勝っていました。もとい、買っていました。
わたくしの歳時記は、角川書店編の『俳句歳時記』です。
歳時記は、季節ごと、テーマ(時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物)ごとに、季語をかかげ、それについて解説し、例句を紹介するものです。
俳句には季語が必要であると言われます。無季の俳句といって季語をいれなくてもよいという考えの人もいますが、おおくは季語が必要という考えです。
季語が必要であることは、季語とは何かを理解すればわかります。季語は縦・横・前後の3次元につらなる言葉とイメージのネットワークの核です。
たとえば「梅」。
そもそも俳句は写生がよいとされているので、眼前に梅があるほうがベター、それをよく観察すると、美しい、可憐、春まだ寒い、メジロがいる、庭に凛と咲いている、曲水の宴でみんな愛でているなどの情景が存在しイメージが喚起されます。
さらに、眼前の情景から記憶が引き出されて、過去に観た梅の記憶やイメージが喚起されます。また自分だけでなく、他の人々と共有できるイメージなども喚起されます。ここまでは歳時記の助けがなくても、誰にでもできることです。ここまでを前後のネットワークとしましょう。
ここから先の深掘りが歳時記の役割です。歳時記を開きます。
「春」という季節の「植物」というテーマの季語です。当たり前ではないかと思われるかもしれませんが、それは「梅」を例にしたから。季語のなかには、季語なのかどうか、いつの季節なのか、いったい何のテーマなのか分からないものがいっぱいあります。そういうときに、季節とテーマによる分類が役に立ちます。
まず、あらためて梅とは何か、その確認。「中国原産のバラ科の落葉花木。早春、百花にさきがけて咲き、芳香を放つ。桜より古くから親しまれ、万葉の時代には花といえば梅だった。各地に観梅の名所がある。」これにより、そうか中国原産か、バラ科か、落葉するんだよな、早春だよね、百花にさきがけ、まさに!とか、いろいろとあらたな感想・感慨が浮かびます。
このなかで季語の特性を端的に示す部分は、「桜より古くから親しまれ、万葉の時代には花といえば梅だった」という部分。季語は、日本の文芸の大河の流れのなかにあります。その大河の水源は何かといえば万葉集。梅は万葉集の時代から多くの日本人により愛でられ、詠まれてきたということです。
「梅」という季語をみて、万葉の時代から延々と詠まれたり、書かれたりしてきたすべての文芸が思い浮かぶというのが本当の鑑賞。すぐれた俳人、すぐれた観賞においては、全部といわないまでも、名だたる名歌、名句はすべて思い浮かべています。
5・7・5の17文字のうちウメという2文字を使うだけで、それだけの情景や心情を表現したことになります。ヒトとかモノとか他の2文字に比べて季語の利用が圧倒的に有利なことが分かります。これが縦のネットワークです。
さらに歳時記をながめると、春の部には、時候として春、立春、啓蟄・・・、天文として春の空、春の日、春の雲、春の虹、春夕焼・・・地理として春の山、山笑う、春の野、春の水、水温む・・・、生活として入学、卒業、遠足、花衣、春の服・・・、行事として花見、春休み、初午、針供養、雛祭・・・、動物として春の馬、猫の恋、子猫、亀鳴く、蝌蚪・・・、植物として椿、桜、花、辛夷、沈丁花・・・が紹介されています。
「梅」という季語をみて、すぐれた俳人、すぐれた観賞においては、これらほとんどの季語が頭のなかに充満しています。あるいは、錦のように織りなされており、あるいは、蝶のように乱舞しています。これが横のネットワークです。17文字で自分の感動を人に伝える際に、これら縦・横の豊なイメージを利用しない手はないでしょう。
さらに、例句が紹介されています。
百歳を越える酒蔵梅ひらく 手塚美佐
紅梅や病臥に果つる二十代 古賀まり子
白梅や父に未完の日暮あり 櫂未知子
すぐれた俳人、すぐれた鑑賞者は、これら先行する秀句をほぼすべて思い浮かべています。なんと豊かな世界が広がっていることでしょう。
われわれ初学者は、なかなかこのような域には達しません。その1パーセント未満というところでしょうか。でも歳時記を見たことがないときに比べ、なんと豊かな世界の存在を知ったことか。
さて、ここまで歳時記を読んだら、再度、眼前の梅を観てください。
最初に見たときより美しく、深く豊かな世界が広がっているはずです。