メッセージ
 死んでのちも、大きな愛で包み込むメッセージです。

 「幸せになりなさい」
 と別れ際にレイコさんは僕に言った。
 
 「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから
 これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。
 私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」
 
 我々は握手をして別れます。

 ここはレイコさんのギター伴奏で
 山口百恵さんに「さようならの向こう側」を歌ってほしいところ。

 これら直子のラスト・メッセージにより、僕は救われます。
 そのことは冒頭とラストの暗と明のコントラストに表現されています。
 
 (冒頭)
 十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め
 …フランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。

 (ラスト)
 まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているような
 そんな沈黙がつづいた。

 ラストのほうはいかにも救済的な情景です
 映画「ショーシャンクの空に」の脱走成就シーンのよう。

 そしてノーホエア・マンの僕は
 「どこでもない場所のまん中から、緑を呼びつづけていた」。
 (「世界の中心で、愛を叫ぶ」みたいですが、逆です)

 どこでもない場所は、僕が二十歳のときの東京とも読めますが
 少なくとも三十七歳のときのハンブルクとも読むべきでしょう。

 「ノルウェイの森」が永遠に回帰する物語だとすれば
 時空を超えて、緑を呼びつづけるほかありません。
 

2010年12月26日日曜日

 わたし巡りの旅

 

 
 僕が渡し人であることから
 「ノルウェイの森」は、渡しをめぐる旅物語
 にもなっています。

 いわばヒーリング・パワースポットめぐりの旅
 いざ、ご招待。

 渡しは、境界、海峡、水際、水の上、水の中、流れの中
 時・季節、朝夕、赤・緑の色、明暗、光と闇、狂気、生死などにも
 境はあり、渡しがあります。

 誕生日、卒業、就職祝いなどの通過儀礼も
 通路のひとつです。

 舟、電車などの乗り物や、橋などの通路も渡しを行き来するうえで必要
 地図、旅、海賊、鳥、「かもめ」・猫、昆虫などのほか
 ぬかるみ、流れ、変化、腐るなども渡しの縁語でしょう。

 そうだとすると、飛行機のスチュワーデス、外交官、旅行代理店の女性
 などはみな渡し人であるワタナベの一族であるはずです。

 彼岸が異界のほか、深層心理や精神世界を含むことから
 本・書店、音楽・楽器、火・マッチ・煙草、酒、手紙、人間の体のほか
 私(わたし)自身も乗り物や通路になります。

 読みは黄泉に通じるとか。

 森は異界のメタファー
 木樵女である緑の木を切る技はこの意味の森をなくす行為でしょう。

 異界を行き来するとは、死と再生を繰り返すこと
 セックスもこの意味で、異界を行き来する行為です。

 「…するとね、体中がひやっと冷たくなったの。
 まるで氷水につけられたみたいに。…私このまま死んじゃうのかしら…

 …するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。…」(11章)

 直子と縁の深いワインは死の縁語
 緑と縁の深い卵、春などは再生の縁語。

 ドイツは、ただハンブルグがあるところかもしれませんが
 ハツミさんが自死したときに長沢さんがドイツにいたことから
 やはり意味はあり、東西の境、あるいは森の縁語ということでしょうか?

 ハンブルクは、エルベ川の支流・アルスター川の河口にある港湾都市
 数多くの運河がながれており

 町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で
 アムステルダムとヴェネツィアをあわせたよりも多くの橋が。

 主人公がハンブルグで造船技術を学び、就職が決まっていたところ
 「魔の山」に上ることになったこととの関連は見のがせません。

 ボーイング747、ぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下、ハンブルグ空港
 整備工、BMW、自動車などは縁語。

 野井戸、ビリヤード台なども、落ち込む方法による渡し
 キズキは自動車のなかで自死しています。

 寮の僕の部屋が死体安置所のようであったこと
 突撃隊が地図づくりを志望していることは先に紹介しました。

 長沢さんが志望している外交官も外国との渡しにかかわる仕事
 彼とは対岸の彼女に想いをよせるギャツビー好きという共通点が。 

 僕が直子とはじめて歩き・緑の高校のあった四谷も
 緑の父が入院していたお茶の水も神田川を渡る橋があります。

 小林書店のある大塚はちょっと違いますが
 僕は水仙をもっていき「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と言い
 水にまつわる贈り物をし、冗談を言っています。 

 京都の外れは古来、異界との境であるほか
 「阿美寮」のあたりに修験の霊山があることは前に書きました。

 父が死んだのち、緑は奈良と青森へ
 奈良については別の機会に述べました。青森についてはのちに。
  
 吉祥寺は古くから安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺という4軒の寺が集まる
 寺町であることによるものでしょうか。

 直子が死んだのち、僕は山陰の海岸、鳥取か兵庫の北海岸を西へ西へと
 旅します。

 これは、黄泉の国が島根県~鳥取県あたりにあるとされていることと
 関連しているのでしょうか。

 物語の最後に、レイコさんは旭川へ行きます
 なぜ、旭川に行ったのでしょうか?
 これは難問です。
 
 レイコさんは旭川について
 「作り損ねた落とし穴みたいなところ」と評しています。

 旭川の人たちはひどい侮辱だと憤慨しているでしょうが
 レイコさんが結局、落とし穴に落ちなくて済んだことを
 言っていることは間違いないでしょう。

 それにしてもなぜ旭川?

 第1に、旭ののぼる川=渡しということで
 文字が明日の希望を表現しているのかも。
 
 第2に、地形的なもの。
 旭川は、北海道のほぼ中央の上川盆地の中心部に位置し
 石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川など大小130の河川が流れ
 740あまりの橋が架かっているそうです。

 この地形は、冒頭のハンブルグとよく似ています。

 第3は、村上さんが好きだから。

 「羊をめぐる冒険」でも
 「我々は旭川で列車を乗り継ぎ、北に向って塩狩峠を越えた。」
 とあります。

 第4は、旭川出身の三浦綾子さんとの関連。

 三浦さんは、「塩狩峠」や「氷点」を書いています。
 峠は山の上と下の境ですし、氷点は水と氷の境です。
 
 最後の難問
 死期の近い緑の父は僕に対し「切符・緑・頼む・上野駅」と言います。
 これって暗号みたいですが、どういう意味でしょう?
 
 可能性は3つ
 緑の福島行き、青森行きとレイコさんの青森経由・旭川行きです。
 
 緑は子どものころ家出をして福島の伯母のところへ2回行っていますが
 これが父の伝言と関連するとすれば、エレクトラ・コンプレックスの謎とき
 との関連でしょう。が、よくわかりません。

 父が死んだのち、緑は青森の下北半島、竜飛岬などを旅しています
 これは恐山という、日本最強の異界への渡しと関連しているでしょう。

 この旅ののち、緑は元カレをふって僕を選択することに
 この意味で、父の伝言ともっともマッチします。

 直子が死んだのち、レイコさんはあえて青函連絡船に乗って
 旭川に向かいます。

 「僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが
 レイコさんは汽車で行くと主張した。

 『私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ』
 と彼女は行った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。」

 これが父の伝言とどう関係するかは、長くなりそうなので
 別の機会に。

 以上、日本全国ヒーリング・パワースポット巡り
 すこしは癒されましたでしょうか?
 

 異界と往来する者たち


 「ノルウェイの森」の「僕」は「ワタナベトオル」くんなのですが
 なぜ、「ワタナベ」くんなのでしょう?

 渡辺氏の祖は、渡辺綱
 大江山で鬼を退治した源頼光四天王の一人として有名です。
 (足柄山の金太郎こと坂田金時もそう)

 渡辺の地は、淀川の下流難波江の渡し口、かつて
 対岸へ渡る渡船口で渡しの舟守り「渡部」が居住していました。

 渡部は、船で人を運ぶ仕事に従事した人々で
 その起源は古代に遡ります。

 こうして、ワタナベは、対岸と往き来する人
 転じて、彼岸(異界)と行き来する人
 あるいは、死者と交流する人
 死と再生に関与する人という意味に。

 異界には、本の世界はもちろん
 過去、無意識、精神世界なども含みます。

 彼は、歩いて旅行すること、泳ぐこと、本を読むことが好きで 
 運送屋のアルバイトなどをしているとされています。

 キズキの死によってアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が
 永遠に損なわれ、僕はたえず彷徨うことになりました。
 (地理的にも、精神的にも)
 
 そこは教養小説ですので、僕の損なわれた機能を補おう
 とする人物があらわれます
 まずは、寮で僕と同室だった「突撃隊」。

 突撃隊は病的なまでに清潔好きで
 僕の部屋は死体安置所のように清潔
 死体安置所は彼岸へ渡るところなので、ワタナベと関連します。

 僕が貼ったヌード写真がはがされ
 「アムステルダムの運河」の写真が貼られます。のちに
 誰かがいたずらに「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」の写真に
 貼り替えます。
 
 運河、ブリッジも「ワタナベ」と関連するアイテム
 最後は「氷山」の写真にとりかえられますが、その意味は後に。

 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻し
 地図の勉強をしています。

 問題は、「地図」という言葉を口にするたびに
 彼がどもってしまうことです。
 彼のアドレセンス機能も損なわれているようです。

 直子がいなくなった後、彼は僕に蛍をくれます(3章末)。
 蛍は水門のある小さな流れを魂のように行き来する存在
 ここはとても印象的な彼岸往来のメタファーとなています。

 その夏休み明けの9月
 突撃隊自身も寮から、いなくなってしまいます(4章)。

 いなくなった経緯はあきらかにされませんが
 やはり自死(海で)したように読めます。

 これまた突飛かもしれませんが
 彼は緑として生まれ変わったのではないでしょうか。
 そのわけはこうです。

 突撃隊がいなくなったのと入れ替わりに緑が登場します(4章)。
 緑は初対面のときに、こんな変なことを言っています。

 「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするような
 ひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のうと思ったくらいよ。
 本当にひどかったのよ。ワカメが頭にからみついて水死体みたいに
 見えるの。でもやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。…」

 突撃隊の頭は丸刈りでしたから
 彼が水死体となり、緑に生まれ変ったと
 説明しているように読めます。

 こう読むと、寮の部屋の写真が「氷山」にかえられたことの意味も
 明らか。氷山は死を意味しています。

 緑のアルバイトは、地図の解説を書くこと
 緑にとっては本当に簡単、アッという間。

 こうして僕の損なわれたアドレセンス機能は
 緑によってサポートされていくことになります。

 ただ地図は、文章とともに記憶、想い盛る容器とされ
 あまり克明なものは役にたたないとされています(1章)。

 僕が「阿美寮」に行く際、直子が手紙に同封した地図と
 京都の書店で買った地図の2種類が出てきますが
 「魔の山」へ行く用の地図は前者という意味でしょうか。

 緑=突撃隊という説は、両者の性格の違いという難点が
 あります。

 緑が自由人であるのに対し、突撃隊はナチだとか
 突撃隊だとか呼ばれる、いささか偏狭な性格です。

 突撃隊の偏狭な部分は緑の元カレが引き継いでいるのでは
 ないでしょうか。緑の元カレは、緑の自由な振る舞いを認めず
 なにかと彼女を拘束しようとしているので。

 突撃隊=緑だとすると、彼が熱発して、僕と直子が
 ブラームスの4番シンフォニーのコンサートに行くのを
 邪魔したことの説明もつくのですが、これは無理筋かも。

 僕は突撃隊がなくなった夏休みの間
 金沢から能登半島をぐるっと旅行してまわっています。

 金沢のあたりは松本清張「ゼロの焦点」の舞台
 東尋坊、能登金剛・ヤセの断崖などは投身自殺が多いところ。

 僕は無意識ながら、突撃隊を探しに出かけたのかも 
 あまりに突飛でしょうか?

 緑は父親が亡くなったのち、奈良と青森に旅行に行っています
 青森のほうは後で説明するとして、ここで問題は奈良。

 緑は奈良で鹿と散歩したりしています
 奈良の鹿は春日大社の神の使いなので
 鹿をつうじて亡父と交信したのでしょうか?

 この鹿はただの鹿ではないかもしれません
 というのも突撃隊はいなくなる前、2枚目のセーターを買い
 それがなんと、鹿の編みこみが入ったものだったからです。

 突撃隊は死んで神の使いである鹿になったのかもしれません
 こちらの説もなかなか魅力的です。

 雨の屋上で僕は緑を抱き、びしょ濡れになります
 そのときの緑の台詞はまさしく異界から生還した喜びに充ちています。
 (また、異界への往還と性交渉の類似性がほのめかされています)

 「ねぇ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」
 と緑が笑いながら言った。
 「ああ気持ち良かった」
 

 メメント・森


 「ノルウェイの森」を読んでいてまずひっかかるのは
 直子は僕を愛していないのか?
 愛していないのに、なぜ、僕と寝たのか?
 ということでしょう。

 このことについて、僕と直子は「阿美寮」で
 つぎのような不思議なやりとりをしています(6章)。

 「でも僕は…本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。
 君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるのかい?」

 「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。
 「あなたそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして
 私があなたと寝たのよ?…」

 これからすると、直子が僕と寝た理由は
 「僕の中に何か普通じゃないものがみつけれられる」から。

 じゃ、この「僕の中の何か普通じゃないもの」ってなんでしょう?
 キズキが死んだあと、僕の中に
 「何かぼんやりとした空気のかたまりのようなもの」が残った
 とされています(2章)。

 そのかたちを言葉におきかえると
 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

 そうだとすると、直子は僕の中に「死」、あるいは、「キズキ」
 をみつけたがゆえに、僕と寝たといっているわけです。

 そういえば、時々直子はとくにこれといった理由もなく
 何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんでいました。
 (3章)  
 
 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」
 というのはゴシック文字になっているので、大事なことのはず。

 これからまず思い浮かべるのはメメント・モリですね。

 メメント・モリ(Memento mori)は、
 「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」とか
 「死を記憶せよ」とかいう意味の警句。

 芸術作品のモチーフとして広く使われ、文学上でも重要なテーマ
 「ノルウェイの森」においても重要なテーマなんですね。
 

 森の謎の犯人はうなぎだった!? 


 
 村上春樹ワールドの
 タイやヒラメの見事な舞い踊りに見惚れているうちに
 いつのまにやら日が経ちました。

 そろそろ森を脱出して、現実の世界に戻らねば
 と思うきょうこのごろです。

 村上さんの作品を読んだことのない人や
 あまり好きではないという人には
 申し訳なく思いつつも
 長々と書いてしまいました。

 ま、それほどにおもしろい世界であるということでして。
 騙されたと思って一度読んでみてください。

 それでも「ノルウェイの森」を読んだけど
 さっぱり分からなかっただとか
 あんまり癒されなかっただとか
 そういうことはあると思います。

 「まず最初にあなたに理解してほしいのはここが
 いわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。

 てっとりばやく言えば、ここは治療するところではなく
 療養するところなの。…

 人々は自発的にここに入って自発的にここから出ていくの。
 そしてここに入ることができるのはそういう療法に向いた人達だけなの。

 誰でも入れるというんじゃなくて専門的な治療を必要とする人は
 そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。

 そこまではわかる?」
 (「阿美寮」についてのレイコさんの説明)

 というわけでして
 村上ワールド療養に向かない人達には、ごめんなさい。

 村上さんの世界にこうも馴染むようになったのは
 わけがあります。 

 薬害肝炎の被害立証がはじまろうとしていたころ
 若手弁護士たちは大きな壁にぶつかっていました。

 それまで薬害責任論を長い時間かけてやってきたせいで
 行政的・科学的な議論に頭が凝り固まっていて
 イマジネーションが枯渇していました。

 O Freunde, nicht diese Töne!
 という感じ。

 そんなとき久保井弁護士からまことに適切なアドバイスが
 投げかけられました。

 久保井さんは、あの困難なハンセン病訴訟における
 被害立証の責任者でした。

 ハンセン病被害は、90年間におよぶ多様な被害が幾重にも
 積み重なっていましたから、その立証は困難を極めました。

 それを見事にやり遂げたのですから
 集団訴訟における被害立証の第一人者なわけです。

 久保井さんはハンセン病訴訟の被害立証に携わり、ある時点から
 「この尋問で原告が語っていることは、まさに原告が語りたかったこと
 であり、かつ、被害の本質である」という確信を抱いたといいます。

 そのような立証ができたのは、振り返れば
 そこに「うなぎ」がいたからだ、というのです。

 「うなぎ」とはなにか?
 村上さんは柴田元幸さんとの対談でつぎのように語っています。
 (「柴田元幸と9人の作家達」2004年)

 「僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけない
 と言うんですよ」
 「三者協議?」

 「三者協議。僕は『うなぎ説』というのを持っているんです。
 僕という書き手がいて、読者がいますよね。

 でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。
 そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの」

 「…読者と作家とのあいだだけで。ある場合には批評家も入るかもしれない
 けど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。
 そうすると『お文学』になっちゃう。

 でも、三人いると、二人でわからなければ
 『じゃ、ちょっとうなぎに訊いてみようか』ということになります。

 するとうなぎが答えてくれるんだけど
 おかげで謎がよけいに深まったりする。
 そういう感じで小説書かないと、書いてておもしろくないですよ」

 こうして久保井さん=村上さん=うなぎクンのアドバイスのもと
 弁護団の若手のあいだにも自由な地平が新たに開け
 なんとか被害立証を遂げることができました。

 傍聴席で聴いていて、意味のわからない
 謎の質問はうなぎクンのせいなわけです。

 というわけで、村上さんには恩義を感じているわけです。

 それを別にしても「ノルウェイの森」にも
 うなぎが投げかけたと思われる謎がいっぱい。

 これがもうめっぽうおもしろい
 答えをつかまえたと思ったら、するりと抜けてしまいます。 

 私自身も弁護士になったころからしばらく
 フィクションを受け付けない時期がありました。

 40代前半に例の「読書の師匠」(11月「静子の日常」参照)に巡りあい
 その薦めで読んだ小説がどれもおもしろく感じ
 それからまた小説を読むようになりました。

 長い人生ですからその時々の情況・気分におうじて
 自分に語りかけてくる時期、自分を癒してくれる時期など
 あると思います。

 いまはどうもという人も、しばらくすれば
 うなぎクンが成長して
 語りかけ、癒してくれるのでは?
 

2010年12月25日土曜日

 永遠に回帰する物語



 「ノルウェイの森」の僕はレコード店でアルバイトをしています
 これはなにかを暗示しているのでしょうか?

 いまのCD以後の媒体だと理解しずらいのですが
 むかしのレコードはぐるぐると回転していました。

 レコードというはぐるぐると回転するというメタファー
 「ノルウェイの森」はぐるぐると回転する物語なのです。

 前に、「ノルウェイの森」を追いかけれど追いつかないだと書きましたが
 それはつまり、いつまでもぐるぐると回転する物語でもあります。

 そう思って読むと、直子はこんなことを言ってます(2章)。

 「…まるで自分の身体がふたつに分かれていてね、追いかけっこを
 してるみたいな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね
 そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。
 …」

 僕もこんなことを言ってます(2章)。

 「僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりを
 つづけていた。それは今にして思えば奇妙な日々だった。
 生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。」

 僕は気に入った本を何度も読み返すのが好き(3章)
 村上さんの小説も何度も読み返すうちに、いろいろな発見に出会えます。

 直子の誕生日の日の、つながり方が奇妙な話
 A>B>C>…というのもレコード盤のような構造を示しています。
 (3章)

 直子が死んだあと、レイコさんと僕は「淋しくない」葬式をやり
 二人で51曲も歌います。
 すべての曲に意味があるのですが、それはまたの機会に。

 20曲目は、「ウェディングベル・ブルーズ」
 その歌詞につぎのような一節があります。

  私が死ねば、またどこかで命が生まれる
  人生はそういうもの
  そうして世界は巡っていくものなのよ

 これは、仏教でいえば輪廻転生の教え
 いまはやりのニーチェでいえば
 「ツァラトゥストラはかく語りき」の永劫回帰の思想。
 (ここのBGMはリヒャルト・シュトラウスの交響詩でしょう)

 ニーチェには「(ギリシャ)悲劇の誕生」という著書もあるので
 ギリシャ悲劇をベースにした「ノルウェイの森」の思想的基盤
 としてもピッタリ。

 「ノルウェイの森」は季節の循環をいろいろと示唆しています
 カレンダーは重要なアイテムですし
 「季節がひとまわりしたのだ」などという表現も出てきます。

 季節が循環し、死と再生を繰り返すわけです。

 これらのイメージを図式化すれば、まさしくレコードの回転
 ということになります。

 アドレッセンス機能を失った主人公たちがどこへも行けず
 おなじところをぐるぐると彷徨うイメージにぴったり。

 この物語にはもっと大きな回転も用意されているように読めます。

 僕は最初の一行の重要性をつぎのように強調してしています(1章末)。
 どうしてでしょう?

 「もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ
 僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。
 でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。

 その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いて
 しまえるだろうということはよくわかっていたのだ…」

 それで最初の一行を見てみると、こうなっています。

 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」

 なぜ、「僕は三十七歳で…」という最初の一行が重要なのでしょうか?

 僕と直子の一回きりのセックスによって子どもができ、その子が
 (僕のなかで)成長して、18歳の僕になるからではないでしょうか。

 18歳となった僕はふたたび
 「ノルウェイの森」の物語をはじめることになります。

 こう考えると、「ノルウェイの森」は永遠に回帰する物語になります
 こうして、僕はつぶやかざるをえません。

 「やれやれ、またドイツか」

 ただし、ただ単に永劫回帰しているだけでは
 「シジフォスの神話」であり、諸行無常の響きありになってしまいます。

 どうすれば、この袋小路から脱出することができるのでしょうか?
 鍵は緑が握っています(10章)。

 「どのくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。

 「世界中のジャングルの虎が溶けてバターになってしまうくらい好きだ」
 と僕は言った。

 おなじみ「○○○○サンボ」のなかのエピソード
 虎たちは木のまわりをぐるぐると回転しながら最後は溶けてバターに。

 さてその方法は?
 緑が永遠の回転から脱出する方法は木登りです。
 
 「○○○○サンボ」は虎たちの回転を木のうえから眺めています。

 緑は女木樵であり、木登りが得意
 なにかと木(上)に登ろうとします。

 小林書店の近くで火事が起こったとき、3階の物干しに上り
 僕とキスをしました。

 後半、僕と仲直りしたときも、百貨店の屋上に上り
 やはり僕とキスをしました。 

 かくて物語は四季のように回転しながらも、僕は緑と木に登る
 (愛の成就)という形で、その都度、春のように再生しているわけです。
 

2010年12月24日金曜日

 僕はイエス!?

 

 キズキと直子が(象徴的に)僕の両親だとすると
 僕がイエス・キリストだという可能性もでてきます。

 この読みは、たくさん証拠の裏付けがあるわけではありません
 が、ないわけではありません。

 そう解釈すると
 直子がキズキと「寝なかった」ことの説明がつきます。
 (マリアは処女懐胎なので)

 それから僕は日曜に仕事をせず、ヒマにしています。

 先にみたとおり、物語にはワイン、ブドウ、出血というメタファーが頻出
 これらは聖、霊魂・精神、イエスの血などを象徴しています。

 後半(8章)、ガラスの先で切ってしまった僕の手のひらの傷は
 聖痕でしょうか?

 聖痕は、イエス・キリストが磔刑となった際についたとされる傷
 手の平を深く切り激しく出血したとすれば、聖痕を連想させます。

 これが聖痕だとすると
 これ以降は、僕の「復活」の物語として読めます。

 キリストは処刑の3日後、女たちが墓をたずねていくと
 墓が空になっており、天使が女達にキリストの復活を告げたとされます。

 10章における(生命が復活する)春の描写ののちの以下のような
 奇妙な記述は、「僕」の死と再生(復活)を示唆していると読めます。

 「それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を
 送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聴こえなかったし
 僕が誰かに何かを話しかけても、彼らはそれを聴きとれなかった。

 …そんな風にして三日が過ぎた。
 四月六日に緑から手紙が来た。…」 

 直子の死後、山陰地方を彷徨い、廃船の陰で涙を流していた僕に
 寿司やお金をおごった若い漁師はイエスの弟子を連想させます。  

 マリアの夫ヨセフの仕事は大工ですが、僕はレイコさんのことを
 「親切で腕の良い女大工みたい」に見えたといっています。
 僕は吉祥寺の借家で勉強机や棚を自分で作るなど大工仕事をしています。

 こうした情況証拠から、僕をイエスだという読みもできそうです。
 (信仰をもつ人に不快感を与えるとすると、ごめんなさい) 
 

 「魔の山」に上る


 「ノルウェイの森」も、修験道とおなじ
 霊山に分け入り悟りを得る話だといえば
 「またまた自分の趣味にひきつけて~」といわれそうですが
 いや、ほんとです。

 「ノルウェイの森」の中央にも「魔の山」がそびえ
 僕はそこに上って下りてきます。
 (「登る」ではなく「上る」という表記は、作中で
 「登山ルートを上りはじめた。」とあることによります)

 小説は全部で11章からなり
 その真中の6章が「魔の山」、物語のピークになっています。

 (10章でも「阿美寮」へ行っていますが、6章とちがい
 「魔の山」に上ったようには書かれていません)

 「魔の山」に上ることは物語の早い段階から予定されています。

 直子は僕に(「阿美寮」の)共同生活ができるかどうか訊ね
 父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると
 山登りしてたのと言っています(2章)。

 例によって、僕がトーマス・マンの「魔の山」を読むことで
 「阿美寮」=「魔の山」であることが示されています(4~6章)。

 「魔の山」は、主人公のハンス・カストルプ青年が
 危機的な状況にある外界(第一次世界大戦前のヨーロッパ)から
 アルプス山中にある結核療養所に7年間入所し
 様々な人物との出会いや語りから学び成長していく話です。

 「魔の山」が、結核を患った主人公の成長を促すのは、そこで
 様々な人物が深い話を主人公に語りかけるからです。
             
 「阿美寮」で語られる、レイコさんと直子の話は圧巻
 本作のクライマックスで、読みながら背筋がゾクゾクします。
 
 このような主人公の心理的・精神的成長を描くものは
 ビルドゥングスロマン(教養小説)。

 ドイツ人が大好きなジャンルで
 小林書店で僕が読んだヘッセの「車輪の下」もそう。

 「ノルウェイの森」は、「魔の山」の章にとどまらず
 全体が教養小説的です。

 僕が袋小路に入り込むと必ず誰かがちゃんとリードしてくれ
 「突撃隊」でさえ僕をカオスから救い出す役割をしています。

 「魔の山」が、主人公の成長を促すのは
 異界に異化されることにもよります。
 (異化されるばあい、下手をすると生きて帰れませんが)

 雑木林を抜け「阿美寮」に入ると、彼岸(異界)に入り込んだよう
 に表現されています。
 (直子は「彼岸の彼女」なわけ
 「グレート・ギャツビー」の求めるデイジーも「対岸の彼女」です) 

 「阿美寮」から戻った僕は、緑から
 「幽霊でも見てきたような顔しているわよ」と言われています。

 直子が裸になった場面は、とても神話的
 「蝶」のように変身し、大人になったことが
 象徴的に表現されています。

 この場面は、スタインベック「怒りの葡萄」のラストを
 ほうふつとさせる印象的なシーンです。

 なお、このとき、僕は唾をのみこみ、夜の静寂の中で
 その音はひどく大きく響いてしまいます。

 のちに(7章)、緑は僕にこんなことを言ってます。

 「あのね、セックス・シーンになるとね、まわりの人がみんな
 ゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」
 「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。
 とても可愛いくって」

 緑は勘が鋭い女性ですが
 ここまで見抜かれると、浮気はできません。

 愛する女性を求めて異界へ往って還る話は
 日本神話のなかにもあり、イザナギは
 出産時に亡くなった妻イザナミに会いに黄泉国へおもむきます。

 決して覗いてはいけないという約束を破って見てしまったのは
 腐敗してウジにたかられ、雷に囲まれた妻の姿
 これに驚き、逃げ出してしまいます。

 黄泉国と地上との境である黄泉比良坂を塞いだ大岩を挟んで
 イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」というと
 イザナギは「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう」。

 この神話も、人はなぜ生き、死ぬのかという問いに対する
 古代人なりの答え
 夫の裏切りが原因だというのもまぁ今日でさえあります。

 異界へ往って成長して還ってくる話といえば
 新しいところでは、宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」でしょうか
 「トンネルのむこうは、不思議の町でした」ですから。

 さて、もうひとつ大きな異界へ往って成長して還ってくる話は
 「ノルウェイの森」の外枠の話がそうです。

 ボーイング747の機中にいた37歳になった僕は
 「ノルウェイの森」のBGMを聴いたことをきっかけに
 過去、あるいは自己の記憶・深層心理の世界へトリップします。

 直前、スチュワーデスが声をかけます。
 I hope you'll have a nice trip.

 僕のこたえは
 Auf Widersehen!(再会しましょう!)

 スチュワーデスへの挨拶であるとともに
 直子たちへ呼びかけたものでもありましょう(呪術的に)。

 僕はこのトリップにより
 癒され、自己を快復して戻ってこれるでしょうか?

 さらに外側にはわれわれ自身の物語があります。
 日常生活に疲れ傷ついたわれわれの心の。

 「ノルウェイの森」を読み、僕といっしょにトリップすることで
 そうした心のささくれがきっと癒されることでしょう。
 

2010年12月23日木曜日

 修験の山~宝満の祈り~


               (役の行者/愛嶽神社)
 役の行者(役小角)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者
 修験道の開祖とされています。

 「南総里見八犬伝」にも登場
 時代がかなりちがうのですが、そこは呪術で「えい、やっ」と。

 修験道は、霊山に分け入り厳しい修行を行い
 超自然的な能力・悟りを得ようとします。

 行者ならずとも、山に登れば誰しも
 山の雄大さや厳しい自然に圧倒され、恐れ敬う感情が生じます。

 宝満山はかつて修験道の霊場として栄えましたが
 現在は遺跡が残るのみ。
 (ときに、行者さんと出会うことはあります)

 「ノルウェイの森」の「阿美寮」があるとされる場所にも
 大悲山・峰定寺という修験の山があるようです。
 

2010年12月22日水曜日

 苦悩を越えて 


 きょうは冬至
 いつの間にか、年の瀬、「第9」の季節となっています。
 みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 エウリピデスよりソフォクレスの好きな「僕」は
 オイディプス王であろうと、まえに書きました。
 (「運命に立ち向かう」参照)

 オイディプス王の神話は概略つぎのような話です。

 オイディプスは、知らずにテバイ王である父を殺してしまう。その後
 スフィンクスを退治した功によってテバイの王座と王妃を手に入れる。
 しかし、やがて彼が殺したのは父、妻としているのは母であることが
 明らかになり、母は縊死し
 オイディプスも自らの両眼をえぐり出して放浪の途につく。

 僕がオイディプス王だとすると、問題はその両親ですが
 キズキと直子が父と母ではないでしょうか。
 (もちろん、象徴的な意味で)

 この読みは突飛なようですが
 おおくの情況証拠によって裏打ちすることができます。

 キズキが先に死ぬこと
 その後、僕が直子と交わるということ
 キズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が
 永遠に損なわれたこと
 これにより、たえず彷徨うことになったこと
 僕が二十歳(大人)になり、緑と愛しあうようになったこと
 その後、直子が縊死したこと
 などがそうです。

 また傍証として、どうして泣いているのかと訊いた漁師に
 「母が死んだからだと僕は殆ど反射的に嘘をついた」ことや

 レイコさんが大家さんに
 「あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから」
 といっていることなどが挙げられます。

 勘のするどい緑もこう推論しています。
 「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だと思うの」

 こうして、象徴的な意味で少なくとも直子が僕の母であると
 読むことができそうです。

 そうだとすると、「ノルウェイの森」は
 母が大好きだった僕(エディプス・コンプレックスの)
 が成長して大人になり
 同じような困難(エレクトラ・コンプレックス)
 を抱えた緑と愛しあうようになる物語
 として読むことができそうです。

 民法の大家にその名も我妻栄という先生(故人)がおられました。
 我妻先生は結婚についてこう比喩されていました。

 結婚は、川に杭を2本打ち
 その間に網をはって魚を捕るようなものだ。
 杭の間隔が広ければ、不安定だが、おおくの魚が捕れる。
 狭ければ、安定するが、おおくの魚は捕れない。

 出自や性格がちがうものどうしのばあい、杭の間隔は広くなりますし
 似たものどうしのばあい、狭くなります。

 僕と緑のばあい、似たものどうしなので、わかりあえる点もおおい
 けれども、ふたり分の困難を抱えている分だけ
 そうとう困難な道のりが予想されます。
 でも、それを乗り越えてぜひとも幸せになってほしいと思います。
 (なんか、結婚式のスピーチみたいになりました)
 

2010年12月21日火曜日

 追いかけども追いつかない物語



 ギリシャ悲劇は俳優とコロス(コーラス)の掛け合いによって進行します
 「ノルウェイの森」のコーラスマスターはレイコさんです。

 レイコさんは僕と出会った最初(6章)と最後(11章)に
 バッハのフーガをギターで弾きます。

 レイコさんは僕と直子が話しをするあいだ
 もう一度さっきのフーガの練習をしています(6章)。

 そして直子がキズキと寝なかった困難な理由を説明する場面では
 むずかしいパッセージを何度も何度もくりかえして練習して
 いたりします。

 このバッハのフーガの演奏はなにを意味しているのでしょうか?

 フーガは、主題が次々と模倣・反復されていく対位法的楽曲
 遁走曲とも呼ばれます。

 このようなフーガのありようは
 僕が直子を追いかけるけれども永遠に追いつくことができない
 という主題を巧みに示唆しています。
 (黄泉の国でイザナミがイザナギを追いかけるのもやはり遁走曲風)

 僕が直子と中央線のなかで再会した際
 四谷駅の外に出ると、直子はさっさと歩きはじめ
 僕はそのあとを追うように歩きます(2章)。まるでフーガのように。

 そして直子は言います
 「まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてる
 みたいなそんな感じなの。

 …ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて
 こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

 突撃隊がくれた蛍のエピソードのラストはこうなっています(3章)。

 「蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く
 留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は
 まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよい
 つづけていた。

  僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。 
 その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。」

 もっと昔、僕が若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について
 書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも
 書くことができませんでした(1章)。

 蛍の比喩はこの物語のありようを実に詩的に表現しているわけです。
 

2010年12月20日月曜日

 ノルウェイの森は謎がいっぱい



 刑事事件や民事事件においては
 証拠が断片的であったり
 証拠どうしが矛盾したりして
 わけがわからないということがよくあります。

 そのようなとき、「筋読み」という作業をします。
 真相・真実を推理するわけです。

 松本清張の小説に「点と線」がありますが
 点が証拠、線が筋になります。

 点は星のようにちらばっていますから
 星座のように、線の引き方は複数ありえます。
 
 だからこそ裁判が必要になりますし
 地裁と高裁、さらには最高裁の判断が分かれる
 ことにもなります。

 小説のばあい、象徴的な表現がなされているので
 より多様・自由な線の引き方(解釈)が可能でしょう。

 「ノルウェイの森」を読んでいると
 わけのわからないところがたくさんでてきます。

 いうなれば「ノルウェイの森」のなかは
 謎や不思議がいっぱいです。

 「あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり
 記号であったのかもしれないーあの暗い日々に彼女がその頭
 の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。」

 というわけで、謎のイメージや不思議な記号もいっぱい。
 
 たとえば、父の死後、緑は仏壇の亡父の写真の前で裸になり
 亡父にじっくり見せてあげたとか。
 (原文は放送禁止用語がいっぱいで、ここに引用できません)

 この風変わりな行為は、このままでは何のことかわかりません
 どうして緑はこんなことをしているのでしょう?

 この謎は、緑がエレクトラであるとすれば
 (前に書いたように、初対面の場面を参照)
 つぎのように解釈することができそうです。

 エレクトラは、ミケーネの王アガメムノン
 (トロイア戦争におけるギリシャ側の総大将)
 とクリタイムネストラとの娘。

 トロイア戦争から帰国した父を、母とその情夫が暗殺したため
 エレクトラは弟とともに仇を討ちます。

 ここから、エレクトラコンプレックスは
 女子が父に対して強い独占欲的な愛情を抱き
 母に対して強い対抗意識を燃やす状態をいいます。
 (エディプスコンプレックスの女子バージョン)

 緑によれば、母は緑に対し「お前は私の子じゃないし
 お前のことなんか大嫌いだ」と言ったことになっています(7章)。

 緑がエレクトラであるとすると
 両親との間に上記のような葛藤があったことになり
 緑の風変わりな行為の動機を説明できることになります。

 ま、例によって、そうかもしれませんし、ちがうかもしれません。 
 例によって、どっちが物語として豊かか、自分にとって真実か
 自分の励みになるかなどが決め手になると思います。

 ギリシャ時代の悲劇が
 現代においてもわれわれの心をつかむとすれば
 何千年経とうとも人類の心性がそう変わらないものなんだなぁ
 というふうに思います。

 彼らがたしかな筋を読み
 普遍的な真相・真実をつかんでいたためでもありましょう。
   

 ギリシャ悲劇とローマ法



 村上春樹さんは「ノルウェイの森」で
 古典ギリシャ悲劇をベースとして物語を展開されています。

 ギリシア悲劇は、古代ギリシアで
 アテナイのディオニソス祭で上演されていました。

 「ノルウェイの森」の巻頭には
 「多くの祭り(フェト)のために」というエピグラフが
 置かれています。

 「多くの祭り」が何と何と何…を指しているのかは
 挑戦するにたる大変面白い設問ですが
 ディオニソス祭はその一つだと思います。

 ディオニソスは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神
 作中「僕」はしょっちゅう誰かとワインなどの酒を飲み
 誕生会や就職祝いなどをやっているのが、その理由です。

 ま、村上さんがそう考えていなかったとしても
 そう考えるほうが正解のように思います。

 そう考えるほうが
 「ノルウェイの森」がより大きなスケールをもち
 深みを増すからです。
 エピグラフというのはそういうものでしょう。 

 ディオニソス祭での上演は
 悲劇作家らが競作し
 聴衆の投票により優勝者を決めていました。

 一昨日、内ちゃん南ちゃんが
 「ザ・イロモネア 笑わせたら100万円」をやってましたが
 イメージとしては、あんな感じだったのでしょうか。
 (古典悲劇作家の先生がたにはやや失礼の段お許しください)

 考えてみれば、陪審や裁判員裁判も
 古典ギリシャ悲劇の上演と似ていないわけではないわけです。

 しかしながら、われわれが法律論を展開するのに
 依拠している法は古典ギリシャ法ではありません
 古典ローマ法に由来する民法です。

 以前にも書きましたが、民法をひとことでいうと
 「約束は守ろうよ」ということです。

 この「合意は守られるべし」 (pacta sunt servanda)
 というのはローマ法に由来する大原則です。

 古代ギリシャは哲学や悲劇が知られ
 古代ローマは法律や土木建築技術が知られています。
 
 古代ギリシャ人は右脳、古代ローマ人は左脳が発達していた
 などと言ってしまいそうですが
 ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」が論証したとおり
 環境のなせるわざだったのでしょう。

 ローマ法はローマ時代から一貫してヨーロッパの法であった
 ような誤解もしてしまいそうですが、ちがいます。

 それはギリシャ・ローマの他の多くの知的遺産と同じ
 いったん忘れさられたのちに復活したものです。

 (古代ギリシャ、ローマ人は
 いまのイタリア、ギリシャ人とはちがいます。

 プラトンやソクラテスの末裔がいまのギリシャの財政危機を
 まねているわけではありません)

 ローマ法も、東ローマ帝国、ローマ・カトリック教会
 中世の大学らの手(数奇な運命)を経て
 中世ヨーロッパ大陸法(普通法)として復活しました。

 (漢倭那國王が漢の皇帝から授与された金印が失われて
 江戸時代に再発見された感じに似ています)

 普通法は市民革命後も、ナポレオン法典、ドイツ民法典などとして
 リメイクされ、基本的に現在でも通用しています。

 日本の民法は、これらをほぼ直輸入したものです。
 龍馬らの不断の努力により鎖国政策が崩壊した後、諸外国から
 不平等条約の改正の条件として民法の制定を求められたからです。

 ここら辺の話はまだ語るべきことがあるのですが
 それは別の機会にゆずり
 とりあえず「ノルウェイの森」へと戻りましょう。
 

2010年12月19日日曜日

 また会おうね!



 物語の冒頭は、ボーイング747という巨大な飛行機のなか。
 
 飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下
 これは無意識下へ下降していく意識のイメージでしょうか。

 ハンブルグ空港に着陸したのち、「ノルウェイの森」を聴いて
 僕は混乱し揺り動かされ、1969年の秋の草原にトリップします。

 すると、前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣に腰を下ろし
 つぎのようなやりとりをします。
 
 日本語部分は表面的なやりとりなので省略
 深層の意味があると読める英・独語の部分だけ示します。

 僕「It's all right now,thank you.
 I only felt lonely,you know.」

 彼女「Well,I feel same way,same thing,once in a while.
 I know you mean.」

 彼女「I hope you'll have a nice trip.
 Auf Wiedersehen!」

 僕「Auf Wiedersehen!」

 この僕とスチュワーデス(彼女)のやりとりの彼女の部分を
 直子(あるいは、直子の声を伝える巫女)が話していると
 想定してみてください。

 物語の文脈にピッタリあてはまりませんか?

 僕「I only felt lonely,you know.」

 →「僕は君も知っているところの
 1969年のあの秋の草原にいたんだ。」

 直子「Well,I feel same way,same thing,once in a while.
 I know you mean.」

 →「そう、私もかつてともにした同じ道、同じことを感じる。
 私もあなたの言っていることわかるわ。」

 直子「I hope you'll have a nice trip.
 Auf Wiedersehen!」

 →「あなたがこれからいいトリップができるといいわね。
 また会おうね!」

 僕「Auf Wiedersehen!」

 →「うん、また会おう!」

 こうして僕はトリップし、僕と直子は再会することになるわけです。
 なんと心にくい導入部でしょうか!

 なお、
 僕が異界との渡し人であること
 飛行機のスチュワーデスが渡し人の一族であること
 音楽(「ノルウェイの森」を含む)がトリップを引きおこすこと
 死んだ直子が巫女の口を借りて僕に語ること
 物語が永劫回帰することなどはおいおい述べていきます。
 

 僕はオイディプス王?


 
 「運命に立ち向かう」のなかで、「ノルウェイの森」の
 僕が神話上のオイディプス王で、緑はエレクトラだといいました。

 ほんとうにそのような読みでいいのでしょうか?
 この読みを支持する証拠があります。

 たとえば、僕と直子はこんなやりとりをしています(6章)。

 「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?」
 と直子は言った。

 「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。
 「今年の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は
 古代史になっちゃうよ」

 「古代史みたいなものよ」
 
 それから僕が読んでいた本
 18歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの
 「ケンタウロス」だったとあります(3章)。
 
 ケンタウロスは、ギリシア神話に登場する怪物
 首から下が馬、首から上が人間のハイブリッドな姿をし
 好色で酒好きの暴れ者です。

 小説や映画によくでてきます
 「ハリーポッター」にも出てきました。

 登場人物が2つのもののハイブリッドであることは
 本小説の重要な仕掛けです。

 後半(11章)、僕は自分がおかれた状況について
 迷宮になげこまれたようだと嘆いていますが
 そこにはやはり牛頭人身の怪物ミノタウロスが。

 ジョン・アップダイクの小説は
 ギリシア神話を下敷きに描く田舎町の高校教師の悲喜劇。

 高校教師はケイロン(ケンタウロス)、美しい女教師はアフロディテ
 校長はゼウス、ケイロンの息子はプロメテウス。

 ケイロンは、医学の祖、数々の英雄を教育した賢者で不死
 アフロディテは、愛と美と性を司る女神 
 ゼウスは、主神たる全能の存在、雷を司る天空神、神々の王
 プロメテウスは、天界の火を盗み人間に伝えたとされます。

 表面上は、アメリカの田舎町でおこる高校教師の悲喜劇は
 一枚めくれば、オリンポスの神々の叙事詩でもあるわけです。

 こういう手法はジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」をはじめ
 西洋文学では一般的な手法。
 (欧米か!)

 そもそもエディプス・コンプレックスという精神分析学上の呼び名も
 この手法のひとつ。

 「ノルウェイの森」もこのことを踏まえて読む必要があり
 僕はオイディプス王でもあり、緑はエレクトラでもありそうです。
 

2010年12月18日土曜日

 ケヤキ~宝満山の樹~



 宝満山の筑紫野市側に大石というところがあり
 その名の由来となった大石があります。

 大石の村には高木神社があり
 その名の由来になったのか
 神社にむかって左にはケヤキの高木がそびえ立っています。
 (右にはカツラ)

 なぜ、ケヤキなのでしょうか?

 ケヤキは「けやけき木」であり
 けやけしの意味は
 1 普通とは著しく異なるさま。異様である。
 2 異様で不快に感じられるさま。
 3 他にぬきんでて優れているさま。
 4 非常にはっきりしているさま。

 ケヤキは、他にぬきんでて美しい樹形から街路樹として植えられ
 福岡では、けやき通りとして知られています。

 ケヤキはまた昔、槻と呼ばれ
 強き木の意味。

 つまり、ケヤキは他にぬきんでて美しく・強い木です。

 「ノルウェイの森」の僕が住んでいた学生寮の門をくぐると
 正面には巨大なケヤキの木がそびえ立っています。
 
 樹齢は少なくとも150年。根もとに立って上をみあげると
 空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまいます。

 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さ 
 その寮になぜ、ケヤキの巨木がそびえ立っているのでしょうか?

 秋がやってくれば寮の中庭はケヤキの葉で覆い尽くされます。

  僕は手すりにもたれかかったまま、そんな蛍の姿を眺めていた。
  僕の方も蛍の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。
  風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。
  闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。…
 
 「樹影譚」のラストで小説中、小説中の主人公の作家・古屋が
 出生の秘密に関する啓示を受ける樹影もケヤキでした。

 ケヤキには闇のなかで真実を照らす・強いなにかが存するのでしょうか
 それとも、なにか死者の言葉をはなすのでしょうか?
 

2010年12月17日金曜日

 運命に立ち向かう


 
 西鉄電車のなかで「ノルウェイの森」を読んでいたら天神につき
 降りようとしたら、隣で松山ケンイチさんが本を読んでいました。

 と一瞬おもったところ、松山さん似ではあるものの
 松山さんから4割値引きくらいの西南学院大学の学生さんでした。
 (ま、4割引いても元値が高いのでそこそこイケメン)

 というか、彼が読んでいる本に、西南の図書館の印が。
 なんの本かなとのぞき込むと
 「…すると、先輩が本の向こうからのぞきこんだ。…」などと
 その時の状況にみあったくだりは読めたものの
 何の本かは分かりませんでした。

 他人の読んでいる本が何なのか異常に気になる今日このごろです
 とくに、電車のなかで。
 
 さて以前、「Hello,Again~昔とちがうところ~」で
 こう書きました。

  リスペクトする作品に自己の趣向をつけくわえて
  新しい作品世界をつくりだす(カバーする)作業は
  なにも徳永英明さんやJUJUさんがはじめたものではありません。

  古今、新古今の時代からおこなわれていたことです(本歌取り)。

  人類の歴史が先人の知的営みになにものかを付けくわえていく作業だ
  とすれば、歌も例外ではありえません。

 この文脈でいえば、小説も例外ではありえません。
 「ノルウェイの森」はこのことを鮮やかに示した見事な作品と考えます。

 とくに、村上さんは「本歌」(本ネタ)を明かしつつ
 小説を展開しているところがすごい。
 いわく「グレート・ギャツビー」「魔の山」「車輪の下」…。

 先行作品は小説にかぎらず、歌と歌詞そう
 「ノルウエイの森」「ノーホエア・マン(ひとりぼっちのあいつ)」…。

 これらは本作品を読み解くヒントであり
 村上さんの読者への挑戦であり
 先行する諸作品の豊かなイメージを援用する作業です。

 「僕」は、ギャツビーであり、「魔の山」のハンスであり
 「車輪の下」ハンスでもあるようです。

 これらのなかで、いちばん先行しているのは
 もちろんエウリピデス(実は、ソフォクレス)
 小説のなかで、少なくとも3度出てきます。

 緑の父親に僕が説明したところによると、こうです。

 「エウリピデス知ってますか?
 昔のギリシャ人で、アイキュロス、ソフォクレスとならんで
 ギリシャ悲劇のビッグ・スリーと言われています。…」

 「彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して
 身動きがとれなくなってしまうことなんです。わかります?
 いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と
 理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を
 追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちも
 さっちもいかなくなっちゃうんです。…」

 「ノルウェイの森」の特徴も、まさしくこのとおり。
 たとえば、僕が緑とはじめて唇をあわせたあとの会話は
 こうなっています。

  「あなたには好きな女の子いるの?」
  「いるよ」
  「でも日曜日はいつも暇なのね?」
  「とても複雑なんだ」と僕は言った。

 また、緑の父親に僕が説明したところによると、こう。

 「それでどうなると思います?これがまた実に簡単な話で
 最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。
 お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ
 お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。…」

 エウリピデスは、僕が受けている「演劇史Ⅱ」の講義で
 やっています。

 そもそも演劇というのは、自分とはことなるペルゾナを演じるので
 もう一人の自分という2種類の人格が前提となっています。

 ぼくが緑と出会った、というか緑にキャッチ(ナンパ)されたのは
 この「演劇史Ⅱ」の講義をともに受けていたことがきっかけ。

 2度目に緑に会った講義も「演劇史Ⅱ」
 ヘルメットをかぶった学生2人が演説をはじめたので抜け出し
 緑のリードで四谷の弁当屋、彼女の高校まで行きました。

 これは緑の登場が、直子と僕の関係がぐしゃぐしゃに混乱して身動きが
 とれなくなってしまいにっちもさっちもいかなくなっちゃったところに
 神がもたらした「交通整理」であることを示唆しているのでしょうか?

 さらに、緑の父親に僕が説明したところによると、こう。

 「そして全てはぴたっと解決します。
 これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。
 エウリピデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・
 マキナが出てきて、そのあたりで
 エウリピデスの評価がわかれるわけです。」

 そして僕は緑の父に対し
 「ソフォクレスの方が好きですけどね」と述べています。
 (「演劇史Ⅱ」についても 一応聴く価値のあるきちんとした講義
 だったが、楽しいとは言えないという評価)

 僕は、エウリピデスとソフォクレスを対比し
 ソフォクレスを評価するわけです。
 
 ソフォクレスは、「オイディプス王」を書いた人で
 絶対なる運命=神々に翻弄されながらも
 悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い、とされます。

 「ノルウェイの森」のラストは、うっかりすると
 直子の自死という、神の交通整理により
 僕が緑に電話をかけたように受け止めてしまいそう。

 でもほんとうのところは、その前に
 それまで神々に翻弄されていた僕が
 絶対なる運命に立ち向かい、緑を愛し
 それをレイコさんに全てをうちあけたことに
 なっています。

 僕は、実はオイディプス王なわけです。
 これに対し緑は僕にエレクトラと名乗っています。

 つまり、エディプス・コンプレックスのオイディプスと
 エレクトラ・コンプレックスのエレクトラの組合せ。

 僕がエディプス・コンプレックスを抱えているようにはみえない
 とのもっともな異論はありましょう。

 これについては直子が僕に対しこう反論しています。

 「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って
 普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」
 と僕は言った。

 「ねえ、自分のことを普通の人間だという人を信用しちゃいけない
 と書いていたのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルド
 じゃなかったかしら?…」
 と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。

 「たしかに」
 と僕は認めた。

 レイコさんからは「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」
 「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」などと
 いわれています。このしゃべり方は普通じゃありません。

 直子のしゃべり方も(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっている
 みたいだった)と僕が評しており、やはり『ライ麦畑』の男の子の
 しゃべり方と同じだったようです。
 
 ところで、僕がハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機の中で
 「ノルウェイの森」を耳にするところから、この物語は始まります。
 その曲が僕を18年前の回想へトリップさせます。

 なぜ、作品の冒頭はハンブルグ空港なのでしょうか?
 (この点はまた)
 

2010年12月16日木曜日

 「ノルウェイの森」の樹影たち



 筑紫野市のイオン内にある映画館に行ったところ
 「ノルウェイの森」と「ロビン・フッド」の両方ともが魅力的。
 
 ちょっと迷いましたが、「ノルウェイの森」を観ました。
 (ノルマン・コンクエスト…)

 10月に、つづけざまに「ノルウェイの森」を読んでいる人に遭い
 映画「ノルウェイの森」をぜひ、観にいくべしという呼びかけを
 受けていましたので(「レットイットビー」の記事参照)。

 ことしの公開はビートルズ解散40周年にあわせたものでしょうか?
 ジョン・レノンの死去後30周年にあわせたものでしょうか?

 村上作品のほうは、僕の十代に完全に終止符を打ち
 直子が自死した年が1970年とされており
 ビートルズの解散と符節をあわせた可能性があります。

 映画のほうは、2010年12月11日に公開されたましたので
 ジョンの命日(1980年12月8日)を意識した可能性はあります。
 
 もちろん無関係ということもありえます
 ですが、このように考えたほうが作品のイメージやテーマと親和的です。

 感想をひとことでいうと、村上作品とは「違う話」ということです。
 でも、これもある意味やむを得ないところでしょう。

 村上さんは「グレート・ギャツビー」の村上訳にとりくんだ理由について
 それまでのいくつかの翻訳書を読んでみたけれども
 「これは僕の考える『グレート・ギャツビー』とはちょっと
 (あるいはかなり)違う話みたいに思える」
 と考えたから、と述べています。
 (「グレート・ギャツビー」の「訳者あとがき」)

 そして、そうなる理由をこう解説しています。
 「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに
 描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に
 言語化された文学作品であり、…ところがそれを日本語に翻訳すると
 そこからは否応なく多くの美点が損なわれ、差し引かれていく。…」

 書物→書物の翻訳でさえこれですから
 書物→映画の「翻訳」の場合、なおさら厳しいでしょう。

 限られた時間のなかでの表現なので、多義的に言語化された部分が
 かなり脱落することはやむを得ないと思います。
 
 ですが、この映画は村上作品を理解するうえで大いに参考になりました
 刈り込んだ分だけ、すっきりと見渡せる感じはしましたから。

 なるほど「ノルウェイの森」のプロットはこういうことだったのか!
 とか、村上作品に引き込まれる仕掛けはそういうことか…みたいな。
 (これまで2度読んでまったく気づかなかったのに)

 以下、映画を観て思いついた気づき(キズキ)などを書いてみます。
 (なお、映画を観たあと、これが当たっているかどうか
 一度ざっと読み返しました。結果、当たっているようないないような…) 

 さて、なにかと話題のキャスティングは以下のとおり。
 僕(ワタナベ) - 松山ケンイチさん
 直子      - 菊地凛子さん
 小林緑     - 水原希子さん
 キズキ     - 高良健吾さん
 永沢      - 玉山鉄二さん
 ハツミ     - 初音映莉子さん
 レイコ     - 霧島れいかさん
  
 でもこのうち、やはり一番のポイントは
 直子と緑ですね。

 原作の装幀は、上巻が赤、下巻が緑となっていて
 「100パーセントの恋愛小説」にしては
 とても目立ち、むしろどぎつい印象。

 赤-緑は補色、補色は色相差が最も大きいので
 お互いの色を目立たせる効果があります
 緑を背景とする紅葉を美しいと感じるのもこの効果。
 (セブンイレブンの看板なども、赤-緑の配色になっています)

 この装幀は村上さん自身が手がけているので
 目立つ以外に当然、小説にとっての象徴的な意味があるはず。
 
 内容からすれば、緑=小林緑や何かを示していることは明らか。
 (小林という名字も緑と関係しています)
 そうすると、赤は直子や何かを指し示していることになります。

 「ノルウェイの森」はひとことでいうと、上・下2巻で
 「赤と緑」の物語なわけです。
 
 スタンダールの小説「赤と黒」がヒットした翌年に
 本作の出版がなされたのであれば、きっと表題は
 「赤と緑」だったでしょう。

 物語にはワイン、ブドウ、葡萄色、出血という記号が頻出
 非日常、聖、霊魂・精神、彼岸、イエスの血などを象徴しています。

 たとえば、キズキは赤いN360の自動車内で自死しています
 赤は死、緑は生のイメージ・記号。
 
 僕が緑の実家である小林書店を訪れた際
 近所で火事があり、緑が「死んだってかまわないもの」
 などと述べるあたりは、やはり赤と緑の対比で
 赤は死のイメージ。

 「火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたい
 だった。」

 これなど、見えない世界で緑が赤い勢力とたたかっていたかのように
 読めます。

 画家やペンキ屋があらわれ、卵や黄色と混ざり合い
 赤は緑に変化していきます。
 
 僕が赤から緑へと「成長」「再生」「変化」していく物語です
 つぎの描写はまるで宮崎アニメのよう。

 「春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた
 爛れた肉のように僕には見えた。
 庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。
 そして僕は直子の肉体を思った。

 直子の美しい肉体は闇の中に横たわり
 その肌からは無数の植物の芽が吹き出し
 その緑色の小さな芽は
 どこかから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。」

 問題は「森」
 森はとても両義的です。

 森は緑の木々からなっていっるわけですが
 深い森は死のイメージをはらんでいます。

 深い森は、その中で迷い、「寒くて、そして暗くって
 誰も助けに来てくれ」ません。

 緑にたいして僕は「それじゃ木樵女みたいだ。」といい
 緑も「私、木樵女なのよ」と名乗っています(4章)。

 そしてクライマックス(10章)、僕は緑をこのように評しています。

 「私のヘア・スタイル好き?」
 「すごく良いよ」
 「どれくらい良い?」緑が訊いた。
 「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。

 つまり、緑は木樵女として死の森を全部切り倒し
 僕に生をもたらすわけです。 

 映画では、緑はもちろん、ハツミさん、レイコさんらの
 助けも借りて、僕が成長していく感じは
 分かりやすく伝わってきました。

 ただ惜しかったのは、「赤と緑」の対比という点についての
 イメージ喚起力が弱かったことでしょうか。

 赤と緑は補色の関係にあるのですから
 赤は緑と、緑は赤と拮抗し、互いに主張し補いあうという
 緊張関係のなかで、両方が個性的に立ち上がらなければなりません
 この感じが…。
 (菊池さんも、水原さんもそれぞれに個性的であったことは
 否定しませんが、相補的な関係にあったかどうか)

 キャッチコピーは「深く愛すること。強く生きること。」
 これは愛=赤、生=緑ということでいいと思います。

 ※「KAGEROU」斎藤智裕(水嶋ヒロ)さん、買いました。
 (ジュンク堂で買おうとしたらカメラが待ちかまえていたので
 地下街におりて積文館で買いました。)
 読んだら報告します。乞うご期待。
 

2010年12月15日水曜日

 有明海訴訟上告断念


      (神々しい自然の美しさ
       日が傾くなか、背振山から有明海を臨む。
       手前は佐賀平野、左端は筑後川河口
       有明海の対岸左は雲仙岳)

 朝日新聞の一面トップが、菅直人首相が有明海訴訟について
 最高裁への上告を断念する方針を固めたと報じています。
 (ネットのニュースではそこまでは報じられていませんが)

 賛成。歓迎。

 福岡高裁判決後の農水省方針は潮受堤防を段階的に開門するものの
 裁判は上告すると報じられていました。

 しかしこれはおかしい。
 農水省のメンツを守るためだけに上告するとしか思えません。

 大型訴訟ではこれに関与する国側の役人の数は数十人に
 ほんとうにあれだけの人数が必要かいつも疑問に思います。

 一般に被害者側は手弁当ですが、彼らは当然国費支給
 農水省のメンツをまもるのに、われわれの税金をつかうのは反対。

 などとスケールの小さな話はこれくらいにして
 菅直人首相には、有明海の自然を守る大切さを
 大所高所から判断してほしいと思います。
 (背振山頂から判断したいというのであれば、いつでもお伴します)
 

2010年12月14日火曜日

 ざわめく影の樹々のなかで



 丸谷才一さんの「樹影譚」は、題名からわかるように
 主人公たちの「樹影フェチ」の性癖を動力源として物語が展開
 彼らはなぜ自分が「樹影フェチ」なのか、その謎を探つていきます。
  
   それなのに、影しか写つてゐない写真にこだはつたのは、
   ここを探ればまだ何かが出て来さうな予感がしたからだ。
   老作家は、三人の作中人物といつしよに生きて
   彼らの人生を長編小説の本筋とからめながら、
   他方、自分と樹の影との関係を探らうと努め、
   さうしてゐるうちに、
   ふと、雑誌から切抜いた写真を思ひ出したのである。

 古屋にとつての「樹木フェチ」の由来は
 (つまり、最後のマトリョーシカ人形でもあるわけですが)
 自己のアイデンティテイをゆるがす衝撃の事実…。

 自分の性癖の原因を分析することにより
 自己の無意識にひそむコンプレックスをさぐりあてるという作業は
 まさに精神・心理分析。

 さういえば村上春樹さんも河合隼雄さんと仲がいいですもんね
 村上さんが「樹影譚」を推す深層心理にはそこら辺があるのかも。

 クライマックス、古屋と老婆の会談(怪談)は
 まるで恩田陸さんの「常野物語」「エンド・ゲーム」のよう
 裏返さなければ裏返される??

 丸谷さんのお得意な(お好きな)
 意識と無意識、近代と古代の相克・往来
 老婆はグレートマザーなのでせうか?

 われわれも強いストレスにさらされたりすると
 なにやら独り言をつぶやいてしまって
 自分でもビックリすることがありますよね。

 真相をこじあける呪文はこの独り言
 「呪怨、呪怨、呪怨」ぢやなくて
 「樹影、樹影、樹影」。

 ラストは、ざわめく影の樹々のなかで
 フロイト的な精神分析からユング的な集合無意識の解明に達したのか
 まるで「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」
 のラストのよう。

 古屋のばあい、アウターではなく
 インナー・スペース・オデッセイなのでせうが。

 ※丸谷さんはこの時間オデッセイの手法が大好き(フェチ)なようで
 「女ざかり」のナカニワ類似の描写があります(さてどこでせう?)。
 

2010年12月13日月曜日

 小説は夢、読みは癒し


      (脳血管造影写真のような背振山のブナ林の樹影)

 「樹影譚」の小説内・小説内の主人公の古屋が要約した
 フランス女流評論家の論にもとづく小説の起源、本質、解釈よると
 かふなりそう。

 小説の起源は、オイディプス王(捨子)、シンデレラ(継子)意識にあり
 その本質は、放恣な夢・魂の告白であるので
 小説の解釈は、精神分析や夢分析と本質をおなじくする。

 われわれも小説を読んだり、映画をみたりすることにより
 カタルシスを味わつたり癒しを得たりします。

 (危機をかかえた作家がそれをはき出すこよによつて
 癒しを得ることはまさに「語るシス」)

 自分とおなじ問題を抱えている主人公のでてくる作品ほど
 読むことにより自己セラピーと心の快復に役立つわけです。

 おおくの人々の精神と心をおもい悩ます
 時代精神を表現した作品がおおくの人々に読まれるのも当然のことでせう
 志賀直哉や折口信夫がそうであったように。
 

 夢のまた夢のまた…



 映画「ノルウエイの森」を観ました。
 その感想を述へる前に、「樹影讃」のつづきを書いてしまいます
 それが映画の解釈の前提にもなるので。 

 といふわけで村上春樹さんの「若い読者」も
 丸谷才一さんの「樹影譚」も読んでるヒマがない人のために
 へたくそなガイドながら「樹影譚」の世界へご招待。

 以下ネタバレですが、これを読んでから
 「樹影譚」を読んでも十分に面白いはず。

 そもそも「樹影譚」そのものが非常にネタバレかつ挑発的。
 「これからこんなことを書くもんね」と宣言したり
 「小説の読みはこうするんよ」とか 
 「小説を書く手法はこれだから」などと
 小説の読み・書きに関するネタ(リテラシー)が満載で
 サービス精神たつぷり。
 
 「これからこんなことを書くもんね」の部分が外枠となり
 本小説はマトリョーシカ人形のような入れ子構造になっています。

 単純な入れ子構造ではなく
 幹から太い枝、細い枝がつぎつぎに生えてゐる「樹影」
 のような構造にもなつています。
 (枝先からまた芽が出て樹が生えたりします…)

 最初のマトリョーシカ人形の主人公は「小説家のわたし」
 そこには、つぎの4つの世界が。
 1 わたしの世界
   わたしの「樹影フェチ」の性癖とその考察
   その性癖を種にした短編小説の執筆の思い立ち、放棄
   ナボコフ作と思ふ短編小説の探索
   この小説が夢であることの論証
   小説家の古屋を主人公とする短編小説の執筆
 2 ナボコフ作と思ふ短編小説(実は自作?)
   主人公である亡命ロシア人の「樹影フェチ」の由来
 3 わたしの夢の世界
 4 「小説家の古屋逸平を主人公とする短編小説」

 「古屋逸平を主人公とする短編小説(その1)」からは、つぎの世界が。
 1 老作家・古屋の世界(現在)
  ①古屋の家族、経歴、作風、作品
  ②日記や創作ノートを兼ねるスクラップ・ブック
  ③樹影の写真、その探索
  ④「樹影フェチ」の性癖、その考察
  ⑤「樹の影、樹の影、樹の影」といふ、つぶやき事件
  ⑥「樹影フェチ」の由来の考察
  ⑦自分の小説中の人物は、樹影に接してもつぶやかないこと
 2 古屋が想を練つてゐる長編小説といふか、脇筋の姦通(不倫)
   そのなかでの樹影写真事件

 1の①からまた、つぎの世界が。
  ア 名古屋の割烹旅館の娘が…といふ最も有名な長編小説
  イ 文芸評論「秋成か宣長か」

 1の④からまた、つぎの世界が。
  ア 15年ほど前、バンコクでの樹影経験
  イ 昭和20年8月、寸劇騒ぎのときの樹影経験
     さらに
      博徒の親分、妾、子分の寸劇 
      昭和30年ごろ、スクラップ・ブックに書きつけ
  ウ 戦後まもなく、離婚・家移り後の樹影経験

 1の⑦からまた、つぎの世界が。
  ア 長編小説「海流瓶」の脇役の話
  イ 長編小説「蝶を打つ」
 
 「古屋逸平を主人公とする短編小説(その2)」からは、つぎの世界が。
 1 郷里での講演
 2 文芸雑誌の新年号の評論を書く前に走り書きしたメモ
 3 老婆らとの手紙のやりとり
 4 老婆らとの虚々実々の会談というか、怪談

 2からまた、つぎの世界が。
  ①小説の起源についてのフランス女流評論家の論の要約
   そこから
   ア オイディプス王(捨子)、シンデレラ(継子)が小説の原型
   イ A大衆小説、B自伝小説、Cどちらでもないもの分類論
   ウ 小説の本質論=放恣な夢・魂の告白、夢遊病者の夜の散歩
  ②志賀直哉の長編小説「暗夜行路」論、折口信夫論、明治後期の精神史

 これだけのネタがわずか92頁の短編小説につまつてゐて
 量的にもネタ満載、サービス精神たつぷりなわけです。

 A川次郎さん、T野圭吾さんだつたら
 これらのネタで10や20の小説を書かれたことでせう。

 フランス女流評論家が看破するように
 小説の本質が畢竟、放恣な夢であるとすれば
 入れ子構造の小説は、放恣な夢のまた夢のまた夢…。

 実際、作中「古屋と兄弟弟子と考へるのが一番いいかもしれない」
 とされるボルヘスは、夢の中の夢の中の夢…
 みたいな小説を書いてゐます。

  虜囚の「わたし」は
  牢の床に砂が一粒落ちている夢を見る。

  夢を見るたびに砂は二粒、三粒と増えてゆき
  やがて無数の砂粒で「わたし」は死にそうになる。

  目覚めても砂はある。

  誰かが「わたし」に
  「汝は真に目覚めたのでなく、前の夢へと目覚めたのだ。
  その夢はまたもう一つの夢の中にある。
  無限に夢が重なるのだ」
  と告げる…。

 ※なお、「若い読者」をパクつてはいませんので
 「似てゐるふしは多少あるかもしれない」けれど
 「盗作呼ばはりされることはまさかないと思」ひます。
           (「樹影譚」の外枠の「わたし」より)

 ※※「樹影譚」は嘘のような本当のような話が
 嘘のようでもあり本当のようでもあるように
 夢・うつつのごとく書かれてゐて
 あの村上さんでさえ、翻弄されています。
  フランス女流作家の批評の実在性を否定したところ
 のちに三浦雅士さんから、その実在性をおしえられ
 末尾の注で苦しい弁解をされてゐるところなど。

 ※※※長大な作品を物するのは
 数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは
 労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
 よりましな方法は
 それらの書物がすでに存在すると見せかけて
 要約や注釈を差しだすことだ。
                (ボルヘス「伝奇集」岩波文庫)
 

2010年12月11日土曜日

 「樹影讃」


                       (美女平のブナ)

 「あいさつは一仕事」を読んでゐたら
 丸谷才一さんには
 「樹影譚」(文春文庫)
 なる小説があることを知りました。

 「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫)
 のなかで村上春樹さんがとりあげてゐるようですが
 気づきませんでした。

 でもこんかいは、さーつと頭のなかに飛び込んできました。
 卒啄(そくたく)の機なのでせうね。

 卒啄の機は、禅の言葉
 卒は、ひな鳥が卵の内側から殻を突っつくこと
 啄は、親鳥がそれに即応して、外側から殻を叩くこと。

 ひな鳥が卵から孵る時に、ひな鳥の発する気配を感じ取って
 親鳥が外側から殻をコツ、コツと叩いて
 ひな鳥が殻を割って生まれるのを助けることを表したもの。

 転じて、教育や指導もうける側の態勢が熟していることが重要
 さうでなければ上滑り、空回りしてしまふの意。 

 せつかくの村上さんのアドバイスも
 こちらの機が熟していなかつたため、キャッチしそこねました。
 (それか、若ひ読者むけの本だつたので、熟しすぎてゐたか)
 村上さん、ごめんなさひ。

 人権課題もあまりにもはやく問題提起してしまったために
 かへつて解決がむずかしくなり、遅れたりすることがります
 「あれは10年早すぎた。」といふように。

 さて、こんかひ私をとらへたキーワードは「樹影」

 今夏から本ブログのために
 デジカメ写真をよく撮るようになったところ
 気づいたら、被写体は「樹影」が異常におおくなってゐます。
 
 いはば「樹影フェチ」

 さういへば「樹影」をみると、激しく心をゆさぶられます
 それで、「樹影譚」という言葉にとらわれてしまったんでせうね。

 「樹影譚」はとっても面白い小説でした。
 どこがどう面白ひかは村上さんの「若い読者」をどふぞ。

 いや、そんな間接アプローチがまどろつこしひ
 (村上春樹さんの助け・指導などいらぬ)
 といふ人は、さいしょから「樹影譚」をご覧くださいまし。
 

2010年12月10日金曜日

 マイブーム~丸谷才一さん~


                 (有明海越しに雲仙岳を望む。)

 最近のマイブームは丸谷才一さん
 結婚式等でおこなつた挨拶をまとめた新作「あいさつは一仕事」
(朝日新聞出版)
 これにはまりました。
 
 以前にも、いくつかたのしく読んだことはあつたのものの
 今回がいちばんおもしろく感じました。

 なぜいまブームなのか?
 年齢のなさるわざか、それとも…(ほかに思ひつきません)。

 丸谷さんとしては、力を入れてゐる長編小説ではなく
 余技のひとつにすぎない挨拶集をほめられても不本意でせうが。

 1 学識は鹿爪らしくて苦虫を噛みつぶしたよふなものでなく
  明るくて、陽気で、機嫌のいいものだという考え方

 2 評論は読んでよくわかつて一向さしつかへないこと

 3 口ぎたなく罵らなくても
  文学と人生を批評する鋭い切れ味をみせることができること

 4 俗であること、あるいは世俗に対して激しい関心をいだくことが
  上品さ、高潔さときれいに両立すること

 5 変な遠慮や勿体のつけ方をせず
  まことに勇敢に女および女性的なものすべてを取り上げること

 6 遊び心を奔放に発揮することが
  すなわち人間と世界の新しい探求となり得ること

 いずれも私に親和的で、読んでいてじつに気持ちいい。

 丸谷さんの挨拶は、主役の人となりや業績を
 まことに的確にとらえて話をされてゐます。
 
 挨拶も、批評のひとつ
 批評とは、よひ点・悪ひ点などを指摘して、価値を決めること。
 (岩波・国語辞典)

 こつは
 1 「よひ点」はご本人ならびにまわりが納得するようなところを
  的確に・十二分にほめること

 2 「悪ひ点」はじようずに回避すること
  せひぜひが遠回しに指摘するにとどめること
 にあるようです。
 
 なるほど、ひごろの人つきあひにも十分つかへそうです。
 さすが一流の批評家はちがひます。
 毎日新聞の書評欄をながらく主催されただけのことはあります。

 「批評は近代には大いに力を振るつたが
 21世紀の今、批評が果たす役割がいかばかりなのか疑問ももたれてゐる。
 ことにインターネットの日常化により
 批評家といふプロの存在が危うくなつてゐるかもしれない。」
 (はてなキーワード)などといわれてゐますが、はたしてそうでせうか?

 たしかに、家電量販店などにいくとランキングNo.1、売れ筋No.1といふ
 アイテムが安心感があり、これにしたがって購入したりします。

 しかしながら本や人、業績となるとちよつとちがう感じ
 家電とちがい、読み方にはレヴェル・深さの問題があるからです。

 それぞれの読みでいいことは否定しませんが
 達人に読み方を教えてもらふと、深く味はへることがあります。

 また未知の世界へも連れていってもらへます
 先達はあらまほしきことなり、です。  

 弁護士という仕事がら、挨拶をおおせつかる機会がときどき
 ですが、これがなかなかにむずかしひ、たしかに一仕事。

 うまくいつたと感じられるのは、せひぜひ3回に一度てひど
 用意したジョークがすべると、かならずダメですね
 野球選手ならこれくらいの成績でよいのでせうが。

 さすがの丸谷さんでも失敗することがときどきあるとか
 すこし慰められます。
 

2010年12月9日木曜日

 訃報:大谷藤郎さん、ハンセン病問題解決に貢献



 大谷藤郎さんの訃報に接しました
 1昨日(7日)、ご逝去
 旧厚生省にありながらハンセン病問題解決に貢献されました。

 私が生まれた1959年に入省
 72年国立療養所課長
 81年医務局長
 これら要職を歴任し
 国の医療行政の責任者としてハンセン病施策を担当されました。

 在職中から患者の人権回復・処遇改善にとりくみ
 退職後は、隔離を定めたらい予防法の廃止(96年)に尽力。

 ただやはり内部からの改革には限界があり
 形式的な法廃止にとどまっていたことから
 差別・偏見の撤廃や退所支援策など不十分なままでした。

 そこで被害者らは90年におよぶ隔離政策の完全廃絶を求めて
 ハンセン病国賠訴訟を提訴しました(98年)。

 99年8月、10月、大谷さんは熊本地裁で
 原告、被告双方の証人として出廷、証言されました。

 双方の申請なので、私たちは主尋問と反対尋問をおこない
 私は反対尋問チームの責任者でした。

 大谷さんは尋問準備のための事前面談に応じられず
 最後までどのような証言になるか予断を許しませんでした。

 しかしながら「新憲法施行後に予防法を制定したのは誤りだった」
 と、国の責任を明快に認める証言をされました。

 これが決め手となり
 熊本地裁は国の隔離政策を違憲とする判決をおこない
 小泉首相の控訴断念により確定しました(01年)。

 大谷さん、ありがとうございました。
 ご冥福をお祈りします。 
 

2010年12月8日水曜日

 雲仙岳・平成新山


 
 国見岳付近から平成新山を臨む。
 
 この写真ではわかりにくいかもしれませんが
 (拡大してみてください)後方に
 島原半島・島原市街
 有明海・島原湾
 金峰山
 (漱石が坂路を登りながら、智に働けば…と考えたところ)
 阿蘇山
 (祖母山はその右、新山の山かげにかくれてしまっています)
 九重山
 が手前から順に見えています。
 
 大学時代に登った雲仙岳は3峰(5岳)といって
 普賢岳、国見岳、妙見岳の3峰からなり
 1359mの普賢岳が最高峰でした。

 ところが1990年~95年の火山活動で
 平成新山(1483m)が形成され、最高峰となっています。

 この火山活動のうち、91年6月3日に発生した火砕流により
 火山学者4名
 報道関係者16名、同行したタクシー運転手4名
 警戒に当たっていた消防団員12名、警察官2名を含む
 あわせて死者行方不明者43名と9名の負傷者を出す大惨事に。

 プロをも巻き込んだこの事件
 山や自然の厳しさに粛然とさせられます。

 普賢岳からさきは立入禁止となっており
 (写真の右外側が普賢岳)
 現在も、新山に登ることはできません。

 火山活動はこのような厳しさだけでなく恩恵も
 百名山のおおくは火山で、変化にとんだ景観ですし
 その周りはゆたかな温泉に恵まれています。 
 
 「うんぜん」はもと、ずばり「温泉」と表記されていたところ
 国立公園に指定されたときに、「雲仙」と改められたとか。

 たしかに「温泉」表記だと「うんぜん・おんせん」の表記は
 「温泉温泉」になってしまい
 なんのこっちゃ?誤植か?って感じです。
 

2010年12月7日火曜日

 有明海訴訟、福岡高裁も開門を命ず



 雲仙・国見岳(1347m)から有明海をのぞむ。
 (国見岳の名はむかし国見をしたことに由来するものでしょう)

 島原半島のむこうは有明海
 左方が諫早湾
 対岸は佐賀平野から筑後平野
 そこに佐賀、柳川、大牟田の各市街。

 昨7日、有明海訴訟において福岡高裁は
 諫早湾の潮受け堤防排水門を開門するよう国に再び命じました。

 有明海沿岸の漁民らは
 国営諫早干拓事業で漁業被害を受けたとして
 潮受け堤防の撤去や排水門の常時開門を求めていました。

 民法上、物件・人格権などの権利を侵害するばあい
 差し止め請求が認められると解釈されています。

 本件では生活基盤にかかわる漁業行使権を侵害していると認め
 侵害を差し止めるため、排水門を開門するよう命じたわけです。

 (われわれ国民一般の有明海の環境を保全する権利や
 ムツゴロウの生活権を認めたわけではありません
 そこは現在の法律学の限界です)

 開門賛成派は有明海の漁業者
 反対派は国(農水省)だけでなく干拓農地の農業者
 海幸vs.山幸ならぬ、海幸vs.農幸の争いになってしまっています。

 海の神(ワタツミ)が死ねば
 農業もたちいかないばかりか
 そもそもわれわれ人間だれもが生きられないと思うのですが。

 菅政権には
 国原からは煙りたち、海原からはカモメたつような
 うまし解決を期待したいと思います。

  
  大和には 群山あれど

  とりよろふ 天の香具山

  登り立ち 国見をすれば

  国原は けぶり立ち立つ

  海原は かまめ立ち立つ

  うまし国ぞ 蜻蛉島

  大和の国は

        舒明天皇・万葉集第一、二
        (萬葉集釈注 一、集英社)
 

2010年12月6日月曜日

 30年ぶりの雲仙岳



 きのうは雲仙・普賢岳(1359m)に登りました
 大学時代に登ったきりですから30年ぶり。

 10年ほど前、温泉街で合宿がありました
 でもそのときは大雪でたどりつくのがやっと
 山登りどころでは…。

 さて土曜の夜は宴席だったので、ダルかったものの
 早起きして朝6時には出発。

 なにもなければ、日和ったと思いますが
 ブログに背中を押されました。

 消極的な選択肢と積極的な選択肢が拮抗したとき
 ブログは後者に錘をひとつ乗せてくれますね
 ブログの効用です。

 朝6時はまだ暗く寒いところ
 明けの明星が大きく輝いて励ましてくれ
 冬の大三角形が行く手を示してくれます。

 特急かもめに乗ると佐賀駅の手前から
 進行方向左手(南)にはやくも雲仙岳のシルエットがみえます。

 佐賀平野の早朝の冬景色はまことに幻想的
 水路から朝霧、刈田からたき火の煙がたちのぼるなか
 耳納連山でしょうか朝日が刺しはじめます。
 
 特急が有明海をおおきく迂回するため
 雲仙岳のシルエットはいったん後方へしりぞき
 肥前鹿島あたりから再び左前方に少しおおきな姿を現します。

 しばらくいくと汐留堤防と諫早湾干拓地が
 そういえば6日(きょう)福岡高裁の判決が予定されているなぁ
 どうなるんだろう?諫早湾のムツゴロウたちよガンバレ。

 諫早からは島原鉄道バスに
 途中、福田えりこさんのポスターが
 そうかこのへんが選挙区か!(あらためて認識)。

 薬害のない社会、被害者が泣かなくてよい社会をつくろうと
 政治の世界へ入っていったけれども
 昨今の政治情勢からして、つらい思いをしているだろうな…
 ちょっと心配です。

 愛野(なんという美しい地名)をすぎ、島原半島に入ったあたりから
 こんどは「OBAMA」の道路案内看板が
 それに触発され、おもいは太平洋をとびこえて米国民主党の現状へ。

 などと思っているうちに右手に美しい橘湾があらわれ
 バスは小浜温泉から急坂をのぼって雲仙の温泉街に。

 そこからの交通の便は信じられないぐらい悪く
 歩くことに。

 これが失敗。
 途中、ゴルフ場の分岐と池の原の分岐で2度も迷い
 仁田峠に着いたときは、なんと12時。

 「早立ち、早着き」を鉄則とする山行計画に照らし
 完全な失敗…。

 当初の予定を変更して、ロープウエイを使用
 妙見岳まで標高差250mを3分でクリア。

 きのうは一年に2度あるかないかという快晴
 山頂からは九州じゅうの山が見えました
 いやほんと、阿蘇山はもちろん、九重山、祖母山、霧島山も。

 妙見岳から尾根沿いに国見岳、普賢岳へ
 写真はそこから見えた桜島の噴煙。

 雲仙野岳の稜線のむこうが有明海・島原湾
 (薄もやがおおっています)
 そのまたむこうが天草の島々
 (島原の乱のリーダーが天草四郎というのもこういうわけか)
 そのまたまたむこうが水俣あたりの海岸線
 そのまたまたまたむこう
 まんなかにたなびいているのが桜島の噴煙です。 

 国見岳で山ガールたちがはしゃいでいました。
 「鹿児島って、あんがい近いね~。」
 (う~ん、ちとちがうぜよ)
 

2010年12月3日金曜日

 幸福追求のための臨時会



 臨時国会がきのう閉幕しました。

 憲法上、臨時国会は臨時会と呼ばれ
 召集手続に関する定めがあるだけです(憲法53条)。

 しかし国会は、国権の最高機関であって
 国の唯一の立法機関なのですから(憲法41条)
 国民の幸福追求権を保障する(憲法13条)など
 その職責をまっとうすることが要請されています。

 臨時会は、文字どおり、必ずしも開く必要はなく
 解決すべき課題が存在する場合に
 必要におうじて開くことになります。

 今臨時会は、景気対策のための補正予算のほか
 解決が必要な課題が山積していたために
 開かれたはずですが、どうなったでしょうか?
  
 どの課題にも、その解決を心待ちにしている方々がいます
 課題とズレたところで与野党が場外乱闘を繰り返しているのでは
 国会の職責をまっとうしているとはいえません。

 3年前の2007年9月10日にも
 やはり臨時会が召集されました。

 この臨時会も、7月の参議院議院選挙で与党の自公が過半数割れし
 ねじれ国会になっていました。

 8月には、安倍晋三首相が内閣を改造し
 桝添要一さんを厚生労働大臣に起用していました。

 薬害肝炎原告団は全面解決をもとめて9月10日から
 厚労省前(日比谷公園)で座り込みをはじめました。

 ところが安倍晋三首相は所信表明を行った翌12日、突然の辞意表明
 われわれは解決責任者をうしない、座り込みを解きました。

 後任には自民党総裁選を経て26日、福田康夫首相が就任しました。
 桝添大臣は福田首相のもとで続投することになりました。

 臨時会の会期は当初11月10日までの予定でしたが
 2回延長され翌2008年1月15日までとなりました。

 このように書くと(また結末を知っているので)
 この臨時会は薬害肝炎を解決すべく開催されていたかのようですが
 まったく違います。

 ねじれ国会全体では、民主党が反対姿勢を示していた
 テロ特措法の延長問題が最大の焦点でした。

 厚労委員会にかぎっても年金問題、後期高齢者医療問題など
 解決すべき大問題が目白押しで
 薬害肝炎はずいぶん長い列のうしろのほうで順番待ちの状態でした。

 こうしたなか、原告団は病をおして運動をおこない
 国民世論もこれを支持し、応援してくれました。

 この世論をうけ、民主党議員も国会で政府の姿勢を追求し
 桝添大臣も解決にむけ力を尽くしてくれました。

 12月23日、福田首相が総裁として自民党にたいし
 議員立法にて薬害肝炎法をつくることを指示し
 翌2008年1月11日、同法が成立し
 薬害肝炎問題を全面解決にみちびくことができました。
 
 臨時会は、憲法の明文上はわずか1条に基づくものであるものの
 国民のねばりづよい運動とこれに対する国民世論の支持さえあれば
 われわれの幸福追求権(憲法13条)を実現することが可能になります。
 
 今国会において課題の解決ができなかったみなさま
 幸福追求のために・たたかっておられるみなさま
 エールをおくりたいと思います。がんばってください。
 

 「もののけ姫」とブナ林の命運





 われわれ薬害肝炎弁護団にとって「もののけ姫」といえば
 中山篤志弁護士によるカウンターテナーまがいの歌
 (みなさまにお聴かせできなくてまことに残念)
 なのですが、きょうはブナとの関わりについて。 

 SENGOKUの世がはじまろうとするころ
 ヤマト朝廷に抵抗したエミシの長アテルイの末裔たちは
 (アテルイについては高橋克彦さんの「火怨」をどうぞ)
 奥羽山脈の麓の村でほそぼそと生きのびていました。

 エミシの住まうの森と村は白神山地がモデル
 いわばブナの森と村なんですね。

 イケメンの少年アシタカは
 村を襲ったタタリ神のイノシシに
 死に至る呪いをかけられてしまいます。

 タタリ神から自分が呪いをかけられた真相をくもりなき目で見定めるため
 アシタカは、はるか西方へと旅します。
 (手がかりはイノシシの体内から摘出した鉄の銃弾)

 アシタカがたどりついたのはシシ神の森
 そこには「鉄と銃」でシシ神と森を殺そうとする人間たちが。
 (つまり、それが死に至る呪いの真相)

 その人間たちと
 シシ神を守ろうとする山犬一族&もののけ姫(少女サン)が
 壮絶な戦いを展開。

 アシタカはその戦いに巻き込まれ物語はクライマックスへ。
  
 さて私のばあい、死に至る呪いとまではいかず
 春先に大量に飛散するスギ・ヒノキ花粉による花粉症に
 ここのところ苦しめられています。
 (話のスケールが小さくてすみません)

 花粉の呪いの真犯人をくもりなき目で見定めるため
 近くの森に入ってみると、そこには間伐のなされていない
 スギとヒノキの造林ばかりが…。
 なぜ、こうなってしまったのか?  
 
 ブナなどの原生林は人里から離れたところで残っていました。
 しかし戦後、政府は拡大造林政策を強力に推し進め
 ブナ林をスギやヒノキの造林におきかえていきました。

 日本海側の山地と奥羽山脈の稜線あたりに広がっていたブナ林も
 戦後大規模に伐採されてしまいました。

 こうしたなか白神山地のブナ林は、保護運動の抵抗もあり
 まとまった天然林として最後に残されたところとなりました。
 そして、世界遺産に登録されたのです。

 人による伐採・開発からブナ林をまもっていた装備としては
 比較的人里から離れたところにあったこと
 ブナが用材として使えなかったこと
 白神山地のように積雪や地質・地形により人が入りにくかったこと
 などがあります。

 なかでも見逃せないのは
 山岳信仰により守られていたことです。

 英彦山では修験道の山岳信仰に守られていたため
 ブナの原生林が残されています。
 (最近の台風に痛めつけられましたが)

 宝満山も修験道、山岳信仰の山なので
 ある時期まではブナ林を守っていたのかもしれません。

 しかし山の神への信仰がおとろえるとともに
 おおくの山々でブナ林が失われてしまいました。
 山の神の命と森の命は表裏一体の関係にあったわけです。

 「もののけ姫」(宮崎駿監督・スタジオジブリ)の物語には
 このようなバックグラウンドが。
 しかしさすが、宮崎映画はこれをまことに詩的・象徴的に描いています。
   

2010年12月2日木曜日

 ブブブのブナ~宝満山の樹~






 ブナといえば秋田/青森県境の白神山地(世界遺産)が有名ですが
 わざわざあちらまでいかずとも宝満で出会えます。

 宝満山でもっともおしゃべりなのは彼/彼女ら(雌雄同株)
 にぎやかに、なにか表現しています。
 
 落葉・広葉樹(夏緑樹)で
 照葉樹の森より明るく、秋には紅葉します。

 森の人気者で
 腰のあたりに地衣類などがまとわり着いて
 独特のファッションをしています。 

 足もとにはたいがい取り巻きとして
 ササ類をしたがえています。
 (歩きにくい)
 
 実は餌となるので、おおくのほ乳類にも人気
 不作の年には、クマが里におりてきてブーイングだとか。
 (宝満からはおりてくませんが)

 でも見てのとおり腐りやすいうえに曲がって狂いやすい
 木材としては使えないヤツなんです。
 (ただ、曲げに適しているため、家具の脚に好まれる)

 ブナは暑いところが苦手で、しかも寒いところも苦手
 宝満だと麓のほうは暑いので
 山頂・稜線ふきんの涼しいところに生えています。

 宝満の寒さはしれているけれどもアルプスだと寒いので
 登っていくと途中からいなくなります。
 (シラビソ・コメツガなどの針葉樹と交代)

 いまから冬の時期にかけて
 照葉樹たちが元気なのに
 落葉して幹と枝だけになってしまっています。
 (ま、ここらへんは落葉広葉樹に共通するところですが)

 宝満の山頂・稜線ふきんは暑くもなく寒くもないので
 人の手が入るまえはブナの原生林だったと思われます。
 (暑くもなく寒くもないところの原生林はブナなので)

 でもブナは一度伐採されると復活せず
 ミズナラなど他の落葉広葉樹に場所をゆずります。
 (1度政権を手放すと復活するだけの根性がありません)

 宝満~三郡の稜線にはシデ等の林がありますが
 ブナが伐採された後の2次林とされています。

 一番いただけないのは
 生長するにしたがって、根から毒素を出すこと
 そのため、一定の範囲に一番元気なブナだけが残り
 残りのブナは衰弱して枯れてしまいます。
 (なんというジコチュウな性格!) 

 ようするに、ブナは
 わいわいとおしゃべりで
 秋には紅葉して実をつけ
 人気があるものの
 腐りやすくて曲がりやすく
 暑さにも寒さにも弱く
 冬には落ち込み
 一度挫折すると再度復活する根性がなく
 ジコチュウな性格。

 誰かに似てません?