2023年12月27日水曜日

~からの、幻住庵

 




 石山駅に戻る。石山駅からはバスで幻住庵(跡)へ。幻住庵(菴)は、おくのほそ道の旅を終えた翌年、芭蕉が仮住まいをしたところ。

「幻住菴記」という俳文がある。もっともすぐれた俳文であると評価が高い。芭蕉が仮住まいをした当時の様子が詳細に書かれている。

石山駅の南には紫式部が『源氏物語』を執筆したという石山寺がある。そのやや西側にあるのが国分山である。国分というのはその昔、聖武天皇が国分寺を建立したことに由来する。幻住庵はその麓にある。

 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふるなるべし。

バスを降り山手の坂を登ると、近津尾八幡宮がある。

・・・麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせたまふ。

もちろんいまは神仏分離であろうが、芭蕉の時代は習合していたようである。

・・・身体は弥陀の尊像とかや、・・・両部光を和げ、利益の塵を同じふしたまふも又貴し。

八幡宮の横に幻住庵跡がある。芭蕉の時代すでにかなりいたんでいたようであるから、いまは残っていない(いまある建物は平成3年に再建したもの。)。

・・・日比は人の詣ざりければ、いとゞ神さび物しづかなる傍に、住捨し草の戸有。よもぎ・根笹軒をかこみ、屋ねもり壁落て、狐狸ふしどを得たり。幻住菴と云。

あまりに美文なので全文紹介したいところだが、そろそろ仕事に戻らねばならないので、以下ずっと省略して、末尾の句。

 先たのむ椎の木も有夏木立(まづたのむしひのきもありなつこだち)

幻住庵跡の横には大きな椎の木があり、当時のものであると説明されている。樹齢400年というにはやや疑問が残るが、そのロマンにあやかることにしよう。

この句の句碑はわが久留米城跡にもある。なぜだろうか。以下のくだりと関係があるかもしれない。

 ・・・さるを、筑紫高良山の僧正は・・此たび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞。いちやすやすと筆を染て、幻住菴の三字を送らる。頓て草菴の記念となしぬ。

椎の木は冬でも葉が落ちない常緑広葉樹・照葉樹である。冬でも葉が落ちない縄文的な生命力は頼みとするに足りるであろう。

さてみなさま、今年も日本各地の山々や里々へ旅をすることができました。これも一重にみなさまのご愛顧によるものと思います。ありがとうございました。よき新年をお迎えください。

2023年12月26日火曜日

MIHO MUSEUM(2)

 




 常設コレクションには、エジプト、メソポタミア、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、イラン、トルコ、ガンダーラ、中国、日本など幅広い地域と時代にわたる優品2000点以上が含まれている。

感心したのは解説の面白さだ。世界史の教科書だと、政治史中心となっているので、文化・美術や宗教の記述は最後に添え物のように書かれている。そのため相互の影響やつながりが分からない。

ここでは文化・美術や宗教を中心として(あたりまえだが)、発生・流通・交流の視点から解説されているのが面白い。エジプト、メソポタミア、インド、中国における文化・宗教の発生から地域を越えた壮大な交流と独自性の発揮について学ぶことができた。

学芸員の優秀さだろうか。歴代館長も梅原猛氏、辻惟雄氏らそうそうたる顔ぶれだ。

こちら側も目が肥えてきたせいもあるかもしれない。最近は岡山市立オリエント美術館でオリエント美術の流れを、九博「アールヌーヴォーのガラス展」ではガラスという素材を使った工芸品に関する古代エジプト以来の歴史を学んだばかりだから。

きのうきょうとMIHO MUSEUMの訪問記を読んでいただいたみなさま、気になるのは本館の宗教臭さではないだろうか。ぼくも訪問前は気になった。でも現地ではあまり気にならなかった。

宗教臭というのは、考えてみれば「新興宗教臭」あるいは「宗教の押しつけに対する警戒感」のことではないだろうか。なぜなら、京都や奈良に行けば神社・仏閣、仏像・神像だらけなのに、それほど宗教臭を気にしないからである。

本館のコンセプトは「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」。それを裏切らない印象だった(注:館からは1円もいただいておりません。)。

2023年12月25日月曜日

MIHO MUSEUM(1)

 





 翌日は朝一でMIHO MUSEUMへ。JR石山駅でおり、そこからはバスで1時間。MUSEUMは信楽の郊外山中にある。

バスを降りて、しばらく歩くとレセプション棟、そこからさらに歩く。トンネルを抜けると、巨大な橋がかかっている。橋をわたるとようやくミュージアムだ。このアプローチは現代の桃源郷と題され、土木学会デザイン賞を受賞している。

建築家イオ.ミン.ペイ氏の設計。同氏はルーブル美術館のガラスのピラミッドの設計者として知られる。そいういわれれば似ている。「光こそ鍵」がテーマ。建築容積の8割は地中にある。

MIHO は小山美秀子(みほこ)氏のコレクションだから。同氏は宗教法人神慈秀明会(きのうの泉屋博古館のお隣)の会主。同会は世界救世教から分立。

同美術館の収蔵品が個人のコレクションであったことに驚かされる。「美術を通して、世の中を美しく、平和に、楽しいものに」がコンセプト。

ソフィー・リチャード著『フランス人がときめいた日本の美術館』(集英社インターナショナル)で紹介されているので、いちどは訪れたいと思っていた。

まずは特別展「金峯山の遺宝と神仏」へ。金峯山は吉野にある。古代より修験道の聖域とされてきた。きのう聖護院でなりたちを再確認したところだ。

修験道は役行者が創始。金峯山で蔵王権現を感得したという。権現は仏・菩薩が人々を救うため仮の姿をとって現れること(権とは仮という意味)。いわゆる本地垂迹説、日本の神は仏の仮の姿という考えから。

なかでも蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が合体したものであるから、すごい救済パワーの持ち主である。修験道の本尊。金峯山寺本堂の本尊。

平安貴族は競って金峯山参詣を繰り返した。あの藤原道長はその代表である。その跡が経塚遺物として発掘され、展示されていた。

 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたるところもなしと思へば

と歌った道長であったが、心中の不安や神仏へすがりたい気持ちはかれにしても、光源氏(光る君)とおなじくあったようである。

2023年12月22日金曜日

~からの、南禅寺

  

 泉屋博古堂は下れば永観堂・南禅寺だし、上れば銀閣寺である。東山観光寺院は人が多くて避けたいところだが、このまま東へむかえば比叡山か大文字山に登ってしまう。宿は京都駅南だったので、南禅寺へ向かった。

途中、永観堂前には列ができ、風情もへったくれもなかった。人混みをおしわけながら、南禅寺についた。

法堂方面は人が多かったので、三門にのぼって済ますことにした。晩秋(初冬?)の京都が一望のもとに見渡すことができた。

絶景かな絶景かな。石川五右衛門でないけれども、満開の桜ではないけれども、ためいきがもれた。

2023年12月21日木曜日

~からの、泉屋博古館<京都・鹿ケ谷>

 

 聖護院をでて、春日北通を東へむかう。浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺の高麗門にぶつかる。南に下り、丸太町通を東へ向かう。鹿ケ谷通とのT字路に住友関係の施設が並ぶ。

きょうの行先は泉屋博古館(せんおくはくこかん)。T字路の北西角にある。なお、その北西には神慈秀明会がある(あす行くところと関係がある。)。

泉屋は江戸時代における住友家の屋号。博古は中国宋時代に皇帝の命により編纂された青銅器図録の名前から。

泉谷博古館は東洋美術館。住友家から寄贈された中国古代青銅器が目玉のコレクション。住友家は別子銅山の開発など銅と深い関係がある。代々、青銅器を収集したのには稼業と関連があるのだろう。

青銅器だけでなく絵画等も収集し、国宝2点を収蔵している。1点は中国南宋時代の絵画「絹本著色秋野牧牛図」。もう1点は12世紀平安時代の銅鏡「線刻釈迦三尊等銅像」。

この日のお目当ては、特別展「表装の愉しみ―ある表具師のものがたり」。

https://sen-oku.or.jp/program/2023_thebeautymountings/

ちくし法律事務所では、春夏の事務所ニュース巻頭の絵画をお願いしていることから、版画家の大場敬介・寿子先生と親しくさせていただいている。

https://keisukeandhisako.com/about.php

親交のなかで学んだことは、表装の重要性である。おなじ版画でも、表装が変わると受ける印象がガラリと変わる。

写真もおなじ。いわゆる額縁効果というやつだ。だから、それに心血をそそぐ人たちがいる。今回の展示からもそのようなことを学んだ。

2023年12月20日水曜日

~からの、聖護院(しょうごいん)

 


 八海山といえばお酒の名前と思っていたという弁護士がいた。八海山は本来、越後の標高1778mの岩峰である。柴門ふみの父親など遭難者多し。

聖護院といえば生八つ橋、あるいはカブやダイコンの名前だと思っている人も多かろう。しかし本来は、修験道の大本山のお寺の名前である。

修験道は古代、山岳宗教・古神道に仏教や道教が習合して成立した。開祖は役行者。われわれ山歩きをする者にとっては、崇拝の対象である。

山歩きだけでなく江戸時代、旅人も崇拝していたようである。おくのほそ道にこうある。

 修験光明寺といふあり。そこに招かれて、行者堂を拝す。

 夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな

聖護院の開山は園城寺の僧・増誉。熊野で修験の修行をおこなっていた。白川上皇が熊野御幸を行った際の先達(せんだつ)をつとめ、その功により本寺を下賜された。

中坊公平氏が日弁連の会長であったころ、本寺で合宿が開催されたことがあった。なんの会合だったかは忘れた。そのときの様子もまったく記憶にない。ただ、本寺で合宿したという抽象的な記憶だけが残っている。

ご本尊は修験道であるから不動明王。大日如来の化身であるから、さきほどの智積院とも根本はおなじである。

30分に1度、女性が寺内の案内をしてくれる。不動明王のいわれなどあらためて聞くと、なるほどと思う。

ご本尊などは撮影禁止、お隣の部屋のみ撮影OK。扁額の文字は研覃。深く深く追求する。自分自身を耕し研鑽する意味である。

2023年12月19日火曜日

~からの、智積院(ちしゃくいん)

 





 京都国立博物館のあとは智積院へ。最後の紅葉に間に合った。

真言宗智山派の大本山。寺の歴史をみると、紀州根来寺の塔頭として出発し、豊臣の世で圧迫され、徳川の世で再興したようである。「どうする家康」は徳川の勝利をもって終了したが、豊臣の世が滅んで浮かんだ寺社もすくなくなかろう。

まえに来たときは安部龍太郎の『等伯』(日本経済新聞社刊)を読んだあとだったから、10年前の2013年である。

今回のお目当ては、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵である。講堂を飾る。2013年にもすでに展示されていたのだが、なんらかの事情(思い出せない。)で見ることがかなわなかった。が、今回はかなった。長谷川等伯よりしぶい水墨画である。

講堂の奥には東山随一といわれる庭園(名勝)。池泉回遊式。利休ごのみ。山は廬山、池は長江である。長江であるため濁っている。わざとである。

紅葉のお庭を回遊して宝物館へ。今年5月開館。長谷川等伯らの障壁画(国宝)を拝見することができる。以前の建物はすきま風が寒い木造だったような気がするが空調のきいた快適な空間である。

2023年12月15日金曜日

東福寺展@京都国立博物館

 





 スタバのあと。そうだ、東福寺展@京都国立博物館へ行こう!ということで、でかけた。

紅葉が残る時期だったのでリアル東福寺へも行きたかったが、インバウンドが回復した京都は京都駅からしてすでにすごい雑踏。東山に並ぶ観光寺院の周辺はとてもとても。紅葉というより人々の頭を拝見することになりそうだったので、あきらめた。

京都国立博物館はほんとうにひさしぶりだ。高校時代に訪れたことははっきりしているが、社会人になってからは1,2度だろうか。

東福寺は、奈良の東大寺と興福寺の二文字をとって名付けられた鎌倉時代の大寺院。いまもすごい大きさだが、当時はもっとすごかったのだろう。

禅宗(臨済宗)寺院である。こんかいの展示を拝見して、東福寺と禅宗のことがよくわかった。

これまで東福寺は5回以上訪れている。が、重森三玲(岸和田城の石庭でご縁がある。)の作庭とかは嘆賞しても、このような理解がなされることはなかった。

東福寺は、1236年、摂政九条道家の発願。上皇を中心とする京都勢が武家の鎌倉勢に敗れた承久の変が1221年であるから、その後のことである。

日本史の教科書では、それ以後、武家の世となる。けれども、その後においても、公家がこのような巨大な大寺院を建立する経済と政治力をもっていたことに驚かされる。

開山は禅僧の円爾。同じ臨済禅を伝えた栄西ほど知られていない。日本史の教科書に記述がなかったかもしれない。けれども、中国・宋で禅の修行をし、南宋禅林の巨匠であった無準師範から法を嗣いだ。

禅を創始したのは面壁9年にして悟りを得たダルマである。ダルマは中国に渡り、禅宗を開いた。弟子たちによって代々受け継がれた。

中学の美術の教科書だったか、切断した腕を差し出す慧可が描かれていたが、かれが2代目である。以降も系図がはっきりしている。したがって、巨匠であった無準師範から法を嗣いだ円爾も栄西に負けず劣らない(かもしれない)。

かれは日本に帰国する際まず博多に上陸した。そして大宰少弐・武藤資頼(太宰府に墓が残る。)に依頼され承天寺を創建した。いまも博多区に伽藍が残る。

承天寺には宝満山の麓にも別院が存在する。宝満山に登り、うさぎ道を竈門神社方面へおりる。内山城跡をみて、すこしくだると右手に山門がある。

円爾は、その後上洛して、東福寺を開山した。その後も、円爾と師の無準との交流は途絶えることなく、手紙や書などの交流を欠かさなかった。いまもむかしも変わらぬ、仰げば尊し我が師の恩・・。

などなど学ぶことができた。

2023年12月14日木曜日

セイレンに誘惑されたい@スタバ

 
京都駅ビルでみかけたスタバのロゴマーク

『ユリシーズ』第2巻目次  

 スタバのロゴマーク。セイレンをデザインしたものと、最近知った。そういわれれば、そうだ。

セイレン。古代ギリシア神話に登場する海の怪物。人魚のような半人半魚の姿。美しい歌声で船人を惑わし、船を座礁させる。救急車などに使われるサイレンの語源である。

英雄オデュッセウスは、トロイア戦争を勝利に導いた。戦後、ギリシアへ帰還する航海の途中、セイレンのいる難所を通過しなければならなかった。

耳栓をすれば難を逃れられるが、人を虜にするという美しい歌も聴いてみたい。知恵者オデュッセウスは、他の船員には耳栓をさせ、自分だけ帆柱に縄でしばりつけさせて、セイレンの歌を聴いた。歌を聴いた結果、「縄を解け!」「セイレンのところへ行かせろ!」と大騒ぎになったことはいうまでもない(『オデュッセイア』)。

20世紀最大の小説といわれる『ユリシーズ』。ユリシーズはオデュッセウスの英語読みである。『オデュッセイア』を下敷きにしているから、11章には「セイレン」の話が出てくる。

舞台はオーモンド・ホテルのバー。ブロンズとゴールドの二人の女給がセイレンに擬され、男たちがその魅力に惑わされる設定である。しかし、そこはジョイスであるから、男衆もそう簡単に挫傷しない。

スタバのロゴは、もちろんセイレンの伝説を踏まえている。珈琲の香りで道行く人たちを誘惑するため、セイレンを採用したらしい。

これまでスタバにこだわりはなかった。が、この話を知った以上、その誘惑に乗って挫傷することが多くなりそうだ。耳栓ならともかく、鼻栓はかっこ悪いし。

2023年12月13日水曜日

最近解決した遺産分割調停事件5件

 

 ここのところ遺産分割調停事件がつづけざまに5件解決した。

遺産分割事件は、相続人の数・親疎と遺産の内容によって難しさが決まる。相続人の数が増えれば増えるほど、相続人どうしが親しくなければないほど困難さは増す。ときには数次相続など、被相続人が複数いらっしゃる場合もある。遺産の内容が現金だけであれば分割しやすいし、不動産だけであれば分割が困難だ。

1件目。相続人は伯母と姪2人、福岡と関東であまり交流はなかった。福岡の伯母から依頼を受けた。遺産は比較的広い土地がひとつだけ。現物分割といって、不動産を2筆に分割した。問題は分割の仕方である。相手は2等分を要求し、当方は広い道に接しているほうを狭くする案を提案した。交渉が決裂したので、調停を申し立てた。結局、当方の案が通った。

2件目・3件目。被相続人がお二人。相続人は共有している方々とそうでない方々に分かれた。どちらもめぼしい遺産は不動産のみ。これらも交渉で解決できず、調停となった。遺産を売却して、代金から経費を差し引き、残ったお金を分配した(換価分割)。争いになったのは経費のなかみ。不動産を売却するのだから、建物解体費、残置動産(家財道具)の処分費用、測量費、譲渡所得税・市県民税・税理士費用、登記費用はOKとなったが、弁護士費用はダメとおっしゃるかたがいたのでその方の分だけ控除できなかった。

4件目。相続人は5人。被相続人と懇意にしていた方が当職の依頼人。遺産は主に不動産。相続開始後、近所のクレームを受け、不動産の管理費を支出されていた。これも調停に。他の相続人は、4人のうち、1人は成年後見人が、1人は未成年後見人がついておられた。さらに1人は東京の方で、一度も出席されなかった。難しかったのは後見人の先生方。不動産を売却して分配しようとしたが、経費についてうるさく注文をつけ、代償金による解決を要求した(代償金分割)。依頼人の了解を得て、なんとか解決することができた。

5件目。相続人は妻、子二人。子の一人から依頼を受けた。交渉で解決せず、遠方の家庭裁判所に調停を申し立てた。遺産は主に不動産。不動産の価格が主な争点となった。遠方の不動産ゆえ、時価の把握が困難だった。また相手方から、新民法で新たに創設された配偶者居住権の主張がなされた。協議を重ねるうち、相手の譲歩を引き出すことができ、無事解決することができた。

福岡市や筑紫地区は不動産市場がひきしまっていて、売りに出せばすぐに買い手がつく。そして比較的高値で売れることが多い。そうでない場合に比べて、遺産分割事件を解決しやすい。現金は分割しやすい。不動産は分割しにくい。売買できれば不動産が現金に変わるわけだから、遺産分割が容易になる。

しかし逆に困難になる場合がある。未解決な事件はそんなケースだ。現物分割や換価分割ができればよい。しかし代償金分割となると、不動産の評価があまりに高いと代償金が用意できなくなってしまうからだ。このため、ある事件がいまだ解決できず調停がつづいている。解決できた暁にはまた報告したい。

2023年12月12日火曜日

機械の利用料を請求されたある事件(勝訴的和解)

 

 山行記・旅行記ばかり書いているが、事件もちゃんと解決している。きょうは機械利用料を請求されたある事件について報告しよう。

ある組合員、Aさんとしよう。Aさんはある機械利用組合から機械の利用料を支払えと訴えられた。その額は約800万円である。当職はAさんから依頼を受けた。

請求にかかる機械についてAさんは一切利用していない。したがって、そのような利用料は1円も支払う義務がないと争った(これだけではなんのことやら分からない。組合は全組合員に利用義務があることを前提としていた。)。

むこうには弁護士が2名ついていて、弁護士の数だけでいえば、劣勢である。

機械利用組合というのは、農業の集団化・合理化のため行政主導で設立されたものである。農業に使う機械を個人で購入・所有するのはムダも多いので、組合で購入・所有し、みんなで利用しようという目的である。

組合の請求根拠は当初、組合規約に基づくとのことだった。しかし、規約を熟読するも、どこにもそのようなことは書いていない。

そのように指摘すると、今度は組合設立時にそのような黙示の合意がなされたと請求の根拠を変更した。

その証拠の存否を尋ねると、それを明記した規約も議事録も契約書も存在しないという。情況証拠の積み重ねで当該合意の存在を推認できるという。

組合員に対し800万円もの大金を請求する裁判を提起しながら、その根拠は情況証拠の組合せであるという。むちゃだ。

そのように反論するも、組合側もなかなかあきらめない。結局、証人尋問がおこなわれた。いまどき珍しい。本格的な証人尋問はコロナ後、初ではなかろうか。

尋問終了後、裁判長から心証開示があった。当方の勝ちだという。組合側はそれでもあきらめなかった。往生際が悪い。

最終準備書面を提出することになった。心証開示の結果からすれば手を抜いてもよかったが、心血を注いで説得力のある自信作を完成させた。21頁の大作だ。

双方、最終準備書面を提出し、結審。判決日の予告がなされた。

・・・それから数日経って、山を歩いていると、組合側の弁護士から電話があった。和解したいという。最終準備書面の説得力のなせる技であろうか。その旨Aさんに連絡をしたところ、和解するとの了承を得た。

和解内容は、もちろんこちら側の全面勝訴である。めでたし、めでたし。

2023年12月11日月曜日

マジカルミステリーツアー(4)

 



 最終日はまたまた強風雨となった。さてどうしよう。やはり芭蕉の足跡をたどろうか。そうだ、甲冑堂へ行こう!だが、甲冑堂は『おくのほそ道』にはでてこない。なぜか。

実は芭蕉の足跡には2種類ある。一つはもちろん『おくのほそ道』に記された足跡である。もう一つは芭蕉に随行した曽良が書いた『曽良旅日記』に記された足跡である。

『曽良旅日記』は長らく行方がしれなかった。それが1943年(昭和18年)に再発見された。その後、重要文化財となっている。

2人旅であるから、両者の足跡は一致しているはず。だが、実は一致していないところがある。どちらの記載が実際の足跡だろうか。

刑事訴訟では、反対尋問を経ない証拠は、いわゆる伝聞証拠であるとして受け入れられない。しかし、いくつかの例外がある。その一つ。商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程にいて作成された書面は、例外とされている。

『曽良旅日記』は、その内容・体裁からここでいう航海日誌に近いものである。それゆえ、実際の足跡どおり忠実に記載がなされているものと思われる(曽良が幕府の隠密であり、そうとはかぎらないという点は別論である。)。

そこから、『おくのほそ道』の創作性が明らかとなった。『おくのほそ道』を読むと、一見、紀行文ふうに書かれているので、それまではみな、実際の足跡に忠実に書かれていると思い込んでいた。

ところが、実際の足跡により忠実な『曽良旅日記』が発見され、それと比較することが可能となった。その結果、『おくのほそ道』が創作物であること、すなわちその「文学」性が明らかとなったのである。

両者が一致しないところの一つが飯塚の里と笠島のくだり。まず、『おくのほそ道』。

(飯塚)
 ・・・またからはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。

(鐙摺・白石)
 鐙摺・白石の白を過ぎ、・・・。

つぎに、『曽良旅日記』。

(飯塚)
・・・佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門へ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。・・・

(鐙摺・白石)
・・・万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコハシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

現地に行けば、どちらが実物に即しているかは明白。いまでも『曽良旅日記』に書かれたとおりである。『おくのほそ道』は現地の実情に即してはいない。

飯塚の里は、佐藤庄司が治めていた。かれは奥州藤原氏の被官である。源頼朝に攻められて、奥州藤原氏とともに滅亡した。

かれの息子2人が次信と忠信である。ふたりとも源義経の忠臣であり、『平家物語』をはじめ、歌舞伎でも活躍する。

「ふたりの嫁」は次信と忠信の嫁のこと。次信と忠信の無事な帰還をまちわびる義母(つまり佐藤庄司の妻)のため、甲冑を着て無事の帰還を演じ義母を慰めたという。

飯塚の里に医王寺がある。医王寺には佐藤庄司夫婦の石塔や兄弟の石塔はあるけれど、「ふたりの嫁のしるし」は存在しない。

「ふたりの嫁のしるし」があったのは、鐙壊し(鐙摺)の先にある甲冑堂である。芭蕉は両者を融合させ、文章を引き締めたものと思われる。

こうして甲冑堂は『おくのほそ道』にそれとして記述されなかったが、そこで「ふたりの嫁のしるし」は拝見することができる。

・・・ことになっている。この日、甲冑堂を訪れたところ、強風雨のため閉鎖されていた。しかしあきらめきれない。

強風雨のなか、JR越河駅から道に迷いつつ、歩いてようやくここまで辿り着いたのである。

神主さんのご自宅を訪ね、玄関で声をかけた。80歳くらいの年輩のご夫人があらわれた。きょうは強風雨のため、甲冑堂の開張はできないという。

そこをなんとか、福岡から来たんです!と食い下がったところ、ご夫人は義経のこと、芭蕉のこと、甲冑堂のこと、これまで訪ねてきた客のこと、維持管理がたいへんなこと、行政が冷たいことなど延々と30分以上語りに語った。

こっ、これはいかん。ご開張に代えて、その埋め合わせに「語り」で済ませるおつもりではあるまいか。それはそれでとても面白い「語り」ではあったが、それでは証拠写真がとれないではないか。

玄関先をみると、お守りや甲冑堂の来歴をしらせる資料等が販売されていた。これください!ついでに拝観料もお支払いします!

これにご夫人は負けたという表情を浮かべられた。やった!かくて甲冑堂前のたたかいに勝利し、ふたりの嫁に対面することがかなったのであった。めでたし、めでたし。

2023年12月8日金曜日

マジカルミステリーツアー(3)

 





 赤倉温泉駅から陸羽東線を古川に戻る。そこから東北新幹線で盛岡へ向かう。列車は全席指定のはやぶさだ。なんと1両貸切。他に客はいない。これも山の神のご接待か。恐れ多い。

北上駅あたりから東をのぞむ。あのあたりが遠野だろうか、早池峰山だろうか。まもなく新花巻を通過。時間があれば訪ねたいところだ。最近でいえば早池峰山に登ったときに訪ねたきりだ。それでももう10年以上前になる。

盛岡でおり、ホテルに向かう。北上川にかかる開運橋を渡る。北を見ると、岩手山が美しい姿をみせていた。西側に雲がすこしかかっているので、上空は風が強そう。でもこれなら、明日は登れそうだ。開運橋は開雲橋。

岩手山の美しい姿をみると、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」(2007年)を思い出す。比嘉愛未が旅館の若女将を好演した。旅館の格式と奮闘しながら成長し、民話との運命的な再会を果たす。その不思議な魅力に、まわりは彼女に開運の座敷童(ざしきわらし)を幻視する。

ドラマ制作のねらいは、目に見えるものしか価値をもたなくなった現代人に欠けている「見えないものを信じる勇気と力」を描こうとしたとされる。

『星の王子さま』や『ロード・オブ・ザ・リング』を共通するテーマ。『遠野物語』の遠野があり、『銀河鉄道の夜』などを書いた宮沢賢治の拠点であった岩手を舞台としたことで、テーマを効果的に描くことができた。欠かさず見た記憶だ。もちろん、オーディションで選ばれた比嘉愛未の可愛いさにハートを打ち抜かれたせいもあったが。

翌日は岩手山に登った。標高2038メートルの百名山。宮沢賢治も中学時代から登り、30回以上は登ったという。ぼくは13年ほどまえに1度、今回が2度目である。以前は迫田弁護士夫婦、石井弁護士の4人で登った。宿で握ってもらった秋田こまちのおにぎりの味が絶品だった思い出がある。

岩手山は、どこよりも地元の人たちに愛されている山だ。東北なまりが行き交い、雰囲気があたたかい。若者から高齢者まで。70歳、80歳とお見受けするおじいさん、おばあさんがたくさん登られている。あの年齢で、足は、腰はだいじょうぶか?といらぬ心配をしてしまう。

70歳、80歳のかたがたに混じって最初は余裕だったが、くだりではそうとうバテてしまた。それもそのはず、この日の万歩計は37,000歩を歩いたと告げていた。平地ならともかく、その半分は登りである。バテたはずだ。

2023年12月7日木曜日

マジカルミステリーツアー(2)

 

 翌朝目が覚めた。深夜に目覚めることもなく、うなされることもなく、座敷わらしに会うこともなく、神隠しにあうこともなく。朝の光のなか、さっそく一風呂浴びた。さっぱりした。贅沢。食堂はやはり一人。昨夜の嵐はややおさまっている。

鳴子御殿湯駅まで歩いてJR陸羽東線に乗る。鳴子温泉駅で下車。鳴子峡まで歩くが、紅葉はまだまだ(10月上旬ゆえ)。

駅に戻り、陸羽東線を東へ向かう。途中、堺田という駅がある。駅をおりれば芭蕉が泊まった封人の家がある。

 ・・・やうやう(あれ?パソコンが固まって動かなくなった。しばらくして回復。)として関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もと(のみしらみうまのばりするまくらもと)

さらにJRでいくと赤倉温泉駅がある。そこからおくのほそ道の旅の最大の難所、山刀伐峠(なたぎりとうげ)をめざす。名前だけでも恐ろしい。

時間の関係で、登山口までタクシーを利用し、そこから峠まで往復する計画だった。10分ほどしてずんぐりした体格の青年の運転するタクシーがやってきた。おくのほそ道の記述が頭をよぎる。

 あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究きょうの若者、反脇指(そりわきざし)を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。

青年運転手によると、山刀伐峠は登山口から峠までを往復しても悪くないが、やはり尾花沢まで抜けたほうがいいという。しかもタクシー代は登山口までの往復料金にまけてくれるという。

青年の好意に甘えて、そうすることにした。登山口ではスマホで写メを撮ってくれた。そうしていると、驟雨がやってきた。

クマがでるという。運転手はクマ脅しの道具を貸してくれた。残念ながら、おくのほそ道の旅のように、道案内まではしてくれないらしい。

おくのほそ道の記述にたがわず、深山幽谷、樹齢数百年と思われるブナの美林がつづいていた。そこを九十九折りに登っていく。深閑としている。かすかな異音にクマではないかと怯える。他に誰も人はいない。

・・・あるじのいふにたがわず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。

ようよう峠についた。やはり人はいない。東屋のほか、子持ち杉、子持ち地蔵尊が祭られている。温泉街で買った弁当、それとミカンを食す。鳴子温泉で買ったのに、ミカンは熊本県産である。くまモンのマークがついている。

食べ物のにおいにクマが寄ってくるといけないので、そそくさと食べ終わる。一服することもなく、尾花沢(最上)側へ降りていく。・・・そろそろ山の中腹かと思うころ、驚いて跳ね飛んだ。人生で最長不倒距離を跳んだ。

なんと、300キロはあろうかという成獣のクマが昼寝していた。クマが寝るのであれば、うつ伏せであろうが、仰向けに寝ていた。まるでくまモンのイラストのよう。死んでいたのかもしれない。慌てて逃げ出したので、生死の確認はできなかった。

転がるようにして坂を駆け下りた。タクシーとの待合せ場所についた。ひゃーたすかった。芭蕉の記述以上に怖い思いをした。ふうー。

・・・雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまいゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさえ、胸とどろくのみなり。

あのクマは山の神だったのだろうか。この日、カメラの不具合で写真は一枚も撮れていなかった。登山口で青年運転手が撮ってくれた写メだけが手もとに残った。なんと、芭蕉の句を入れ、写真立てに入れてプレゼントしてくれた。

それにしても息もとまりそうな、不思議な体験だった。

2023年12月6日水曜日

マジカルミステリーツアー(1)

 



 異様な旅だったので、これまでどうしようか迷っていたが、概要だけでも書き留めておこうと思う。

ときは10月の連休。あの『遠野物語』の舞台となった遠野を東にのぞみながら、宮城北部から岩手に至る旅だった。遠野に天狗、河童、座敷童などの妖怪がいて、神隠しが存在するのであれば、これら地域にそれらが存在してもおかしくない。

当初は、森吉山、和賀岳、秋田駒ヶ岳という秋田の二百名山をめぐる旅を計画していた。しかし、数日前の天気予報で、予定日はいずれも強い寒気と強風が吹き荒れることが予想されていた。

実際、これらの日々に登山を強行されたかたがたのなかからは、低体温症で亡くなられたかたも少なくなかった。このことは以前にも書いた。

ぼくは登山をあきらめて、芭蕉のおくのほそ道の旅をたどることにした。おくのほそ道の旅は80%くらいはたどることができていた。残るは数カ所。

なかでも難所は、尿前(しとまえ)の関から山刀伐(なたぎり)峠を越えて尾花沢までのルートだ。芭蕉も苦労したらしい。おくのほそ道きっての難ルートだ。

連休の直前になっての転針であるから宿の確保ができるか心配した。が、なぜか、鳴子温泉のある旅館を予約することができた。そのときは、予約できたことに安心してそれ以上の探索をやめてしまった。

当日は予報どおり風が強く、飛行機はなんとか仙台空港に着陸できたものの、そこから先の在来線、新幹線は乱れに乱れていた。

新幹線の古河駅から海側へ向かう路線は強風のため運休していた。しかし山側へ向かう路線は遅れながらも運行していた。途中、岩出山など、おくのほそ道で馴染みの地名などがある。

鳴子温泉駅でおり、尿前の関まで歩いた。ふるくは陸奥・出羽の境であった。そのため怪しい人の出入りを厳しくチェックする関があった。

 南部道遙かに見やりて、岩出の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて・・・。

日も暮れてきたので、あわてて宿に向かう。帳場で宿泊手続を行った。湯の種類は4種あり、温泉好きにはたまらないようだ。

部屋に案内された。・・・。唖然。壁がボロボロだ。誰かが凹ましたままになっている。寂れているなぁ。

まぁいい。温泉さえよければ。・・・。呆然。河童でもでそうで怖い。そさくさと湯につかる。

風呂のあとは夕食。食堂にむかう。・・・。なんと宿泊客はぼく一人のようだ。背筋がゾクゾクする。

部屋に戻る。風雨で、窓がガタガタとなっている。窓枠が外れそうだが、だいじょうぶだろうか。

あらためて検索していみる。その旅館の名前を入力すると、予測変換の文字が。なんと「恐怖」とか「怖い」とか。ぞーっ。

そのとき。タカタカタカ・・・。窓の外を、なにものかが走り抜けた音がした。あわててカーテンをどけて窓の外を見分する。漆黒の闇に、樹木の枝葉が揺れ、雨が窓ガラスを打っている。窓の外は切れ落ちていて、なにものかが通れる余地はない。

なんだったのだろう?天狗か妖怪か?ネコだったと信じたい。今夜、眠れるだろうか?心配しながら、すこし湿気った布団に入る。

2023年12月1日金曜日

U弁護士の事件簿①-黒百合事件

 
 
 わが事務所にはオンラインのスケジュールボードがある。7人の弁護士、9人の事務局の予定が一覧できるようになっている。

これにより、各弁護士のスケジュール管理、事務所会議、弁護士会議、事務局会議、共同受任事件など複数弁護士・事務局の日程調整や新規相談の担当決めなどを行っている。便利だ。

本日をみると、顧客との相談や打合せのほか、U弁護士が破産債権者集会、TN弁護士が精神保健審査会、TM弁護士があいゆう電話相談、M弁護士が芝居の稽古などで外出することがわかる。

TN弁護士らのボードにはアスベスト訴訟、TM弁護士のボードにはHPV訴訟や結婚の自由訴訟などの用事が書き込まれていることが多い。

かように、ボードには相談者・依頼者の名前や、事件名、参加する団体・行事名などが多様に記載されている。

忘れるといけないから、公的な行事だけでなく、私的なイベントも書き込んでいる。つまり、プライベートもある程度、事務所内では筒抜けである。

そんなある日。U弁護士のスケジュール欄に、12月1日9時から「黒百合」と書き込みがなされた。黒百合?黒百合様だろうか、黒百合事件だろうか?

なにか不穏なにおいがする。黒歴史とか黒執事とかに連なる。花言葉には呪いというのがある。あまりよい印象ではない。

秘書さんたちの間ではさまざまな憶測が流れた。あれはU弁護士がおつきあいしている女性の名前かもしれない。きっと悪い女にちがいない。・・

きのう夕方、そうした憶測がふくらんで頂点に達した。そしてついに、真相があかされた。「ああ、あれ? あれは山小屋の名前。」。えーっ。

黒百合は岳人の間で人気の高山植物である。他の高山植物のように、どこででも出会えるというものではない。希少価値が高いのである。

ここで「黒百合」というのは、八ヶ岳にある黒百合ヒュッテという山小屋の名前である。天狗岳の北側稜線沿いにある。八ヶ岳を縦走する際、便利な小屋である。

https://www.yamatan.net/hut/kuroyurihutte

U弁護士はその小屋での年越しを計画していた。新年を雪山で迎え、初日の出を雪の稜線で拝したいと。

コロナ禍以降、山小屋は予約が必要である。その予約は1か月前からでないと、受け付けられない。その予約をするのを忘れないよう、12月1日9時の蘭に「黒百合」と書いておいたのである。

・・・けさ7時20分、ネット予約をすべく小屋の空き状況を確認した。すると、なんともう満室。

https://www.yamatan.net/hut/kuroyurihutte/plan?year=2023&month=12

うぐっ。岳人が考えることはみな同じ。しかも朝が早い。行動が早い。しかたがない、プランBを考えないといけない。

かくてきょうもU弁護士の孤独なたたかいは続くのだった(「孤独のグルメ」を踏まえて)。

                                   (つづく)