2017年12月14日木曜日
『ニュー・シネマ・パラダイス』と『雪国』と能
一人息子(高校生)がいる女性と『ニュー・シネマ・パラダイス』の話題となった。その人によると,あの映画をみるときには,主役の映画監督ではなく,映画監督の母親の視点でみてしまうのだそうだ。
そのときは,それはかなり変則的な見方ではなかろうかと思った。映画は(小説などでも)観客が主役に感情移入して観るものであり,そうならなかったとしたら,作者なり制作者の失敗ではないだろうか。でもまぁ,映画なんて楽しんでなんぼだから,息子がいる母親が,話中の母親に感情移入して楽しむのもありかなぐらいに思った。
しかし,今般,認識をあらためた。フェイスブックでやりとりをするなかで『雪国』が話題になったので,あらためて読みなおしてみた。これまでには気づかなかった点に,いろいろ思い当たった。なかでも,主人公と思っていた島村に関する注解(郡司勝義,新潮文庫175頁)。川端康成「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで,ただ駒子をうつす鏡のようなもの,でしょうか。」(昭和43年12月『雪国』について)。能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか。
能を知らなければ,この注解は意味不明だろう。少しでも囓れば,明白である。能における主役はシテである。この世に未練を残し,成仏できない霊的な存在であることが多い。これに対するワキは,諸国一見の僧であることが多く,シテを呼びだし,その鎮魂を行う存在である。つまり,主役は駒子(その純な生きざま)なのである。島村は彼女とその渦巻く感情を呼びだし,その純粋さを読者に伝える存在にすぎない。それであれば,島村に感情移入しているだけでは大事なことが見えない。このように理解して『雪国』を読めば,いろいろなことが見えてくるし,理解できるところもでてくる。なるほどなるほど。
そういう立場に立てば,『ニュー・シネマ』についても,母親を主役として鑑賞することもあり得るように思えてきた。むしろ日本人の見方としては多数派なのかもしれない。少なくとも,伝統に忠実な見方といえるかもしれない。あるいは,企業などで社長型と参謀型・秘書型にパーソナリティが分かれるとすれば,後者の人たちはこのような鑑賞のしかたをしているのかもしれない。
西欧人には主体性があるが日本人には主体性がないとかいう議論も,少なくとも中世以来のこのような日本人の心性と深くかかわっているのではなかろうか(飛躍しすぎ?笑)。
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