2023年5月31日水曜日

『街とその不確かな壁』と『ニーベルングの指輪』と『ユリシーズ』(2)

 
 NHK・eテレで「クラシックTV」を毎週見ている。

クラッシック音楽のビギナーに贈る音楽教養エンターテインメント番組。ピアニストの清塚信也と歌手・モデルの鈴木愛理が、ゲストとともに幅広い音楽の魅力を「クラシック音楽の視点」でひもとく。とされている。

さる事情があって見始めたが、いまではすっかり清塚信也と鈴木愛理、あるいは番組スタッフたちの術中にはまってしまっている。

先日のテーマは「リヒャルト・ワ-グナーの魅力」だった。ゲストは音楽プロデューサーの蔦谷好位置と指揮者の沼尻竜典。ゲストの選定も絶妙で、彼らの立ち位置も好位置である。『ニーベルングの指輪』の解説が竜典というのは偶然にしてはできすぎている。

リヒャルト・ワグナーを一言でいうと、アガスペらしい。アガペーとスペクタクルの略。強烈な個性のワグナー作品の全部を30分番組に詰め込むのは無理がある。そのため、『トリスタンとイゾルデ』と『ニーベルングの指輪』の触りだけ紹介。

『ニーベルングの指輪』は、断片的に聞いたことがあるだろう。しかし全部聴いたという人はそう多くなかろう。もちろん筆者もない。なにせ、普通に演奏すると全部で15時間、4日間を要する大作である。

『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』からなる。ラインの黄金でつくられた、世界を支配できる(しかし、手にした者を不幸にする)指輪の争奪戦。争奪戦に参戦するのは神、巨人、英雄、竜たち。つまり、要約すれば、映画『ロード・オブ・リング』と同じ話である。

英雄ジークフリートは、折れた魔剣を鍛え直して竜(大蛇)を退治し、指輪を手に入れる。番組で、その竜退治の場面が紹介された。15時間のなかでそこだけ切り取るのだから、有名な場面なのだろう。ジークフリートの決めゼリフはこれ。

 ノートゥングがお前の心臓にささったぞ!

ノートゥングはもちろん魔剣の名。ワーグナーの楽劇の素晴らしさはおくとして、この場面にはちょっと感動してしまった。わが心臓にもささったぞ!

なぜなら、『ユリシーズ』の15章「キルケ」のなかに、この場面を下敷きにしたくだりがあるから。ただし、魔剣を振るうのはスティーブンである。

スティーブンは、『ユリシーズ』の3人の主役の1人。ジョイスの分身といわれる。

当時、アイルランド・ダブリンは、大英帝国の植民地であり、かつ、ローマカトリック教会の精神的奴隷であった。スティーブンは、小説家となることにより、あるいは、ヨーロッパ大陸に脱出することにより、そのような状況から状況から脱出し、自由を獲得しようとしている。

スティーブンは、臨終の床で、カトリックを信奉する母親から、祈りを唱えるよう迫られるが、これを断ってしまう。それが心の傷になっている。

スティーブンが祈りを拒んだのは、カトリックの信仰や体制が、自分やダブリンの人々の精神的自由を支配し、麻痺させていると考えていたから。彼にとって、カトリックの信仰を強要する母は、カトリック体制の手先でもある。彼は母を愛してもいるから、いわば義理と人情の板挟みである。

ベラの娼家で、スチーブンもいろんな幻覚を見る。最後のほうで、亡き母親があらわれる。そして、やはりここでも彼に信仰を強要しようとする。

 (ゆっくり両手をよじり合わせ、絶望の呻きをあげて。)
 おお、イエスの聖心よ、この子を憐れみたまえ!この子を地獄から救いたまえ、おお、神の聖心よ!

これに対し、スティーブンは両手でトネリコのステッキをふりかざし、シャンデリアを打ち砕いて、叫ぶ。

《ノートゥングだ!》

スティーブンは、カトリックや母の束縛から自由をめざすため、魔剣ノートゥングを振るったのである。尾崎豊が自由をめざすため、盗んだバイクで走り出したようなものだ。

ワーグナーは、ライトモチーフを創案した。キャラクターごとのテーマ音楽のようなものだ。キャラクターが登場する前でも、音楽が流れればその登場が予告される。いまやRPGなどで、われわれには馴染み深い。

http://konton.cside.com/midi/ring.html

剣にもライトモチーフがある(ジークフリート6)。それは音階が上昇していくものだ。先の指揮者の沼尻竜典によれば、剣は「あれ」の象徴でもあるそうだ(eテレゆえか、詳しい説明はない。)。「あれ」って、あれのことだろうか?気になる。

ライトモチーフは、繰り返し変奏され、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』の各話を結んでいる(らしい)。もっと音楽の素養と忍耐力があれば、21,103円でDVDを購入したいところだ。われこそは音楽の素養と忍耐力ありというかたは、どうぞ存分に楽しんでくだされ。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E6%8C%87%E7%92%B0-%E6%A5%BD%E5%8A%87-DVD-%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA/dp/B00005FHG2/ref=sr_1_7?keywords=%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E6%8C%87%E7%92%B0&qid=1685490982&sr=8-7

2023年5月30日火曜日

『街とその不確かな壁』と『二―ベルングの指輪』と『ユリシーズ』(1)

 

 高校時代の友達がSNSで、村上春樹の新作が面白かったというので、『街とその不確かな壁』(新潮社刊)を読んだ。

これまでの作品とテーマも手法もおなじように感じられた。同工異曲(失礼!アバウトな性格なうえに加齢してしまい、たいがいのものが同工異曲に感じられる。)。だが、ハルキストにとっては、これがたまらないのだ。文章は洗練され、展開はとても滑らかである。

若いころの彼女との関係で受けた心の傷を、現実の世界と無意識の世界を往来しながら癒していく(のだと思う)。河合隼雄の分析心理学による治療を読書により受けるようなものだろうか。

先に村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』のことを書いた。子を失い、妻を失った心の傷をマイ・カーをドライブしてもらいながら癒されていく男の話だった。

同種の傷を抱える読者は、小説を読み進むうち、主人公とともに、おのれの傷も癒されていく。

広大な無意識の世界はフロイトにより発見された。ユングは彼の影響を強く受けつつも、独自の分析心理学を確立した。河合隼雄はその弟子筋にあたる。

ユングやフロイトは意識ではなく、無意識にメスを入れることにより、患者を癒そうとした。ユングの無意識はフロイトよりユニバーサルで、神話の世界などともつながっていく。

フロイトが精神分析を創始したのは19世紀の世紀末。マルクスやダーウィンとともに20世紀の思想に大きな影響を与えたとされる。

20世紀小説の最高峰の一つとされるジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』にも影響を与えている。

『ユリシーズ』は、古代ギリシアの英雄譚『オデュッセイア』をベースにしている。神話的方法と呼ばれ、神話をベースとすることで、現代の空虚と混沌に秩序を与える。

主役のひとりは、英雄とはほど遠い・さえない広告とりのブルームである。その妻はモリ―、その日不貞におよんでしまう。ふたりは長男を幼くして亡くして心に傷を抱えている。二人のほか、血のつながらないスティーブンがいる。彼は、母の臨終の床で祈りを拒否したことで傷を抱えている。

『オデュッセイア』とはちがい、ダブリンにおけるたった1日の出来事である。3人はそれぞれの傷を抱えて1日をスタートする。それがその日を通じて、それぞれの間で人間関係を形成し、互いの心を調整する。そうして心の傷を癒していく。要約すると、どの小説も同じ筋立てになってしまう。

その後半にあたる、15章の「キルケ」。キルケは神話では魔女で、オデッセウスの部下たちをブタにかえてしまう。現代では謎の来歴をもつ娼家の主人である。

夜になって、スティーブンは仲間とともに、ベラの娼家に繰り出す。ブルームも後を追う。彼らは頻繁に幻覚を見る。それは昼間の体験の変奏である。

昼間の現実を変奏した幻覚を見ることにより、心の傷を整理し、癒していく。それはフロイトやユングが提唱した精神分析や分析心理学の手法と異なるところはないと思われる。

2023年5月26日金曜日

『コメンテーター』奥田英朗著

 
 奥田英朗著『コメンテーター』(文芸春秋刊)を読んだ。

「コメンテーター」、「ラジオ体操第2」、「うっかり億万長者」、「ピアノ・レッスン」、「パレード」の短編小説集。

『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』につづく、人気シリーズ4作目。久しぶりの登場。17年ぶり。つまり、復活!

前3作を読んだことがある人であれば、本作の内容も容易に推測できる。同工異曲とはこのことだ(失礼)。

シテはトンデモ精神科医の伊良部。ツレ(連合いのツレではなく、能でシテの助演役のこと)は美人看護師で夜はロック歌手のマユミさん。ワキは各短編ごとに入れ替わる「患者さん」。

(以下、ネタバレ)

「コメンテーター」の患者は、低視聴率に悩むワイドショーのプロデューサー。「ラジオ体操第2」では、営業車の軽自動車に乗っていて後ろから煽られる会社員。「うっかり億万長者」では、短期間で5億円をかせいだデイトレーダー。「ピアノ・レッスン」では美人のピアニスト。「パレード」では、都内一人ぐらしの大学生。

コロナ禍のなか、まじめなワキの皆さんは少々精神を病んでいる。しかたなくシテの診察室を訪れる。

前場では、いまの社会により適合しているワキの目から見た伊良部の子どもぶりが描かれる。伊良部はある種の発達障害で、子どものまま。フィギュアを集め、マユミさんが患者に注射するのに興奮し、キテレツなコメントを連発する。コロナ禍なんて関係ない。

以上は表紙の絵にも描かれている(写真)。赤く描かれた舞台は、ワイドショーのスタジオ。左上に描かれている子ども(逆さまで、天使っぽい)が伊良部である。マスクをすっとばしている。

後場では、伊良部は華麗に舞う。というか、あいかわらず自由気ままに振る舞う。変化しているのは、最初は伊良部の言動を奇異に思い、辟易していたワキの面々の価値観のほう。

伊良部(とマユミさん)とつきあううち、いつか価値観の転倒がおとずれる。世間の決まりに過剰にしたがっていた自分が間違っていたと思えるようになる。その結果、病は癒えている。

コロナ禍で少々心を病んだかなと思うみなさん、伊良部(とマユミさん)に癒されてくだされ。自分は関係ない!というあなた、そこが問題かも。

2023年5月25日木曜日

松山観光(4)お遍路旅、太山寺、圓明寺

 





 さて次は52番札所の太山寺をめざす。ホテルの地図で見ると、右下から左上まで斜めに移動するかんじである。道後温泉から10Km、歩けば2時間半の道のりである。集合時間のしばりがあるので、電車を利用した。

ホテルの地図でみると、太山寺の最寄りの駅は高浜駅である。道後温泉から市電(チンチン電車)で、松山市駅まで。そこから伊豫鉄道高浜線で、三津浜を経由して高浜駅まで。しかしこれは間違いだった。

高浜駅の駅員さんに太山寺までの道筋を訊く。びっくりした顔をして、ここからはいけませんという。あわててスマホで検索する。たしかに普通の道はない。途中、三津駅あたりで降り、北上すべきだったようだ。

三津駅まで戻ればよかったろうが、とにかく北東に見えている、あの小山の上にあるはずだ。試しにそこから北上してみる。途中、道標があり、山越えの道があることが分かった。それを行くことにする。

松山観光港ターミナルまで10分ほど。ここから広島方面へフェリーが出るようだ。昔は広島方面から船で渡ってきて、山越えで太山寺にお遍路していたようだ。ターミナル前に広がるミカン畑の脇の細い道を登っていく。

現代の車社会において、お遍路道は廃れてしまい、登山道のようになっていた。いや、もっとひどい。草も十分刈られておらず、荒れていた。途中何度も引き返そうかと迷いつつ登っていく。

稜線ふきんまで登ると、高浜駅方面からの道と出会った(やはり、どこかから道があったようだ。駅員さんが知らなかっただけ。)。そこからは、普通の山道になり、石仏やキツツキに迎えられた。

坂を下りていくと、太山寺の裏側にでた。やったー。

太山寺は四国お遍路の52番札所。本尊は十一面観音。本堂はなんと国宝(1枚目の写真)。このようなところで(失礼!)、国宝が拝めるとは思わなかった。鎌倉時代(1305年)の建立。堂内には7体の十一面観音がおわすというのだが、暗くて6体しか確認できない。

本堂正面の仁王門は重文(3枚目の写真)。その横には仏足石が。通常なら、一の門、二の門をくぐり、階段を登ってきてここに達する。きょうは裏から入ったので、紹介順が逆である。

そこからは車道を東北東へ2.5km歩く。約30分。53番札所の圓明寺は、太山寺とちがって、街中にある。本尊は阿弥陀如来。天井ちかく、左甚五郎作といわれる龍の彫り物が。

左手にあったキリシタン信仰に使われたというマリア観音とキリシタン灯籠が、目をひいた。

寺の近くにJR予讃線が通っており、帰りは伊予和気駅から乗車して松山駅に戻った(つまり、松山にはJRの松山駅と伊予鉄道の松山市駅がある。)。社内をさわやかな風が吹き抜けていった。

松山駅前には、大きな石に子規の句が刻まれていた(この句は『坂の上の雲』で紹介されていたと思う。)。

 春や昔十五万石の城下かな

※高校時代の恩師から、にきたづの「にき」は「熱」ではなく「熟」だよとご指摘いただいた。ありがとうございます。道後温泉→熱い田→熱田津と思い込んでいました。すみませぬ。

2023年5月24日水曜日

松山観光(3)円満寺、法厳寺、石手寺(51番札所)、湯築城

 





 松山二日目の観光をどうするか?考えていたら、ホテルの部屋に、松山市内観光用の地図があった。これに従って歩くことにした。

地図といっても、子どものころ書いた宝探しの地図のようなもの。ざっくりとした概念図。おおよその方向と位置関係が分かる程度。そのため何度か道を間違えて、ドラクエふうお遍路旅になった。

まずは道後温泉本館のすぐ裏にある円満寺。縁結びのご利益があるという大きなお地蔵さまが鎮座していた(1枚目の写真)。お地蔵さまは子どもを守ってくれるという。カラフルなお守りがたくさん奉納されていた。

そこからさらに坂を登ると、法厳寺。時宗の開祖、一遍上人の出身地であるという。時宗は念仏踊りで知られているが、盆踊りの起源らしい。寺内には句碑が並んでいた。松山はどこへ行っても句碑がある。

寺に至る階段では子規と漱石が語りあったらしい(2枚目の写真)。ほんとうだろうか。

寺のまえを南に登ると、きのうも参拝した伊佐爾波(いさにわ)神社。きょうも晴れて、松山市街の絶景が見渡せた。さすがパワースポット。

次は、四国遍路51番札所の石手寺を目指した。しかしここからが迷った。地図では湯月公園テニスコート前を遠ってまっすぐいけそう。しかし行き止まり。地元の人に何度も尋ねて、寺をたずねあてた。

途中、にきたづ会館というのがあった。額田王の歌にでてくる熟田津である。いまでは海岸線まで遠いが、むかしはここら辺まで海岸線が進入していたのであろうか。

石手寺(いしてじ)は関西テイストでディープな雰囲気だった。もちろん真言宗。ここもまたパワースポット。本堂の前には弘法大師がいつも握っておられる金剛杵がゴールドに輝いていた(3枚目の写真)。

ミシュランガイド(観光・日本編)で☆を獲得している。本堂奥にはマントラ洞窟があり、まさにドラクエ探検の雰囲気だった(礼を失していれば、すみません)。

参拝後はいったん道後温泉方面に戻る。そして、中世河野氏が君臨した湯築城史跡公園を散策(4枚目の写真)。

公園には、水辺の宝石といわれるカワセミを狙うカメラマンたちがたむろしていた。そのよこでは、道後温泉の開湯伝説に伝わるシラサギの子孫のそのまた親戚だろうか、アオサギも遊んでいた(5枚目の写真)。

2023年5月23日火曜日

松山観光(2)松山城、湯月城、子規記念博物館

 






 四国愛媛(伊予)の松山観光をつづける。道後温泉のあとは、ランチをはさんで、松山城へ。

現存12天守の一つ。平山城。1602年関ヶ原の戦いで戦功のあった加藤嘉明が築城。城の登り口のところには馬上の銅像がたっていた。

平山城といっても、標高131mの勝山の上に建っている。ロープウェイやリフトでも登ることができるが、もちろん歩いて登った。

城郭をぐるぐる回りながら登っていき、ようやく天守閣に達する(1枚目の写真)。松山市街がすべて見渡せる絶景(2枚目の写真)。さっきまで散策していた道後温泉街ものぞむことができる。その向こうには石鎚山も顔をのぞかせていた(3枚目の写真の左上)。

下城して、道後温泉街にあるホテルにチェックイン。宴会まではまだ時間があったので、ひとり抜け出して、松山市立子規記念博物館を訪れた。

松山城は近世の城である。中世の松山には、河野氏が築いた湯築城があった。その場所は道後温泉のすぐ隣である。現在、湯築城史跡公園として整備されている。その中に博物館はある。市立のわりには立派なハコ物である(4枚目の写真)。

正岡子規は松山の出身。明治時代、短歌、俳句などの分野で近代日本文学の革新運動を行った。松山を訪れた漱石とも交流している。

松山は日露戦争をたたかった秋山兄弟の出身地でもある。もちろん子規とも交流があった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい。再読していくつもりが、できなかった。なにせ長い。

子規とはホトトギスのこと。夏の季語。ちょうどいまの時期、四王寺山や宝満山で鳴いている。「特許許可局」や「テッペンカケタカ」と鳴いているというのであるが、「ホトトギスヨ」としか聞こえない。

「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞのこれる」の和歌があるとおり、鳴きつる方を眺めても声しか聞こえない。

子規は晩年、結核を患った。病状が進むと血を吐くことになる。ホトトギスは口のなかが赤い。そのため、血を吐きながら鳴いているといわれる。子規は、血を吐きながら歌や俳句を詠む自分をホトトギスになぞらえた。壮絶な名前である。

ここまでは知っていたけれども、晩年は脊椎カリエスも患い、激痛に苦しんでいたようだ。結核とカリエスの症状にくじけず、近代日本文学の革新運動にとりくんでいたのだから、やはり偉人である。

あまり知られていないが、子規は草創期の野球を楽しんだ。坊ちゃんカラクリ時計の脇にはバットを持った子規の銅像が花を愛でていた(5枚目の写真)。

2023年5月22日月曜日

松山観光@はるか社員旅行(1)

 




 

 顧問先企業の社員旅行にお誘いを受け、松山観光に同道した。

松山は5回目くらい。だけれども、いままでに行かなかったところも行けて楽しかった。

計画段階では陸路+船旅も考えられていたようだが、時間がかかるということで空路で。松山空港に着陸するや、あたり一面みかん推しである(1枚目の写真)。

貸切バスに乗り込んで、まずは伊佐爾波(いさにわ)神社へ。日本三大八幡社造の一つ。社殿によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。

仲哀天皇や神功皇后を祭神とする神社は北部九州にも多い。香椎宮や筥崎宮がそうだ。なぜだろう?

仲哀天皇と神功皇后の実在性は疑問視されている。しかし、神功皇后の事跡は斉明天皇のそれに似ている。

斉明天皇は、朝鮮半島で勃発した唐・新羅との戦で百済を救援するため九州まで来て、朝倉の地で没した。太宰府の観世音寺は天智天皇が斉明天皇を追悼するため建立したものである。

古事記が編纂されたのは、天智天皇の弟である天武天皇の時代である。国史を編纂するにあたり、昔のことは分からないとするより、斉明天皇の事跡を参考として神功皇后の事跡を創造したということはありうるだろう(というか、そのような説を聞いたことがある。)。

斉明天皇や中大兄皇子(天智天皇)は、いまのように飛行機でいきなり九州に来たのではない。船便である。途中、松山・道後温泉にも立ち寄り、風と潮を待っている。額田王の有名な歌はこのときの作とされている。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

熟田津とはいまの道後温泉あたり。湯が出て、田が熱くなっていたのだろう(と思っていたが、熱ではなく熟だった。熟田とはよく耕してある田の意味らしい。)。

神社の階段から下をのぞめば(2枚目の写真)、市電の道後温泉に停車中にチンチン電車が見える。あのあたりが道後温泉街だろう。

道後温泉本館は残念ながら改修中(3枚目の写真)。覆い屋がかけられていた。覆い屋の右側は石鎚山、左側はシラサギであろう。開湯伝説にシラサギが湯で傷を癒やしたとあるから。

道後温泉は日本三古湯(道後、有馬、白浜)の一つ(4枚目の写真)。万葉集にも詠まれている。二日市温泉も大伴旅人に詠まれているので、同格である。しかし、ちがいは夏目漱石だろうか。

夏目漱石は二日市温泉に新婚旅行に訪れている。しかし残念ながらそこを舞台に小説は書かなかった。松山では書いている。『ぼっちゃん』である(5枚目の写真。坊っちゃんカラクリ時計)。せっかく新婚旅行に来たのだから、短篇の一つでも書いて欲しかったな。

2023年5月19日金曜日

『ドライブ・マイ・カー』

 

 テレビがつまらない。しかたなしにNetflixを見る夜が増えている。先日、映画「ドライブ・マイ・カー」(2021年)をみた。

(以下、ネタバレあり)

西島秀俊が主演。俳優・舞台演出家の家福を演じている。その妻・音は霧島れいか。夫婦は子どもを失い、家福はさらに妻を2重に失う。そこからの回復や気づきを描く。

家福は緑内障を患い、自分では愛車サーブの運転ができなくなってしまう。そのため、渡利みさき(三浦透子)に運転を委ねることになる。まさにドライブ・マイ・カー。

自然と、みさきと会話をしたり、みさきの過去を知ることになる。そうした交流を通じて、先にみた家福自身の傷が別の視点から見直されることになる。

ドライブ・マイ・カーは、もとはビートルズのヒットソングである(1965年。歌詞を知っていれば、ストーリー展開を予想することができる)。

その曲に依拠して(たぶん)、村上春樹が2014年に短編小説化している。『女のいない男たち』という短篇集の冒頭の短篇だ。

映画は、同じ短篇集のなかの「シェエラザード」や「木野」のストーリーも取り込んでいる。

さらにチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』も重要な役割を果たしている。チェーホフの戯曲を演じていると、自己の内面をさらけだすことになってしまうのだそうだ(俳優・舞台演出家の家福談)。おそろしい。

映画はカンヌ国際映画祭などで高い評価を得ている。

2023年5月18日木曜日

残雪の槍ヶ岳(4)

 







 3日目。いよいよ槍ヶ岳をめざす。

横尾からは道は3つに分かれる。左に梓川を渡れば穂高方面、右に斜面を登れば蝶ヶ岳、まっすぐ梓川沿いに進めば槍ヶ岳である。

横尾から先、梓川を挟んで、氷河がけずったV字谷となる。槍沢である。槍沢の谷を進むと、ときどき前山越や樹木越に槍の穂先が見える(1枚目の写真)。

さいしょはオオシラビソなどの針葉樹林帯である。が、しばらく進むと森林限界となる。森林限界から先は、寒さに強い針葉樹でさえ生存できない厳しい世界である。

森林限界というもそこから先、樹木がまったく生育できないのかというとそうでもない。ダケカンバ(岳樺)ががんばっている。落葉広葉樹であり、この時期まだ葉を落としている。

雪の影響を受けつつもリズミカルに並んでいたり(2枚目の写真)、青空をバックに美しい樹影をこしらえたりしている(3枚目の写真)。心おどる。

槍沢のキャンプ地あたりになると、梓川は伏流し、残雪の下にかくれてしまう(4枚目の写真)。前を行くのは槍沢ロッジのスタッフ。毎日のように雪面の状況が変化するので、道しるべとなる旗の位置を微調整してくださっている。

他のコースとちがい、V字谷の底を行くので、(少なくとも晴れていれば)大きな道迷いはない。しかし、雪渓を踏み抜いて梓川に落ちてしまったりしたらたいへんだ。また雪崩も危険。両側にデブリ(雪崩の跡)が堆積している。これら危険がもっとも少ないと思われるルートに旗が立てられている。

大曲という谷が大きく湾曲しているところをすぎると、穂先に向かって急登の連続となる。正念場だ。

グリーンバンドをすぎると槍の穂先が見えてくる(5、6枚目の写真)。雪と岩のコントラストはもちろんだが、空の青の深さ、雲の白のまばゆさが美しい(是非、写真をクリックして拡大して見て欲しい。)。ことしも来ることができた。すべのことに感謝、感謝。

2023年5月17日水曜日

残雪の槍ヶ岳(3)蝶ヶ岳からの展望

 




 上高地から3時間歩いて横尾に着いた。きょうはここで宿泊。横尾から振り返ると、前穂とその北尾根が輝いていた(1枚目の写真)。美しい(しかし連休中、3人が滑落し、うち2人が亡くなっている)。

もともとは、まず常念岳に登り、稜線を縦走して蝶ヶ岳に登り、そして横尾に下山する計画だった。しかし、2日目午前中の天気は荒れるとの予報だった。強風と大雨。そこで急遽、常念岳を断念して、上高地から横尾入りすることに計画変更した。

天気予報の精度は格段に向上している。明日は14時から雨が降るというと、ほんとうに14時から雨が降り出すから驚きだ。山の天気が変わりやすいのは変わらない。けれども、天気予報の精度が向上したことにより、登山の安全性が増していることは間違いない。

他方でコロナ禍以降困っているのは、山小屋が完全予約制になったことだ。むかしはどんなに混雑していても、布団1枚に3人寝かしてでも、泊めてくれた。しかしコロナ禍以降、そういうわけにはいかなくなった。

むかしだったら、常念小屋で天気の回復をまって、蝶ヶ岳へ縦走していただろう。しかし山小屋の完全予約制により、そうもいかなくなった。その先の横尾山荘や槍ヶ岳山荘の予約が流れてしまったり、予約できなくなってしまうからだ。そのため、常念岳の登りを断念して、上高地から横尾にショートカットしたというわけだ。

2日目、午前9時まではかなりの雨量だが、それ以降は1ミリ程度と予報されていた。山荘で一日潰すのはもったいない。そこで、9時過ぎに小屋を出て、蝶ヶ岳(2677m)に登ることにした。

上高地の標高は1500mだから、標高差1200m。宝満山の標高が800mであるから、その1.5倍である。5時間半くらいのコースタイムだろうか。

雨のなかを出発したが、1時間程度で雨はあがった。この日、蝶ヶ岳に同じコースで登ったのは4グループ6人(くだりのときにさらに2グループ3人に出会った)だった。

5合目くらいから残雪となった。アイゼンを装着する。先行していたおじさんが先に進むかどうか迷っている。

夏道はみえない。オオシラビソの木につけられた道標やペンキマークを目印に登ることになる。トレースはあったりなかったり。ときどき判断に迷うところもあったが、おおむね地形に沿って登ることができた。

稜線部は雪が溶けて夏道が露出していた。しかし風が強い。夏であれば登山者が行き交っているところ、誰も歩いてはいない。

振り返ると、槍ヶ岳から穂高の稜線をのぞむことができた(2枚目の写真)。空は曇っているが、稜線にガスはかかっていない。

右端が槍ヶ岳。中央やや右に凹んでいる部分が難所として知られる大キレット。その左は穗高連峰である。

穗高連峰を拡大してみる(3枚目の写真)。右から北穗高岳、涸沢岳、奥穗高岳、前穂高岳。涸沢岳から下にエプロンのように白くなっているところが涸沢(左側に岩が点々とみえているのはザイテングラード)である。

さらに左手、南を見ると、木曾の御嶽山をのぞむことができた(4枚目の写真)。神々しい。霊峰と呼ぶにふさわしい。

2023年5月16日火曜日

残雪の槍ヶ岳(2)上高地の猿祭り

 









 上高地にはニホンザルがいる。なんでも世界で最も寒いところにいるサルだそう。


上高地に3回行くと、1回はサルにまったくあわない、1回は数匹のサルにであうことができる、1回はサルの群れにであることができるという感じだろうか。

この日はなんと3群ものサルの群れにであうことができた。サルの集会かお祭りでもやっていたのだろうか。カワウソが祭りをするのであれば、サルが祭りをしたって不思議ではない。

上高地の地図はこうなっている。右上から左下に斜めにひかれた青い線が梓川。左上が上流である。中央部から左上に向かって歩いた。


この日の出発点は、上高地バスターミナル。地図のほぼ中央部E点。梓川の左岸(上流からみて左)である。

そこから右方、上流へむかい、5分で河童橋(⑥)。河童橋で橋を渡り、岳沢湿原(⑧)を抜けて梓川の右岸を行く。

1時間ほどで明神池のまえに着く(⑩)。猿の群れにであったのは、ここらあたりからだ。明神橋横のワイヤーを上手に渡っているやつがいる。

自然環境保護のため、人は木道のうえを歩かないといけない。しかし木道を占拠しているやつがいる。顔が赤い。昼間から飲んでいるのか。

さらに行くと、向こうからおっかない顔した連中がやってきた。サルとは目をあわせてはいけない。喧嘩売っているのか!ということになるらしい。しかしこういう場面で目をあわせないことはむずかしい。また木道から外れないでやりすごすこともむずかしい。

人間のことなど知るかと歩いているやつもいる。上方に気をとられているやつもいる。その上方でさらに上方に気をとられているやつもいる。

食事中のやつもいる。考え中のやつもいる(ただ顎がかゆいだけかもしれない)。瞑想中のやつもいる(ただ昼寝しているだけかもしれない)。なかなかにぎやかだ。サルの惑星ならぬサルの楽園だ。

2023年5月15日月曜日

残雪の槍ヶ岳(1)

 



 ことしも残雪の槍ヶ岳に登った。

名古屋に泊まり、朝一(といっても7時発)のJR特急ながので松本まで。そこからアルピコ交通上高地線に乗り換え、新島々駅へ。新島々駅横には梓川が流れている。

梓川(信濃川となって日本海にそそぐ。)は、槍ヶ岳に発する。なので、新島々から槍ヶ岳直下までは梓川をさかのぼる旅でもある。

新島々からはバスに乗って上高地まで。上高地は環境保全のためマイカーでの乗り入れが規制されている。福岡は雨だったが、上高地はよく晴れていた。

バスセンター横を梓川が流れている。梓川流域は花崗岩でできているため、水がとても澄んでいる。美しい。イワナが泳いでいる。

バスセンターから5分上流へ行くと河童橋がある。芥川龍之介の小説で有名なところ。

河童橋から上流には奥穗高岳を中心に穗高連峰がのぞめる(1枚目の写真)。梓川を前景とし、残雪をかぶった穗高連峰はいつみてもしびれる。

中央やや左手の峰が奥穗高岳。3190m、日本第3位。右上隅が前穂高岳。奥穂と前穂をむすぶ稜線が吊り尾根である。

奥穂から左手にいったん切れ落ちて、次に尖っているのがロバの耳、その次がジャンダルムである(裏側)。西穗高は画面さらに左側に見えている。北穂や涸沢岳は奥穂の向こう側にあり見えない。

中央部(残雪がないところ)が岳沢。夏は岳沢から紀美子平を経て、前穂でも奥穂でも登ることができる。いまの時期はまだまだ難しい。

河童橋から下流方面をふりかえると焼岳がのぞめる(2枚目の写真)。北アルブス唯一の活火山。噴煙をあげている。麓に大正池がある。焼岳の噴火で梓川が堰き止められてできた。きょうは寄っていくヒマがない。

写真右手の川縁にたくさん人が写っている。去年にくらべ3倍以上の人出だ。インバウンドも回復してきていて中国語、韓国語をはじめとする外国語を話す人や、イスラム系と思われる出で立ちの人も多い。

上高地から今日の宿泊地の横尾をめざす。梓川に沿って約3時間。途中、1時間ごとに明神、徳澤園という休憩ポイントがある。

明神あたりからは明神岳を(3枚目の写真)、徳澤あたりからは前穂の北尾根を(4枚目の写真)のぞむことができる。前穂北尾根は井上靖の小説『氷壁』の舞台になっている。

https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B7%E5%A3%81-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E9%9D%96/dp/4101063109

槍ヶ岳はまだまだ先だが、穂高の名峰たちの美しい姿に胸はたかなるばかりだ。

2023年5月12日金曜日

職場における暴行・パワハラ事件(福岡高裁判決)

 


 刑事事件を含めれば、平成28年から係争していた事件について高裁判決がなされた。

飲食店において上司YらがアルバイトXに対し暴行やパワハラを行い、PTSDを発症したとして、約2500万円の損害賠償が求められた事案である。

刑事事件において被告人の弁護を行った流れで、民事事件においても損害賠償を求められたY側から依頼を受けた。

刑事事件では、職場懇親会とその前々日に行ったとされる主に4つの暴行(傷害ではない。)の有無を争った。1審では全面的に有罪となり罰金40万円。控訴したところ、2つの暴行について無罪となり、罰金は20万円に減額された(刑事福岡高裁判決)。

その後、起こされた民事事件では、上記4つ以外にも多数の暴行・暴言が問題にされた。そして、XはこれによりPTSDを発症したという。某大学病院医師による診断を裏付けとしている。被告側は、Yだけでなく、上記飲食店、同僚、部下など関係者6人が訴えられた。

民事一審の福岡地裁も二審の福岡高裁も、暴行については、刑事福岡高裁判決どおり、それがあったことを認めた。しかし、Xが新たに展開した他の暴行や暴言については、これを認めなかった。

問題はPTSDのほうである。PTSDとは、心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic Stress Disorder)のこと。生死に関わるような体験をし、強い衝撃を受けた後で、その体験の記憶が当時の恐怖や無力感とともに、自分の意志とは無関係に思い出され、まだ被害が続いているような現実感を生じる病気である。

某大学病院医師は、Yが訴える多数の暴行・暴言を前提として、PTSDの発症を診断している。その前提が崩れた場合、どうなるのか。

民事一審の福岡地裁も福岡高裁もPTSDは認定しなかった。しかし、一審は、非器質性精神障害の発症の限度で被害を認め、302万円の支払を命じた。

双方ともこれが不服であるとして控訴した。控訴審では和解が模索されたが成就せず、結局判決となった。高裁判決は、上記非器質性精神障害の発症も認めず、暴行による損害として約77万円の損害賠償を命じた。

刑事事件高裁で一部有罪になっているので、ゼロというわけにはいかないであろう。一部敗訴とはいえ、約2500万円の請求が約77万円になったのだから大勝利と言ってよいと思う。

治療を前提とした精神科の医学において、患者の訴えは基本的に受容される。これを否定していては治療をすることができない。しかし、いったん診断名がついてしまうと、それを否定するために司法の場では難しい医学論争が必要になる。それにしても民事だけでも5年。長すぎる。

この間、コロナ禍の3年間があり、いずれも飲食店を経営したり、そこで働いている被告側の関係者も少なからぬ打撃を受けてきた。高裁判決で大勝利となったものの、いまひとつ意気が揚がらぬ幕切れである。