2023年8月31日木曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(5)天狗の大下りと天狗の頭

 



 難所を通り抜け、ようやく不帰ノ嶮・第Ⅰ峰まで到達した。前方には天狗の山塊が美しく鎮座している(1枚目の写真)。

左側の九十九折りの登山道が天狗の大下り。その上部に達すると、右へ天狗尾根が伸びている。中央、小高くなっているところが天狗の頭。尾根の右奥に白馬鑓が上部を見せている。

その手前の肩あたりに天狗山荘がある。きょうの宿泊地。不帰ノ嶮を踏破して疲れているが、なんとしてもあそこまで行かなければならない。

まずは天狗の大下り(2枚目の写真)。大下りだけれども、逆コースなので大のぼり。高度差400メートルもある。急角度でザレた坂を延々と登る。ときどき渡っていく涼風が気持ちがいい。

途中で振り返ると、不帰ノ嶮にガスがかかっていた(3枚目の写真)。台風が接近しているので、東(左)側から湿った空気が山をのぼってきてガスを発生させているようだ。

天狗の大下りの上部は鎖場が続いている。これをクリアしてようやく上部に達した(3枚目の写真)。これから大下りをくだろうというおじさんが気合いを入れていた。

おじさんの眼前には雄大な絶景がひらけていた。前方には後立山の山々、右方には黒部峡谷、その向こうに薬師岳が見えていた。

2023年8月30日水曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(4)核心部

 





 不帰ノ嶮は、唐松岳側から縦走すると、第Ⅲ峰、第Ⅱ峰(南峰と北峰)と第Ⅰ峰からなる。このうち、一番の難所である核心部は第Ⅱ峰・北峰の北面。200メートルの高度差がある絶壁である。

難所は登ったほうが安全である。視界がとりやすいし、足運びも楽だから。しかし台風が接近するなか、唐松岳方面から縦走することになったので、今回は難所をくだることになってしまった。だいじょうぶだろうか。

いきなり核心部ということで、まずは第Ⅱ峰を南峰から北峰へむかうところから。一枚目の写真である。先行者がいる。中央丸くもりあがっているところが北峰。丸くもりあがっているところを向こう側へ降りる。

2枚目の写真が北峰の頂上である。北東方面へ下る。写真でいうと、左下から右上のほうへおりていく。右側の石のほうへ降りてはダメである。×と書いてある。左側、わずかに鎖が見えている。この鎖を使って左手の向こう側におりなければならない。

2枚目の崖をくだると北(左)側に旋回する。しばらく下ると、NHK百名山などでよく紹介される難所であるハシゴ場にでる。3枚目の写真。高度感はあるが、ハシゴは意外と安定している。落ち着いて渡れば、なんということはない。

最後の最大の難所は鎖場をなんども繰り返してくだるところ。4枚目の写真。途中で離合したおじさんが登っていく。ここでは足場が見えなかったため、ヒヤヒヤした。ここはやはり登ったほうが安全である。

下りおえたところで振り返った。ほんとうに急な崖である。ピークから左手におり、中央のとんがったところを右側へ乗り越し、右側の壁面をおりてきた。よくくだれたものだ。ほっとした。

2023年8月29日火曜日

虫との距離

 


 週末、長女とその夫(候補者)Kくんと3人で四王寺山に登った。

長女のボヤキをきくと、Kくんは虫が苦手なようだ。アブがとんできたとき、長女をおいて逃げ出したらしい。

きけば三女の夫(候補者)も虫が苦手らしい。ゴキブリが出ると、自分では対処できず、三女まかせにするらしい。

きのう、事務局が騒いでいるので、どうしたのかと思ったら、すこし大きいサイズのハチが執務室の壁にとまっている。殺虫剤をふりかけようなどと言っている。

逃げるかも知れないとは思ったが、ちょっと裏側にまわって(昆虫の視界に入りにくいかなと思い)、ティシュでつかむことができた。玄関の外で解放してあげると、ヨタヨタと逃げていった。

そういえば、ちょっと前にも、トンボの仲間が事務所に迷い込んだことがあった。そのときも、おなじようにして逃がしてやった。

いまの若い人たちの夏休みは、室内、家庭用ゲーム機で遊ぶことが多いのだろう。ぼくらのころはそんなのはないから、夏休みの間中、外で虫取りをしていた。友だちがいるときは野球とかできるが、一人遊びはそれぐらいしかすることがなかった。

おかげで昆虫採集はちょっとした腕前だ。壁にとまったハチだって、容易にゲットすることができる。逃がしてあげることもできる。殺虫剤は必要ない。

・・・ここまで書いて、このテーマって、40年もまえにアニメ映画で宮﨑駿が描いたことやんということに気づいた。

2023年8月25日金曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(3)ご来光

 


 山中2日目の夜明け。

日の出は5時ころ。4時半まえに起き出して裏山に登る。すでに20~30人の人たちが待ち構えている。風はそれほどなく、ややひんやりする気温。ブルーモーメント。東の空が白んでいる。

寒色系の空に、すこしずつ暖色系の色合いがまじっていく。白馬村があるあたりは雲海に覆われている。東のほう、雲海の涯、ある点の光が増していく。日の出はおそらくあのあたりだ。

小さな輝点が姿をあらわす。ご来光だ。どよめきが起きる。輝点がどんどん成長し、円弧、半円、丸円となる。ひゃー神々しい。

ご来光を拝すると、太陽のパワーを実感する。太陽光線があたると、明るく、あたたかくなる。人類の強い味方。太古人類が神とあげめたことが実感できる。

手前は北信五岳(妙高、斑尾、戸隠、飯綱、黒姫)、その横は信州と越後の県境にある頚城山塊(妙高、火打、雨飾)。

西側を振り返ると、立山と剱岳がモルゲンロートに。後はビーナスベルト。美しい。手前の黒部峡谷はまだ夜があけていない。

鹿島槍、五龍、唐松、白馬の山々は後立山連峰と呼ばれる。いまの感覚だと、あれっと思う。立山の前にあるから、前立山ではないかと思うのである。

なぜか。後立山という呼称は富山県、日本海側からの呼称だ。この名称がつけられた当時、信州側より富山県側のほうが栄えていたということだろう。

しばらくすると、朝日は角度をあげる。空はふたたび、暖色からブルーの世界に変化する。雲海がキラキラ光をはねかえす。なんという雄大な景観だろう。

2023年8月24日木曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(2)唐松岳頂上山荘にて

 




 山中1泊目は、唐松岳の肩にある唐松岳頂上山荘(標高2620m)に泊まる。

八方尾根を登ること4時間5分。山荘から徒歩15分で、唐松岳の山頂だ。山頂は2696m。北アルプスは後立山連峰の一角で、日本三百名山。なかなかかっこよい山だけれども、いずれも百名山の五龍岳と白馬岳にはさまれて、三百名山に甘んじている。

南を望むと五龍岳(1枚目の写真)。2814m。その右(東)には、黒部川の峡谷をはさんで薬師岳が見えている。右肩、最奥部には槍・穂高も見えている。

唐松岳は1500mくらいまでゴンドラやリフトが利用でき、危険箇所も少ないため、北アルプスの山のなかでは比較的登りやすい。お盆期間中ということもあり、家族連れ、子ども連れのパーティもいた。山荘前では、唐松岳を背景に、子どもが黒部の深い谷をのぞき込んでいた(2枚目の写真)。

西側、黒部峡谷の向こうには立山と剱岳が見えるはず。だが残念ながら、ガスが発生してしまって見えない。

太平洋沖では猛烈な勢力をもつ台風7号が発達しながら本州に接近していた。台風は湿った空気を日本列島にどんどん送り込んでいた。そのため、山の天気はめまぐるしく変化し、午後からは積乱雲が発達した。稜線にいては危険な積乱雲だが、小屋前では皆、発達した積乱雲をまえにくつろいでいた(3枚目の写真)。

びっくりしたのは山荘の裏に、ウソがいたことだ(4枚目の写真)。いや、ほんと。ウソはご存じのとおり、天神様の使いの鳥。太宰府天満宮でウソ替えをやるときの、あのウソである。天満宮の裏山に住んでいると思いきや、このような高山帯にまで住んでいるとは。

ウィキによると、亜高山帯には住んでいるようだ。亜高山帯とは、シラビソやコメツガなどの針葉樹が生育しているようなところだ。高山帯は、寒冷、強風や豪雪の影響で、それら針葉樹も生きることができず、ハイマツや高山植物しか生育していない。

そのような厳しい環境で、なぜウソがいたのだろうか。ひとつは温暖化の影響もあるだろう。近年、サルやイタチが高山帯にまで進出し、ライチョウを襲っているという。

ウソとライチョウの関係はどうだろう?ともに神の使いであるから、仲よく共存してほしいものだ。

2023年8月23日水曜日

別れと出会いを繰り返し

 

 きのうは昼、再会があり、夜、別れがあった。

昼はロータリークラブの例会が二日市温泉大丸別荘であった。そこへ昔、奨学生としてお世話した劉くんが家族連れで挨拶にきてくれた。

ロータリーは複数の奨学生制度を用意をしているのだけれども、かれは米山奨学生。中国からの留学生で、日本で経済を学んだ。多難な留学生活だった。

いまは中国の大学で教えており、日中の経済比較などを研究しているらしい。中国の一人っ子政策はこれから少子高齢化社会を迎え、先行している日本の状況はとても参考になるという。

この間、来日のチャンスをうかがっていたが、コロナ禍等で果たせなかったようだ。今般、中国政府の日本観光解禁措置により、家族を連れて日本を訪れることができたという。

理事会があり長く話すことはできなかったが、握手で長い時間を飛び越えることができた。日中理解と友好の架け橋となってほしい。

夜は顧問弁護士をしている団体の職員の送別会があった。15年間勤務したというからアラフォー。顧問弁護士の仕事のひとつとして、総務財政室の会議に出席しなければならない。かれはその担当事務局だった。

総務財政室のメンバーはよくいえばユニーク、わるくいえば我が儘というか面倒くさい人が多い。そのようなメンバーを相手にかれはよくがんばってくれたと思う。

お連れあいの実家のある堺へ家族ともども引っ越し、かの地で就活をしているという。きけば大学の後輩らしい。いままでは団体の仕事の話しかしていなかったので、はじめて知った。かれらの幸せと活躍を祈った。

ぼくのばあい、高校卒業後、大阪岸和田市から福岡のほうへ転居した。電車のなかで部活の先輩と偶然出あい、餞別などをいただいた。そのときのあたたかい情景がこれまた長い時間を飛び越えてやってきた。

 花発多風雨(花ひらけば風雨多し)
 人生別離足(人生別離足る)

2023年8月21日月曜日

『ユリシーズ』と『エデンの東』と『風と共に去りぬ』と『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』と(2)

 
 

 『ユリシーズ』第7章「アイオロス」につぎのくだりがある。

 風とともに去った。マラマストに、諸王のいたタラに、大群衆がつどう。入口のある耳が何マイルもつづく。民衆指導者が吠え、言葉が四方の天風に乗って散った。民衆はその声のなかに身を寄せた。・・

いままでこれを読んで不思議に思っていた。「風とともに去った」「タラ」という2つのキーワードがどうしても『風と共に去りぬ』を想起させる。「タラ」というのは、『風と共に去りぬ』ではスカーレットの実家の屋敷のことだ。でも時代も場所も違う。偶然の一致だろうか?

「風とともに去った」には訳注が付されている。世紀末の詩人アーネスト・ダウスン(1867-1900)の詩「私はやさしいキュナラの言うままであったときの私ではない」より。

「タラ」の訳注はこう。タラはダブリンの北西33キロ余りの地点にある丘。古代アイルランド王の城址がある。1843年、「民衆指導者」ダニエル・オコネルはこれらの土地のほか各地で連合法撤廃の大集会を開き、イギリス政府に圧力をかけたが、同年10月投獄されて運動は挫折した。

これら訳注を読んでも、『風と共に去りぬ』との関連は謎だ。謎は謎のまま、調べもせずに放置していた。ところ、先日NHK BSで司馬遼太郎の『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』を行くをやっていた。これを見て得心がいった。

オリバー・クロムウエルをご存じだろうか。われわれ憲法を学んだものにとって、かれは人権闘争の歴史のうえで英雄の一人である。かれはピューリタン革命を指導したからである。

ピューリタン革命とは、「世界史の窓」によればこう。「1642年から49年に至る、イギリスのステュアート朝絶対王政に対して、議会の中心勢力であったジェントリが国王の専制政治を倒し、宗教的自由を求めて立ち上がった。彼らはピューリタンが多かったので、ピューリタン革命(清教徒革命)という。この革命によって国王チャールズ1世は処刑され、共和制が実現した。」

世界史や憲政史ではここまでしか学ばないけれども、クロムウエルにはさらに黒歴史があったようだ。上記勢いにまかせてアイルランドに遠征し、カトリックの信者とみれば誰彼かまわず虐殺し、アイルランドを植民地にしたという。

以来、アイルランドでは繰り返し独立闘争が繰り広げられた。しかしアイルランド人は100戦100敗の民であるという。先の「民衆指導者」ダニエル・オコネルによる運動の挫折もその一つだ。しかしアイルランド人は主観的には負けていない。主観的には100戦100勝らしい。つまり、不屈の精神をもつ。

その際、不屈の精神の拠り所となったのがタラの丘である。古代アイルランド王が依拠した土地で、日本でいえば飛鳥とか天の香具山みたいなところだ。

『風と共に去りぬ』の著者マーガレット・ミッチェルも、その主人公スカーレット・オハラもアイルランド移民だ。

スカーレットは南北戦争にも負け、アシュレーとの恋愛、レット・バトラーとの子育て・恋愛にもことごとく負ける。しかし屈しない。その背景にはアイルランド魂とその象徴としてのタラの丘があるのだ。

ミッチェルの『風と共に去りぬ』も、前記アーネスト・ダウスンの恋愛詩シナラからの引用という(詩の題名の違いは不明)。

といったことがよく分かった。司馬遼太郎という思わぬ援軍である。ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』の理解も深まった。

おまけ。米大統領ジョン・F・ケネディやロナルド・レーガンもアイルランド系。映画監督ジョン・フォードも。さらにビートルズもアイルランド系らしい。なるほど。

2023年8月18日金曜日

『ユリシーズ』と『エデンの東』と『風と共に去りぬ』と『街道をゆく「愛蘭度(アイルランド)紀行」』と(1)

 

 ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』をなんどめか読み返している。読書百遍の効果もわずかばかり感じられるけれども、あいかわらず難解。

普通の小説との最大の違いは文体。文体が千変万化し、一章ごとに新たな戦い(文体との)が待っている。しかし、内容もやはり難しい。

ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』、その他ギリシアの古典・思想、旧約・新約の聖書、キリスト教の歴史(カトリックとプロテスタント、イギリス国教会)、エジプト・ギリシャ・ローマの歴史、アイルランドの歴史(とくに植民地からの独立運動)・文学、イギリス帝国の歴史・文学,シェークスピアの人生と著作、ユダヤ教、ユダヤ人の歴史など膨大な情報が踏まえられている。

これらに前提知識に精通していいないと、ちゃんと理解できない。そのため、集英社文庫の丸谷才一ら訳には膨大な訳注がふされている。たいへん便である。が、それらをいちいち参照していると意識の流れがそちらへ行ってしまって、本文の流れを見失う。困ったもんだ。

たとえば、第7章「アイオロス」。『ユリシーズ』は1904年6月16日(木)ダブリンにおける平凡な市民ブルームの一日が描かれている。ブルームの仕事は新聞の広告とり。

平凡な一日なのだが、背景には『オデュッセイア』におけるユリシーズの冒険が踏まえられている。アイオロスというのは『オデュッセイア』にでてくる風の神の名だ。

「アイオロス」の舞台は新聞社。そこで3人の主人公のうちブルームとスティーブンが出会いそうで出会わない。スティーブンが来社した際、ブルームは広告とりに出かけてしまう。

その際、アイオロスの生まれ変わりというか、すくなくともアイオロスに擬されている編集長がブルームの背中をおして、こういう。

 -行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。

この点について、丸谷ほかの訳注にはこうある。ミルトンの『失楽園』の結びに「世界は二人の前に広く開けていた」とある。「二人」は楽園を追放されたアダムとイヴ。

この訳注はこれでよいのだろうか。丸谷らの訳には、多方面から批判がある。原典が難解なのだから、やむを得ないのであるが。

「世界はきみの前に開けているぞ。」ときいてぼくが思い浮かべるのは、『エデンの東』のラストシーンだ。『エデンの東』はジョン・スタインベック原作。ジェームス・ディーンが主人公キャルを演じる映画が有名。しかし、ぼくが強い印象を受けたのは米国テレビドラマ版。

キャルは、粗暴な言動から八方塞がりな状況に陥ってしまう。孤独感からそのような言動をしてしまうのだけれども、まわりの理解は得られない。兄は出生の秘密を知ったショックから出征し、父はそのショックで脳出血に倒れてしまう。かくて、すべての道が閉ざされているように感じられた。

そうしたティムに対し父は、言葉も不自由ななか、こう言って背中を押す。

 「ティムショール(ティムシェル)。」

意味は「道は開けている」。旧訳聖書・創世記「カインとアベル」に由来する。

そもそも『エデンの東』は、「カインとアベル」を踏まえている。カインとアベルはアダムとイヴの息子たちで兄弟。それなのにカインはアベルを殺してしまう。人類最初の殺人。

近時、兄弟姉妹の遺産分割協議が激烈化していると感じる。しかし旧約の時代からそうなのだと知るとなんだか慰められる。

弟を殺したカインに対し神が言った一言が先の言葉、「ティムショール」である。

前記「-行け!と彼は言った。世界はきみの前に開けているぞ。」の訳注としては、こちらを紹介すべきと思われるのだが、いかがなものであろうか。

(旧約はもちん『失楽園』も、『ユリシーズ』も、『エデンの東』さえも原典で読んではいないので、思わぬ間違いがあるかもしれないが)。

2023年8月17日木曜日

不帰ノ嶮(かえらずのけん)(1)唐松岳・八方尾根を登る








 山の日(8月11日)からお盆の間、不帰ノ嶮(かえらずのけん)を縦走した。

不帰ノ嶮は、後立山連峰の唐松岳と白馬岳の間にある険しい難所。文字どおり、一度行ったら帰れないのいう。大キレット、八峰キレットとともに日本三大キレットの一つ。

台風6号が九州の西方海上を抜けた翌日、山の日(8月11日)に福岡を出発した。天気予報では8月14日(月)にはつぎの台風7号が名古屋あたりに直撃するとの情報をつたえていた。

不帰ノ嶮は、北(白馬岳)側から、天狗の大下り、不帰ノキレット、不帰Ⅰ峰、不帰Ⅱ峰の北峰、南峰、不帰Ⅲ峰を経て唐松岳に至る。つまり、北から南へ向かうのが正順とされる。

一番の難所は、不帰Ⅱ北峰の北面である。難所は登ったほうが安全性が高い。状況を視界におさめつつ行動できるから。野球でもサッカーでも、ボールは身体の真正面でコントロールしなければならないとされるのは、おなじ理屈だ。

ところが、台風が接近していたので、1日節約できる唐松岳から北上するコースを選んだ。一番の難所が下りになる。安全な足場が見えにくいので危険だ。だいじょうぶか。

初日は白馬村に泊まる。宿の窓から白馬三山が見えている。雄大な絶景だ。

8月12日(土)、八方尾根を登る。ゴンドラとリフトを利用して八方池山荘まで達する。そこはもうお花畑である。ハクサンシャジン、マツムシソウ、ウメバチソウ、カライトソウ、オトギリソウ、シモツケソウなど。まさに百花繚乱。心躍る。

2023年8月10日木曜日

「憧れの東洋陶磁ー大阪市立東洋陶磁美術館の至宝」@国立九州博物館

 


 国立九州博物館へ、東洋陶磁を見にいってきた。

展示物は、大阪市立東洋陶磁美術館のものがほとんど。いわゆる安宅コレクションが中心。同美術館の改装工事の期間中、里子に出されたようだ。

中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館には3度行ったことがある。ちかくの大阪地裁や中之島公会堂での集会などへ行く際のスキマ時間に立ち寄るだけなので、いつも駆け足だ。

今回は地元での展示でもあるし、じっくり拝見しようと心に誓った。が、やはり一時間も見ていると、まんぷく感はぬぐえない。

それでも展示方法も異なるし、解説もきめ細やかなので、大阪で見るのとはずいぶん違った印象を受けた。

陶磁器を見るのは好きである。有田にある九州陶磁文化館や有田陶磁文化館へはときどき行く。しかし有田焼の歴史はこの400年くらいの出来事だ。

それに対し、中国の陶磁器の歴史は新石器時代(紀元前7000年ころ)にはじまるという。陶器と磁器の歴史は分けて考えるべきだろうが、それでも数十倍もの歴史がある。

奈良でよくお見かけする唐三彩を生み出した唐代。景徳鎮を中心に数々の名品を生み出した宋代。茶の湯の発達と裏腹な関係だ。そして明、清代。

クライマックスは油滴天目の2品。手の平大の器に宇宙を見る。すばらしい。

2023年8月9日水曜日

黒部五郎岳と雲の平へ(6)北アルプスの最奥部へ

 
 さて北アルプスの最奥部、黒部五郎岳と雲の平への山旅の最終回。

写真の奥のギザギザは槍ヶ岳である。その手前の稜線、右(南)に登れば三俣蓮華岳、左(北)に登れば鷲羽岳である。

その稜線とこちら側の稜線の間は深い谷になっている。黒部川の源流が左(北)側から右(南)側へ流れている。あれ?と思うかもしれない。黒部川は日本海に注いでいるので、北へ向かうはずだから。じつは、このあと説明する雲の平をぐるっと半周して北へ向かうことになるのだ。

写真を拡大すれば分かるが、三俣蓮華岳と鷲羽岳をむすぶ稜線のやや右に三俣山荘が建っている。そこから、三俣山荘の中腹を右へトラバース(迂回)すると、黒部五郎岳へ向かうことになる。

三俣山荘から西、黒部源流へくだって徒渉し、ふたたび登りあがり祖父岳の中腹までくると、写真を撮影した場所に達する。さらに、西へ向かうと雲の平だ。新穗高温泉の登山口から三俣山荘まで2日かかっているので、黒部五郎岳や雲の平がいかに奥深いか実感できると思う。


 お目当ての一つ、黒部五郎岳である。標高2840m。日本百名山。東側がスプーンで削ったように、大きな丸い谷になっている。カール地形である。とにかく美しい。長い長い稜線を歩いてきた甲斐があるというものだ。


 お目当てのもう一つ、雲の平。日本最後の秘境と呼ばれる。美しい平原が広がっている。1枚目の写真は、黒部川・黒部峡谷越に薬師岳。

2枚目の写真は、雲の平の中央部に建てられた雲の平山荘。実に優美なデザイン。一度は泊まってみたいが、そうそう長く休んでいられないので、この日は双六小屋まで引き返し、翌日下山した。

いままでで一番のロングコース、最大の高低差だった。達成感がハンパない。

2023年8月8日火曜日

黒部五郎岳と雲の平へ(5)長大な稜線とピーク

 
(弓折岳、笠ヶ岳)

(双六小屋、むこうに鷲羽岳)

(双六岳の台地、むこうに槍ヶ岳)

(双六分岐から丸山、三俣蓮華岳)

(三俣蓮華岳)

(鷲羽岳、左奥に水晶岳)

 北アルプスの最奥部、黒部五郎岳と雲の平への山旅2日目のつづき。

1日目の宿泊小屋である鏡平山荘から1時間の登りで弓折分岐に着く。ライチョウの母子と出会ったところだ。1枚目の写真の真ん中のピークが弓折岳。その手前が弓折分岐。左斜め下に鏡平山荘がある。

弓折分岐から稜線を歩いて1時間超で双六小屋だ。1枚目の写真、真ん中から右へハイマツが生えていないのが登山道。それを真ん中から右へ歩く。

小ピークを3つほど乗り越すとやがて双六小屋が見えてくる(2枚目の写真)。まるで桃源郷のよう。小屋の向こうに鷲羽岳がそびえている。小屋の右(東)側の斜面を登っていくと、やがて槍ヶ岳に着く(西鎌尾根)。

左(西)側の斜面を登っていくと双六岳だ。1時間の登り。双六岳は円錐形ではなく、台地状になっている。振り返ると、槍ヶ岳へつづく登山道がのびている。まるで滑走路のよう。有名な絶景だ(3枚目の写真)。

山頂からは360度の大展望。東に槍ヶ岳や穂高岳、西に黒部五郎岳や薬師岳、南に笠ヶ岳・焼岳・乗鞍岳・御嶽山、北に三俣蓮華岳・鷲羽岳・水晶岳など。

双六岳からは北に転針する。三俣山荘まで、また1時間超の歩き。途中、丸山と三俣蓮華岳を越えていかなければならない(4枚目の写真)。

三俣蓮華岳は長野県、岐阜県、富山県の3県の県境をなしている。カール地形が美しい。カールは氷河が削った丸い谷である(5枚目の写真)。

三俣蓮華岳を乗り越えると、鷲羽岳が大きく迫る。鷲羽岳の山麓に三俣山荘がある。いくつもの稜線とピークを越えてようやく今日の宿泊地だ。ふう(このあと積乱雲が発達し、2時ころから雷雨となった。)。

2023年8月7日月曜日

黒部五郎岳と雲の平へ(4)山小屋


          


 北アルプス最奥部、黒部五郎岳と雲の平への旅のつづき。

山旅をする際、天気がよくて体力があれば、テントを背負っていけばよい。しかしそうでないなら山小屋を利用するのがよい。

こんかいも、上から順に、鏡平山荘、双六小屋、三俣山荘を利用した。三俣山荘は小さくて分かりにくいけれども、手前の稜線の右側に写っている。

山小屋のサービスはさまざま。旅館に近いところもあれば、山小屋らしいシンプルなところもある。鏡平山荘と双六小屋はおなじグループ経営で旅館にちかく、三俣山荘は山小屋らしいところだ。

いちばんの問題は水だ。トイレ、洗面、食事、水分摂取など、われわれ(特に日本人)はすべての生活局面で水を必要としている。山小屋で水に不自由する生活を送ることを強いられると、普段いかに水にめぐまれた生活を送っていたのか実感できる。

山小屋は水をどうやって得るかを考えて立地している。湧水や沢のあるところ、雪渓がちかく雪解け水が得られるところが豊富でおいしい水が得られる。

鏡平山荘は見てのとおり、近くに池がある。三俣山荘は湧水がある。双六小屋は雪渓から導水している。こんかい泊まったところはどこも水は豊富なところだった。そうは言っても風呂はない。風呂や温泉がある小屋は限られている。

このようにして水が得られないところは天水といって、小屋の屋根に降った雨水を溜めておいて利用することになる。水は貴重だ。お金を出して買うことになる。

水の問題は、トイレの臭いや洗面などいろんな問題に波及する。小屋泊まりのクオリティはほぼ水にかかっているといっても過言ではない。

水のつぎは輸送だ。むかしは歩荷さんが担いで登っていた。いまはヘリコプターを利用しているところが多い。なので物価が高い。

ペットボトル飲料が鏡平山荘、双六小屋で500円、三俣山荘で700円だ。もちろん、体力に自信があれば、自分で担いで登ればよい。しかしそうでないなら、お金で問題を解決しよう。

その次は、いまなら携帯電話がつながるかどうかだろうか。小屋は水が得やすい山あいにあることが多い。つまり、携帯電話がつながらないところが多い。これはストレスだし、時間もつぶしにくい。

その後にくるのが、小屋のオーナーさんやスタッフさんのサービス。各小屋で、アルペンホルンの演奏やグッズの販売などに知恵をしぼっている。

夏山登山は朝4時くらいに行動を開始して昼前後には行動を終了している。あるいは、雨が降り行動を中止して、いわゆる沈殿することもある。そのため時間つぶしが必要となる。昼寝をしてもよいが、夜がつらくなる。そのために、小屋には山関係の本がそろえられている。ただし、読書をするためには照明がいまひとつ。

・・・というわけで、山小屋生活は、日頃われわれがどれだけめぐまれた生活を送ることができているかを実感する場になる。みなさんも、いちどいかが?

2023年8月4日金曜日

黒部五郎岳と雲の平へ(3)高山植物

 




 北アルプス最奥部、黒部五郎岳と雲の平への旅2日目のつづき。

1枚目の写真の一番手前の高まりが弓折岳。その右奥が笠ヶ岳、左奥に焼岳、乗鞍岳、御嶽山が連なる。

写真手前から弓折岳にかけて土が露出しているところが登山道。弓折岳の直下のところが、弓折分岐。きのうライチョウ母子で出会ったところと紹介した場所である。

このあたりになると、もはや森林限界を超えている。シラビソなどの針葉樹林であっても生育できない。

目にみえる緑は、ハイマツ(這松)である。文字どおり、空にむかって幹を伸ばすのではなく、地面を這っている。低温、豪雪、強風など自然環境の厳しさから高い木は生育できないのである。

森林限界を超えたところで、ハイマツさえ生えていない場所がある。ひとつは、自然に崖崩れが起きたような場所。ひとつは、人が通ることによりハゲた場所。ひとつは、遅くまで雪渓が残り、ハイマツでさえ生育できない場所など。

このようなハイマツさえ生育できない場所に高山植物が生き延びている。短い夏の間に次世代へ命をつないでいる。平地のに比べ、一般に花が大きく、いっそう可憐にみえる。

ピンクの花はシモツケソウ。日本の固有種。バラの仲間。

白い花はキヌガサソウ(衣笠草)。これも日本の固有種。

暗い紫はクロユリ。川端康成の『山の音』に出てくるらしい。

2023年8月3日木曜日

黒部五郎岳と雲の平へ(2)ライチョウ

 





 北アルプスの最奥部、黒部五郎岳と雲の平への旅の2日目。快晴の朝6時、鏡平山荘を出発。

弓折尾根を約1時間かけて登る。笠ヶ岳方面へ行く道と双六岳方面へ行く道の分岐に着く。弓折分岐である。

ライチョウがいた!若いメス。くーくーと鳴いている。この季節、子育て中のはずだが、まだ若いため子どもはいないのだろうか。

観察し、撮影することしばし。すると、草むらから子どもたちの姿が。3羽いる。母鳥が様子をみて安全を確かめてでてきたようだ。

ライチョウのこのようなフレンドリーな対応は日本特有のものだ。諸外国の研究者が日本を訪れて、みな驚くという。

イギリスの小説などを読んでいると、ライチョウはハンティングや食料の対象だ。そりゃ、人間をみれば逃げ出すに決まっている。

これに対し、日本では古来、神の使いとして保護されてきた。現代でも特別天然記念物として保護されている。千年におよぶつきあいだ。日本のライチョウが人を恐れないのは、そのせいだ。

4泊5日のこの旅で、ライチョウ親子たち5家族で出会うことができた。どの家族もみな、フレンドリーだった。

しかしこのようなおっとりした性格ゆえか、気候変動の影響か、ライチョウの数は激減している。絶滅危惧種である。孫たちにも、ぜひライチョウをみせてあげたい。

外人さんたちのように、ハンティングの対象として食べたりはしないが、おみやげは「雷鳥の里」だ。これは食べてもよいだろう。