2017年12月26日火曜日
法定利率(2)~民法改正,筑紫野市の弁護士の解説(4)
(宝筺院)
高利貸しに関しては,まず,暴利行為として公序良俗(民法90条)違反により無効だとする判例があります。いわゆるヤミ金による貸金が暴利行為として無効であるのはこのためです。さらに,ヤミ金からの借金は不法原因給付として返済不要でもあります。
つぎに,高利貸しは,いろいろな潜脱方法が考えられてきました。古くは芸娼妓契約に関する判例があります。親がまず借金をします。この借金を娘が芸者・娼妓として働いた賃金のなかから返済するという契約です。別々に考えれば,ありそうな契約です。が,実態は人身売買であり,公序良俗違反により無効です。
2017年12月21日木曜日
『熊野』
(祇王寺)
写真は祇王寺の庭です。竹林と広葉樹が接しています。竹林は嵯峨野らしいですし,紅葉も小倉山らしい。両方のハイブリッドです。祇王寺の名前は平家物語にある祇王の悲しい話に基づいています。祇王は平清盛に寵愛された白拍子でした。あるとき飛びこみ営業にきた仏御前に情けをかけたことから追い出されることになりました。嵯峨野で出家・隠棲しますが,清盛からさらなる辱めをうけます。世をはかなんで仏事にはげんでいたところ,仏御前がたずねてきて和解します。寺は,このような祇王や仏御前らの像などをつたえています。
先日,能を鑑賞する機会がありました。大濠能楽堂で。知人のご招待です。演目は『熊野』。これを「くまの」と読んだら,能の知識がないこを暴露することになります。「ゆや」と読みならわしています。熊野は宗盛の愛妾の名前で,能の主役・シテです。
この謡曲のもとネタはやはり平家物語で,「街道下」の巻のなかにあります。
一の谷で捕らわれた平家の重衡が鎌倉に連行される途中のエピソード。重衡は単なる戦争犯罪人というだけでなく,奈良の東大寺などを焼き討ちした重大犯罪人であり,鎌倉では死刑を言い渡されることが見込まれています。
道中池田の宿で,重衡は,熊野と宗盛の由緒をきかされます。ときは平家の全盛期,東国(池田の宿)に住む母が病気になったので帰りたいと熊野が申し出たにもかかわらず,宗盛はこれを許しません。そのとき,熊野が詠んだのがこの和歌。
いかにせん 都の春も 惜しけれど
馴れし東の 花や散るらん
この和歌はこれだけで平家の貴公子・重衡の境遇に照らし,涙をさそうものがあります。
でも,この和歌で詠まれ,花や散るらんと心配されているのは病気の母のことです。作者はこのエピソードをふくらませて,『熊野』の世界をつくりあげています。京都,清水寺に至る春爛漫の情景,それが華やかであればあるだけ熊野の内心の苦悩がいっそう際立つという構成です。
見事というほかありません。
2017年12月19日火曜日
法定利率(1)~民法改正,筑紫野市の弁護士の解説(3)
(嵯峨菊,大覚寺門外不出の)
利子・利息。
これほど庶民を苦しめてきたものはないと思われます。
古くは出挙(すいこ)。日本史の教科書にでてきました。
古代の貸付けの一種。公私2種あり,公出挙と私出挙です。公出挙は,春,国司(いまの県知事)が官稲を貸し与えたもの。秋の収穫のときに3~5割の利息をつけて返納しなければなりませんでした。つまり,春に米1キロを借りて秋に米1.5キロを返すということです。約半年の利息ですから,年利に換算すると60~100%になります。当初,勧農,救貧が目的であったものが,後には,貸付けも強制的になり,税となったとか。私出挙は営利目的で,利息は10割だったとか。つまり,年利200%です!
中高校生のときこれを読んでも,文字づら以上のことはわかりませんでした。しかし,いまならわかります。むちゃくちゃ高利だったんだなぁと。
いまなら「利息制限法」という法律があります。これによれば,次のとおり利息が制限されています。
金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は,その利息が次の利率(単利)により計算した金額を超えるときは,その超過部分につき無効です(法1条1項)。
・元本が10万円未満の場合,年20%
・元本が10~100万円未満の場合,18%
・元本が100万円以上の場合,15%
「利息制限法」は民事上の制限ですが,さらに「出資の受入れ,預り金及び金利等の取締りに関する法律」(出資法と略します。)があり,同法は年109.5%を超える金利について犯罪であるとして刑事罰の対象にしています。
高利貸しという言葉があります。まるで蛇蝎のようなイメージです。古代においては国からして,いまなら犯罪になるような高利貸しだったわけです。当時の農民はたいへんだったでしょうね。
2017年12月18日月曜日
『雪国』と『おくの細道』と銀河
山歩きをしていると,高山植物や山岳の美しさだけでなく,真っ赤な日没,日の出,流れる雲,キラキラする空気や天空の美しさにも心を奪われます。
山小屋に泊まると,夜中にごそごそ起きだす人たちがいます。用をたしにいくのかと思いきや,外できゃーとか言っています。なにをしているのかというと星空を嘆賞しているのです。もう満天の星空,降るような星々です。忘れていた子どものころの記憶が鮮やかによみがえります。
こんかい『雪国』をよみかえしてみて思ったのは,能の理解による読みの気づきだけではありません。人間ドラマの背景として描かれている自然の美しさにも瞠目しました。上越国境の山々,雪山の美しい情景は見たことのある人とない人では,やはり感動のしかたがちがうと思います。そして芭蕉の句のあざやかな援用。悲劇的な結末の場面。
「天の河。きれいねえ。」
駒子はつぶやくと,その空を見上げたまま,また走り出した。
ああ,天の河と,島村も振り仰いだとたんに,天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった,旅の芭蕉が荒海の上に見たのは,このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして,すぐそこに降りてきている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく,ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り,しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
『雪国』より
2017年12月15日金曜日
2017年12月14日木曜日
『ニュー・シネマ・パラダイス』と『雪国』と能
一人息子(高校生)がいる女性と『ニュー・シネマ・パラダイス』の話題となった。その人によると,あの映画をみるときには,主役の映画監督ではなく,映画監督の母親の視点でみてしまうのだそうだ。
そのときは,それはかなり変則的な見方ではなかろうかと思った。映画は(小説などでも)観客が主役に感情移入して観るものであり,そうならなかったとしたら,作者なり制作者の失敗ではないだろうか。でもまぁ,映画なんて楽しんでなんぼだから,息子がいる母親が,話中の母親に感情移入して楽しむのもありかなぐらいに思った。
しかし,今般,認識をあらためた。フェイスブックでやりとりをするなかで『雪国』が話題になったので,あらためて読みなおしてみた。これまでには気づかなかった点に,いろいろ思い当たった。なかでも,主人公と思っていた島村に関する注解(郡司勝義,新潮文庫175頁)。川端康成「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで,ただ駒子をうつす鏡のようなもの,でしょうか。」(昭和43年12月『雪国』について)。能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか。
能を知らなければ,この注解は意味不明だろう。少しでも囓れば,明白である。能における主役はシテである。この世に未練を残し,成仏できない霊的な存在であることが多い。これに対するワキは,諸国一見の僧であることが多く,シテを呼びだし,その鎮魂を行う存在である。つまり,主役は駒子(その純な生きざま)なのである。島村は彼女とその渦巻く感情を呼びだし,その純粋さを読者に伝える存在にすぎない。それであれば,島村に感情移入しているだけでは大事なことが見えない。このように理解して『雪国』を読めば,いろいろなことが見えてくるし,理解できるところもでてくる。なるほどなるほど。
そういう立場に立てば,『ニュー・シネマ』についても,母親を主役として鑑賞することもあり得るように思えてきた。むしろ日本人の見方としては多数派なのかもしれない。少なくとも,伝統に忠実な見方といえるかもしれない。あるいは,企業などで社長型と参謀型・秘書型にパーソナリティが分かれるとすれば,後者の人たちはこのような鑑賞のしかたをしているのかもしれない。
西欧人には主体性があるが日本人には主体性がないとかいう議論も,少なくとも中世以来のこのような日本人の心性と深くかかわっているのではなかろうか(飛躍しすぎ?笑)。
2017年12月13日水曜日
太宰府ロータリークラブ,2017年忘年家族懇親会
昨日は,太宰府ロータリークラブの2017年忘年家族懇親会でした。西鉄グランドホテル2Fプレジールにて,18時30分から。
ロータリークラブの役職は単年度制なので,会長として最初で最後の忘年家族懇親会です。
インターアクトクラブの顧問の先生がた,米山奨学生のほか,会員の家族をお招きしました。それで,忘年「家族」懇親会です。
以前,ある女性のお客さまが当クラブで講演された際,男性会員ばかりだったので,男社会ですねぇとおっしゃったことがありました。私もずっとそうなのかと思ってきました。
ところが,先日考えをあらためることがありました。次年度の役員をお願いする際に,会員の事業所を訪問しました。どの会員も立派な経営者なのですが,妻の承諾がないと承けられないと回答されるのです。わがクラブのメンバーにおいては,配偶者の意向を無視して活動ができないことを痛感しました。
ということを会長あいさつで話しました。が,あまりウケませんでした。みなさんにとって,あまりに当たり前のことでオチが分からなかったか,あまりに恐ろしい論点で触れられたくなかったのか・・。
ま,会長としてのお仕事もあと半年です。最後まで大過なくやりとげたいと思います。
小倉山,小倉百人一首と藤原定家
(嵯峨野・常寂光寺の紅葉)
嵯峨野の紅葉狩りのクライマックスは,やはり小倉山でしょう。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公
という,あの絢爛豪華な歌にでてくる小倉山です。貞信公というのは藤原忠平。われわれ太宰府の人間にとっては菅原道真の政敵として有名な時平の弟です。
小倉山は,小倉百人一首でも有名です。藤原定家が小倉山の小倉山荘で百首を選んだので,小倉百人一首です。
甘味で有名な小倉あんも,小倉山あたりでとれた大納言という種類の小豆がおいしいことから名づけられたようです。
小倉山の山麓には,常寂光寺と二尊院という2寺があり,いずれ劣らぬ紅葉の名所です。そこでいただく甘味とお抹茶は最高です。
2017年12月12日火曜日
わくわくブロック忘年会
昨日は,福岡県中小企業家同友会・筑紫支部わくわくブロックの忘年会でした。
場所は,福岡市博多区麦野の那香野すし。葱鮪なべが絶品,あたたまりました。
福岡県中小企業家同友会は,よい会社をつくろう,よい経営者になろう,よい経営環境をつくろうという3つの目的で活動している異業種交流団体です。
筑紫支部は,福岡地区にいくつかある支部の一つで,名前のとおり,筑紫地区を拠点として活動しています。
支部は,ブロックと呼ばれるグループにわかれて活動しています。私は,筑紫支部の副支部長として,わくわくブロックを担当しています。
わくわくブロックは,宮原福樹園の宮原博幸さんがブロック長です。今期,ブロック長の活躍により盛りあがりました。
福岡南ロータリークラブ60周年
先週12月7日(木)は,福岡南ロータリークラブの60周年記念式典に参加しました。太宰府ロータリークラブ会長としてのご招待を受けていました(福岡南クラブとは,国際ロータリー第2700地区第4グループでご一緒しています)。
福岡市博多区のホテルオークラ福岡で,午後4時30分からでした。
余興が盛りだくさんで,とても楽しい会でした。
なかでも印象に残ったのは冒頭,博多の芸妓「博多券番」さんがオールスターで,祝いの席を盛り上げたことです。
最初の曲は『石橋(しゃっきょう)』でした。祝言の舞です。紅白の獅子をもった芸妓さん2人が舞い踊りました。
『石橋』の筋はこうです。中国で修行をしていた寂昭法師が清涼山の石橋を渡ろうとすると,人が容易に渡れるものではないと止められ,橋の向こうは文殊菩薩の浄土であると教えられます。
やがて,橋の向こうで菩薩の使いである獅子が現れ,香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ,獅子舞を舞うのです。
これまでの私だったら,なんのことやら分からなかったと思いますが,さいきんは謡曲をすこしかじっているので,おそらくそうだと受けとめることができました(むろん謡曲そのままではありません)。物事を学ぶと世界がひろがり,人生がより豊になるなぁと思えた時間でした。
想夫恋と小督
(嵐山・小督塚)
(琴きき橋跡)
九州人に「想夫恋」といえば焼きそばだけれども,『平家物語』には焼きそばとは似ても似つかぬ哀切な物語があります。また嵐山にいくと嵐山,桂川,渡月橋や天竜寺に目がいくけれども,『平家物語』ゆかりの名所がひっそりと佇んでいます。
まずは,「小督塚」。渡月橋の北詰,大堰川沿いに西(亀山の方)に1区画ほど向かい,アラビカの角を北に入ってしばらくいくと,左側にあります。小督さんは,高倉天皇の寵姫。たいへんな美人だったそう。天皇の中宮が平清盛の娘・建礼門院徳子であったことから,清盛は小督を宮中から追放。迫害をおそれて,小督は嵯峨野に隠れ住んでいました。
天皇は嘆き悲しみ,源仲国に命じて,小督を探させました。ときは中秋の名月が煌々と輝いています。ヒントは嵯峨野のあたり,片折り戸に茅葺きの家というだけ。みなさんだったら,どこを探しますか。
仲国は,まず清涼寺からはじめます。例の源融ゆかりのゆかりもある寺です。嵯峨釈迦堂の名で知られ,中世以来融通念仏の道場としても知られています。謡曲「百万」はそれが舞台になっています。
ほか堂々を見てまわりますが,見つかりません。逃げ出したい気持ちをおさえて,今度は法輪寺へ向かいます。法輪寺は,渡月橋から嵐山の中腹に見えるお寺です。つまり,仲国は嵯峨野を北から南の嵐山の方に向かったことになります。すると・・
亀山のあたり近く,松の一叢ある方に,かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か,尋ぬる人の琴の音か,覚束なくは思へども,駒を速めて行くほどに,片折り戸したる家に,琴をぞ弾き住まされたる。控えてこれを聞きければ,少しも紛ふべうもなく,小督の殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ,夫を想うて恋ふと読む,想夫恋と言ふ楽なりけり。仲国,さればこそ,君の御事思ひ出で参らせて,楽こそ多けれ,この楽を弾き給ふことのやさしさよと思ひ,腰より横笛抜き出し,ちつと鳴らいて,門をほとほとと叩けば,琴をばやがて弾き止め給ひぬ・・
このかすかに琴ぞ聞こえた場所が渡月橋の北詰とされています。ま,清涼寺から法輪寺に向かい,亀山のあたり近くに琴の音が聞こえたというのだから間違いはないでしょう。いまは立派な渡月橋が架かっていますが,むかしは琴きき橋というのが架かっていたようです。琴きき橋跡の碑がたっています。
『小督』は謡曲にもなっています。
紅葉の時期もよいけれど,中秋の名月をながめ,小督と仲国に思いをはせながら,ここらあたりを散策してみてはいかがでしょう。
2017年12月11日月曜日
『嵯峨日記』筑紫野市の弁護士の日記
(京都嵯峨野・落柿舎)
嵯峨野を散策したとき,もちろん落柿舎もおとずれた。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵である。
芭蕉の作品に『嵯峨日記』がある。彼が落柿舎に滞在したときの日記である。彼が残した唯一の日記である。1691年の4月18日から5月4日まで,わずか17日間の日記である。事務所のブログも断続的に書き継いできた。こんかいは1年8月もの長き沈黙を超えて更新中であある。長さだけは芭蕉に負けていない。
前回『平家物語』を読破したことを書いた。平家を読もうと思ったきっかけは,芭蕉の『おくの細道』である。日本百名山をめぐり登るうち,羽黒山,月山,湯殿山の出羽三山に登る機会があった。その際,『おくの細道』を読んだら,実におもしろかった。それ以来,同書にはまったのだが,ちゃんと理解するには平家を読まないとと思い,平家に挑戦した。平家を理解すると,やはり『おくの細道』の理解も格段に深まったように思う。
現在,『源氏物語』に挑戦中である。芭蕉が落柿舎に持ち込んだ書籍のなかに源氏もあった。そう日記に書いてある。源氏を読破し,芭蕉のような味わいのある日記が書けるようになりたいものだ。
2017年12月8日金曜日
源氏物語への挑戦,筑紫野市の弁護士の読書
(京都嵯峨野の野宮)
数年前から正月の読書は古典に挑戦するようにしている。若いころはそのうちそのうちと思っていた。が,50代も後半になってくると,そのうちっていつ?という感じになってきたので,そろそろ挑戦しないとなぁと重い腰をあげた。1昨年が『失われた時を求めて』,昨年は『平家物語』を読破した。
この流れでことしは『源氏物語』に挑戦ちゅう。だけど,あれ?むずかしい・・。じつは高校時代に与謝野晶子訳で読んだことがあり,もうすこしわかるかなと思っていた。それに『平家物語』と『源氏物語』の間には200年くらいの間だろうか。むろん武士の台頭といったことはあったろうけれど,日本語がそれほど変化したとも思えず,平家が読めるのであれば源氏も読めるはず。と思ったのが甘かった。
ということで,まずは角川文庫『源氏物語 ビギナーズ・クラッシクス 日本の古典』から。その後,どうするかなぁ?とヤフー知恵袋におうかがいをたてたところ,わかりやすいご託宣。
これにしたがい,いまは田辺聖子の『新源氏物語(上・中・下)』(新潮文庫)の中巻を読んでいる。これはまったく読みやすい。そうかそうだったのかと思うことしきり。トイレのなかでしんみりして友人・知人の死に思いをいたし,人生のはかなさなどを考え,なかなか深いことを考えているなぁと自賛していたら,そういえば,源氏にもおなじようなことが書いてあったなぁと思い当たり,恥じ入るということもしばしば。
『失われた』のなかで,途中,主人公とは関係なく,「スワンの恋」というエピソードが挿入されていて,他人の恋物語なのだけれども,主人公の恋の行く末そのままであるという趣向がある。『源氏』でこれに当たるのが有名な「雨夜の品定め」。高校時代に読んだときは,全体の王朝雰囲気を壊す下世話な場面と思ったけれども,じつは光源氏の恋愛遍歴の予告編であることがわかった。なるほど。
田辺・新源氏の後は,谷崎潤一郎,瀬戸内寂聴,林望の3訳の3択なのだが,福岡ジュンク堂でパラパラとななめに読んでみて,林望訳にした。1冊買ったものの,装丁が気に入らない。なんとなくちぎれそう。ま,いいや。
肝心の原文は,現在,岩波文庫が改訂作業中で,全9巻のうち2巻までしか出ていない。というようなことで,とても正月までに読み終わらない。再来年正月までに終わるかどうか・・・。
あっ,写真は野宮。伊勢に旅だつ六条御息所との別れを源氏が惜しんだ場所。黒木の鳥居がめじるし。平家を読破したことで,京都観光はもちろん,謡曲の理解などいろいろと世界がひろがった。源氏はどこまで世界をひろげてくれるのか,楽しみ。
2017年12月7日木曜日
消滅時効~民法改正,筑紫野市の弁護士の解説(2)
(天竜寺の紅葉)
民法の構成は,総則,財産法,親族・相続法となっていて,財産法は物権法と債権法にわかれます。こんかいは債権法の改正となっています。しかし,前回説明したとおり,債権法は財産法のなかの債権法だけを見て解決することができません。パンデクテン方式により,物権法と債権法に共通するルールは総則として定められていることになっています。なので,債権法の改正といっても,総則の改正にも及んでいます。消滅時効の改正はその一つです。
民法総則は,通則,人,法人,物,法律行為,期間の計算,時効からなっています。さらに,時効は,総則,取得時効と消滅時効からなっています。
民法は,権利/義務の発生,変更,消滅の要件を定めた規定からなっています。権利/義務は,裏表の関係です。以下,権利,あるいは債権と表記します。消滅時効は,権利の消滅に関する規定です。
消滅時効は,権利を行使することができる時から進行します(民法166条1項)。これを時効の起算点と呼びます。
一般的な債権の場合,10年で時効が完成します(民法167条1項)。AさんがBさんに10万円を貸しましたというような場合です。
Aさんとしては,期限から10年以内に債権を行使しないと,消滅時効により債権が消滅し,権利が行使できなくなります。
ただし,債務者が時効の利益を得ようとすれば,時効の援用が必要です(民法145条)。
他方,債権者が時効を避けようとすれば,時効中断措置をとる必要があります。時効中断には,請求,差押え,承認があります(民法147条)。
請求については,商売人の間によく見られる誤解があります。毎年,年末に請求書を送っているので,自社の売掛金は時効にかからないという誤解です。このような催告による請求は,その後6か月以内に裁判を起こさなければ中断の効力を生じません(民法153条)。つまり,時効完成前6か月間だけ,期間を延長する意味があるにすぎません。なお,請求書の送付も,一般郵便だと債務者に争われて証明できないかもしれません。争われそうな案件では内容証明郵便にするほうが安全でしょう。
承認については,「承認します!」という積極的なものは必要ありません。内金の支払いなどは債務の承認とされています。問題は,時効完成後の支払いです。時効の援用をしないで支払ってしまうと,時効の利益がなくなってしまうと解されています。
さて,本題に入ります。先の一般規定10年の例外として,いくつかの短期消滅時効の定めがあります。いちばん利用頻度が高かったのが商事消滅時効で,5年です(商法522条)。サラ金会社からの借金などはこれによります。また,労働審判につきものなのが,労働基準法の規定による賃金等の消滅時効で2年です(労働基準法115条)。
これ以外に,民法には従来,多数の短期消滅時効の定めがありました。定期給付債権が5年(民法169条),医師等の診療等に関する債権が3年(民法170条),弁護士等が職務に関して受け取った書類の返却が3年(民法171条),弁護士等の職務に関する債権が3年(民法172条),生産者等の売掛金が2年(民法173条)などです。
確定判決によって確定した権利については,短期のものでも,10年になります(174条の2)。
これら短期消滅時効を全部記憶することはなかなかに困難です。しかも,これら債権の種類が明治時代の言葉で書かれているため,解釈に困ることも少なくありませんでした。実務上も,種々のトラブルを見聞きしました。
そこで,今回の改正ではこれらについて,一律,債権者が権利を行使することができることを知った時から5年間,権利を行使することができる時から10年間に変更されました。
細かな短期時効を記憶する手間は省けるようになりましたが,一般的な債権についても短期5年になりましたので,うかうかしていると債権を失うことになります。みなさん,ご注意ください。
改正民法2020年4月施行へ,筑紫野市の弁護士の解説(1)
(天竜寺の紅葉)
われわれの仕事のたいはんは,民事事件です。民事事件は,市民どうし,市民と企業,あるいは企業どうしの争いです。これを解決するルールが民法です。
民法は,市民法の略です。わが国の民法は,近代化を急ぐ明治政府により西欧から輸入されたものです。それ以前の江戸時代までの日本法(武家諸法度など)とは断絶があります。法制史は履修していないので,間違っていたらご免なさい(以下もおなじ)。
古代ローマは,土木建築とともに法の達人であったことでも,すぐれた民族であったと思われます。すなわち,少なくとも2,000年以上前からいまの民法の前身があったと思われます。ただし,判例法だったようです。判例法というのは,いまの英国などもおなじで,国会で一般的・抽象的な法律をつくるのではなく,具体的なA対Bの裁判の結果を積み重ねてルールが形成されていくものです。
古代ローマ法もいったん文明から失われますが,やはりルネッサンスとともに見直されます。近代の市民法として画期なのは,ナポレオン民法典です。フランスでは市民革命がおこなわれて,市民が誕生したわけなので,その市民どうしの争いを解決する市民法が名実ともに成立したわけです。
明治期の民法は,ナポレオン法典の系譜もありますが,直接的にはドイツ民法の流れをひいています。当時,富国強兵策をとっていた明治政府にとっては,普仏戦争に勝ったドイツがお手本だったわけです。
ドイツでは,古代ローマ法をそのまま利用しないで,これを一般的・抽象的な体系に整理しています(パンデクテン方式)。民法の勉強をはじめたときに,最初,総則からはじまり,非常に抽象的で分かりにくいのはそのせいです。それでも,制定法の利点は,判例法に比べて,ルールが明確ということがあります。アメリカの弁護士ドラマなどを見ていると,すばらしい記憶力をもつ主人公がつぎつぎと関係判例を挙げる場面に遭遇しますが,逆に言えば,普通の記憶力しかない一般人にはルールが分かりにくいということです。
民法は基本法と呼ばれています。司法試験では民法を制するものは司法試験を制すといわれていました。商法や労働法などは,民法の特別法です。民法を理解していなければ,どこがどう特別なのか理解できないわけです。行政法の解釈なども,民法を参考にしておこなわれてきています。民法が基本法と呼ばれるゆえんです。
民法が基本法であるせいか,1896年(明治29年)の制定以来なんと120年間,おおきな改正がありませんでした(婚姻,相続は別。新憲法になり,これらは個人の尊厳,男女の平等の理念に基づき,抜本的な改正がなされています。ここで話題にしているのは財産法,とくに債権法関係です。)。そもそも外国からの輸入品ですから,日本社会の実情とのズレがあったと思われます。その後,みなさんもご承知のとおり,日本社会のほうも大きく変わりました。そのため,民法の条文と現代日本社会との間に多くのズレが生じてしまっています。制定法のメリットであるルールの明確性が損なわれてしまっているわけです。そのため,そのようなズレをなくそうというのが,今回の民法改正です。
とはいっても,そのようなズレは放置されてきたわけではありません。明治いらい今日までたくさんの判例法が形成され,積み重ねられててきています。判例法というのは,民法の条項をそのまま事案にあてはめると不都合を生じる場合になされること多いのです。今回の民法(債権法)改正は,それら判例を明文化したものがほとんどです。
改正民法は,今年5月の国会で成立しました。成立と同時,あるいは,すみやかに施行という法律も少なくありません。しかし,民法は基本法中の基本であり,国民の社会・経済生活に与える影響も甚大です。それゆえ,施行は2020年4月になるようです。成立から数えて3年後ですね。非常に慎重です。その間に周知が図られるでしょう。当ブログでも改正点について,すこしずつ,おいおい解説をしていきたいと思います。乞うご期待。
薬害C型肝炎九州訴訟・弁護団会議と忘年会(福岡市内で)
(宝厳院の紅葉)
薬害C型肝炎九州訴訟の原告団世話人会,弁護団会議と忘年会がありました。
薬害C型肝炎訴訟は,フィブリノゲン製剤と血液凝固第9因子製剤(クリスマシン)の投与によってC型肝炎に感染させられた原告たちが国と製薬会社に対し損害賠償を請求した訴訟です。仙台,東京,名古屋,大阪,そして福岡地裁の全国5地裁でたたかわれ,私は福岡訴訟弁護団の共同代表でした。
2002年に提訴し,2008年1月11日,福田総裁の指示で「特定フィブリノゲン製剤及び特定血液凝固第Ⅸ因子製剤によるC型肝炎感染被害者を救済するための給付金の支給に関する特別措置法」が成立し,15日,厚生労働大臣と原告団・弁護団との間で基本合意書が締結されて一応の解決をみました。
はやいもので来月には上記解決10周年を迎えます。基本合意は,個別救済,恒久対策,再発防止の3本柱よりなり,これを担保するため毎年,厚生労働大臣交渉をおこないます。
(個別救済)
上記薬剤を投与したとの証明,C型肝炎に感染したとの証明,その間の因果関係を証明しさえすれば,責任論を議論することなく救済されることになります。
しかしながら,1985年前後の投与,あるいは,それより以前の投与が多く,多くの産院ではカルテが破棄され,多くの感染者の感染経路が不明なままでした。原告団・弁護団では厚生労働省に投与病院を訪問してもらい,カルテ調査を督励してもらっています。これにより,一人でも多くの被害者が救済されるよう図っています。
(恒久対策)
恒久対策は,肝炎治療体制及びこれに関する社会保障の充実を求めるものです。上記解決をきっかけにこれらの諸制度の整備が進み,感染被害者にとどまらず,200万人といわれる多くの感染者の治療や保障が前進しました。
(再発防止)
再発防止は,2度とこのような薬害がおこらないように制度を整備することです。原告団・弁護団はしっかりとした調査権限・体制を有する第三者監視機関の設置を求めていますが,厚生労働省の対応は鈍く,いまだ実現にはいたっていません。
10周年は節目でもあるので,来月には記念行事が予定されています。それを契機に,未解決の課題が一歩でも前進するよう努力してまいりたいと考えています。
2017年12月6日水曜日
『水戸黄門』のように,なぜ正義が勝たないのか?(2)筑紫野市の弁護士の回答
(宝厳院の紅葉)
きのうのつづき。
『水戸黄門』や『遠山の金さん』の場合,最後は大立ち回りをやってどちらかというと刑事処分,行政処分的な解決が図られている。しかしながら,日本の現行法上は民事的な解決が図られることが一般的である。
民事的な解決といった場合,テレビ的な大立ち回りで一件落着というわけにはいかない。きのう書いたような幾多の困難を乗りこえて,民事裁判で「被告は原告に対し金1,000万円を支払え。」との勝訴判決をえたとする。実務ではそこから先にこそ最大の困難がまち受けていることが多い。
この判決を現金に換えて満足をえるには,被告が任意に支払うか,それがなければ強制執行によらなければならない。強制執行は,被告の財産,たとえば,不動産,預貯金だとか,給与だとかの差押え・競売をおこない,これにより現金を得るということである。ということは,被告に財産がなければ満足は得られない。被告の財産の所在がわからないということも,これに含まれる。とくに後者の場合,一般的な理解は非常に得られにくい。
財産の所在調査については,近時,裁判手続のなかで,財産開示がなされるようになっている。しかし,これも限界がある。そこから先は,興信所や探偵の仕事になるのであるが,そこにも困難が含まれている。なかなか,『水戸黄門』や『遠山の金さん』のように,すっきりとした解決に至らないことも残念ながら少なくないのである。
2017年12月5日火曜日
『水戸黄門』のように,なぜ正義が勝たないのか?筑紫野市の弁護士の回答
(嵐山・亀山の紅葉)
「正義は必ず勝つ」といわれる。たしかに『水戸黄門』や『遠山の金さん』などではそうなっている。しかし,実務ではそうならないことも多い。みなさんは,日ごろから『水戸黄門』や『遠山の金さん』などをご覧になっていて,「正義は必ず勝つ」世界観になじんでいられるので,そのギャップに唖然とされることが多い。このギャップはどこから来るのだろうか。
たとえば,1週間前の午後9時,家の前の暗がりで,Bに殴打され,全治2週間の怪我を負わされたとする。民事裁判でBに対し損害賠償が認められるには,上記殴打の事実について,(Bが否認すれば)こちらが証明しなければならない。たまたま目撃者がいればよい。でもいないことが多い。たまたま目撃者がいたとしても,どこの誰だか分からないことも多い。どこの誰だか分かっているのに,関わりあいになることを恐れて協力してくれないことも多い。そうすると,たかだか1週間前の事件なのに,正義が実現されないことになってしまう。
では『水戸黄門』や『遠山の金さん』では,なぜ「正義が勝つ」ことになっているのであろうか?それにはこのようなカラクリがある。すなわち,『水戸黄門』では,風車の弥七が天井裏にひそんでいて,悪代官と越後屋の悪だくみを目撃している。『遠山の金さん』ではなんと,裁判官じしんが庶民のふりをして事件現場を目撃している。
しかし,実際の裁判ではこのようなことはありえない。裁判官が事件の現場に偶然いあわせることは100%ありえないし,みずから捜査みたいのことをすることもありえない。また,仮に風車の弥七みたいな手下がいたとしても,悪代官の天井裏にいる時点で住居侵入罪で逮捕である。
そうなると,悪事や事件を証明することができない。すなわち,正義が勝つことが難しい。みなさんは,ほかならぬ自分が見聞きし,体験した事実であるから,証明は十分と思っておられる。残念ながら,民事裁判では当事者の証言は証拠価値が著しく低い。加害者が嘘をついていると被害者が言っても,裁判官にはどちらが嘘をついているかの判定が難しいのである(このことも理解していただくことが難しい。でも自分が裁判官であったとして,Aが赤信号だったといい,Bが青信号だったといったときに,どう判定するのか想像していただきたい。)。
かくて今日も正義が必ず勝つとはいえず,『水戸黄門』的世界観からして不満な人々が事務所をあとにしていかれることになる・・・。
2017年12月4日月曜日
きょうからあなたも強制わいせつ罪,筑紫野市の路上で
(宝厳院の紅葉)
ちくし法律事務所の事務所の弁護士4人で,いつものように昼食へ行く途中,女性弁護士Bがぼくのお尻を触りました。いつもだったらここで,「なにをする,やめろ!」,「スキンシップだから,いいやん」などとわけがわからぬやり取りになります。
このようなやり取りをみかねたのか,最高裁判所はその前日に判例変更をしていたのでした。ちょっと難しいけれども,以下おつきあいください。
強制わいせつ罪の成立要件について,最高裁は長らく性的な欲望をみたす目的が必要であるとしてきました。おなじように尻を触っても,スキンシップが目的であれば,それは性的な欲望をみたすのとは違うから強制わいせつ罪が成立しなかったわけです。
ところが,11月29日,最高裁は判例を変更し,強制わいせつ罪が成立するのに性的な欲望をみたす目的は必ずしも必要ではないとしました。つまり,尻を触りさえすれば,基本的には強制わいせつ罪が成立しうることになります。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171129/k10011239811000.html
性的な欲望をみたす目的のことを刑法学上,超過的内心傾向と呼んでいます。この問題は,刑法は人格を罰するものか,行為を罰するものかなど刑法の根幹に関係する論点です。
いずれにせよ,この判例変更により,スキンシップの目的で尻を触っているなどという言い逃れができなくなることは間違いありません。これで今後,ぼくの尻は刑法により完璧に保護されることになります。
などと,最高裁判例の変更について情報交換し,刑事実務への影響などを議論しつつ,「殺しのカレー」に向かったのでした。
2017年12月1日金曜日
筑紫地区の士業は税金問題にどうたちむかっているか?
(嵐山・桂川べりで結婚式前撮り)
いよいよ師走,ことしも残すところあとわずか
忘年会がめじろおしです。そうしたなか
一昨夕は士業交流会でした。わがちくし法律事務所3階で2か月に一回開催されています。弁護士,税理士,司法書士,行政書士,社会保険労務士,土地家屋調査士,測量士,建築士,HPなどの専門職,いわゆる士業が一同に会して勉強会です。
企業どうし,企業と個人,個人と個人間でおこる紛争はいろいろな問題がからみあっています。じつは弁護士だけで紛争解決のお手伝いができることは限界があります。他の専門業種のお知恵を借りたり,連携・協力しあってことに当たることが必要です。ちくし法律事務所ではもう何年も前からこのような対応をすすめ,いまでは強力・協力なネットワークができあがっています。いつでも他の分野の専門家の知恵を借りたり,連携・協力しあうことができます。
さて,士業交流会の当日の報告者は,わがちくし法律事務所の稲村晴夫弁護士でした。報告者は順繰りになっています。稲村弁護士はさいきん経験した事件解決のなかで税金の処理が関係した事例の報告を4つおこないました。
1つは,遺産分割の際,不動産を取得するに当たり,譲渡所得税を考慮する必要があるという事案でした。
2つは,やはり遺産分割の際,譲渡所得税の居住用財産の特例を有効活用して解決案を探るべきであるという事案でした。
3つは,遺言・遺留分減殺請求,遺産分割,離縁に税金問題が複雑に交錯し,紛争解決に税金の知識の活用が有用である事案でした。
4つは,公共収用の際,非課税の特例が受けられるとの説明が間違っていたために譲渡所得税を課税されたため裁判となり,最高裁まで争って勝訴した事案でした。
これら事案の処理に当たっても,税理士をはじめ他の専門家の援助を受けたり,協力・連携しながら解決したとのしめくくりでした。たいへん有益な交流会でした。
残念ながら,私は風邪のひきはじめで,喉がソフトボール大に腫れぼったかったので懇親会は失礼しました。懇親会でも有益な耳より情報が聴けるのになぁ,残念。
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