クラッシック音楽のビギナーに贈る音楽教養エンターテインメント番組。ピアニストの清塚信也と歌手・モデルの鈴木愛理が、ゲストとともに幅広い音楽の魅力を「クラシック音楽の視点」でひもとく。とされている。
さる事情があって見始めたが、いまではすっかり清塚信也と鈴木愛理、あるいは番組スタッフたちの術中にはまってしまっている。
先日のテーマは「リヒャルト・ワ-グナーの魅力」だった。ゲストは音楽プロデューサーの蔦谷好位置と指揮者の沼尻竜典。ゲストの選定も絶妙で、彼らの立ち位置も好位置である。『ニーベルングの指輪』の解説が竜典というのは偶然にしてはできすぎている。
リヒャルト・ワグナーを一言でいうと、アガスペらしい。アガペーとスペクタクルの略。強烈な個性のワグナー作品の全部を30分番組に詰め込むのは無理がある。そのため、『トリスタンとイゾルデ』と『ニーベルングの指輪』の触りだけ紹介。
『ニーベルングの指輪』は、断片的に聞いたことがあるだろう。しかし全部聴いたという人はそう多くなかろう。もちろん筆者もない。なにせ、普通に演奏すると全部で15時間、4日間を要する大作である。
『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』からなる。ラインの黄金でつくられた、世界を支配できる(しかし、手にした者を不幸にする)指輪の争奪戦。争奪戦に参戦するのは神、巨人、英雄、竜たち。つまり、要約すれば、映画『ロード・オブ・リング』と同じ話である。
英雄ジークフリートは、折れた魔剣を鍛え直して竜(大蛇)を退治し、指輪を手に入れる。番組で、その竜退治の場面が紹介された。15時間のなかでそこだけ切り取るのだから、有名な場面なのだろう。ジークフリートの決めゼリフはこれ。
ノートゥングがお前の心臓にささったぞ!
ノートゥングはもちろん魔剣の名。ワーグナーの楽劇の素晴らしさはおくとして、この場面にはちょっと感動してしまった。わが心臓にもささったぞ!
なぜなら、『ユリシーズ』の15章「キルケ」のなかに、この場面を下敷きにしたくだりがあるから。ただし、魔剣を振るうのはスティーブンである。
スティーブンは、『ユリシーズ』の3人の主役の1人。ジョイスの分身といわれる。
当時、アイルランド・ダブリンは、大英帝国の植民地であり、かつ、ローマカトリック教会の精神的奴隷であった。スティーブンは、小説家となることにより、あるいは、ヨーロッパ大陸に脱出することにより、そのような状況から状況から脱出し、自由を獲得しようとしている。
スティーブンは、臨終の床で、カトリックを信奉する母親から、祈りを唱えるよう迫られるが、これを断ってしまう。それが心の傷になっている。
スティーブンが祈りを拒んだのは、カトリックの信仰や体制が、自分やダブリンの人々の精神的自由を支配し、麻痺させていると考えていたから。彼にとって、カトリックの信仰を強要する母は、カトリック体制の手先でもある。彼は母を愛してもいるから、いわば義理と人情の板挟みである。
ベラの娼家で、スチーブンもいろんな幻覚を見る。最後のほうで、亡き母親があらわれる。そして、やはりここでも彼に信仰を強要しようとする。
(ゆっくり両手をよじり合わせ、絶望の呻きをあげて。)
おお、イエスの聖心よ、この子を憐れみたまえ!この子を地獄から救いたまえ、おお、神の聖心よ!
これに対し、スティーブンは両手でトネリコのステッキをふりかざし、シャンデリアを打ち砕いて、叫ぶ。
《ノートゥングだ!》
スティーブンは、カトリックや母の束縛から自由をめざすため、魔剣ノートゥングを振るったのである。尾崎豊が自由をめざすため、盗んだバイクで走り出したようなものだ。
ワーグナーは、ライトモチーフを創案した。キャラクターごとのテーマ音楽のようなものだ。キャラクターが登場する前でも、音楽が流れればその登場が予告される。いまやRPGなどで、われわれには馴染み深い。
http://konton.cside.com/midi/ring.html
剣にもライトモチーフがある(ジークフリート6)。それは音階が上昇していくものだ。先の指揮者の沼尻竜典によれば、剣は「あれ」の象徴でもあるそうだ(eテレゆえか、詳しい説明はない。)。「あれ」って、あれのことだろうか?気になる。
ライトモチーフは、繰り返し変奏され、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』の各話を結んでいる(らしい)。もっと音楽の素養と忍耐力があれば、21,103円でDVDを購入したいところだ。われこそは音楽の素養と忍耐力ありというかたは、どうぞ存分に楽しんでくだされ。