曾良は腹を病みて、伊勢の長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、
行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良
と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の恨み、隻鳧の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、
今日よりや書付消さん笠の露
江戸からずっと芭蕉の秘書役をつとめてきた曾良は金沢あたりから体調不良、なんとかここまで来ましたが、これ以上旅をつづけることが困難に。やむなく親族のもとで療養することに決め、先に帰ることになりました。
曾良の無念、芭蕉の心細さが痛いほど。起承転結、別れのテーマのエピソード3は、いままで比較にならないくらいツライ別れです。金沢あたりからしきりと秋風が吹いていましたが、ここにきて身にしみます。
曾良の行き行きての句は、西行の歌を踏まえています。
いづくにか眠り眠りてたふれふさん と思ふ悲しき道芝の露
「隻鳧の別れ」は、李陵と蘇武の別れを踏まえています。平家物語の巻第二の最後に「蘇武」の章があります。むしろ中島敦の『李陵』のほうが読まれているかもしれませんね。違いは後者に司馬遷の人生がからんでくることです。
項羽と劉邦の戦いののち、劉邦が漢を建国します。その7代目が武帝で、前漢の最盛期を迎えます。名前のとおり、宿敵である匈奴への外征を繰り返しました。
李陵も、蘇武も外征を命じられた将軍です。李陵は、自分の判断とははなれたことから匈奴に捕まります。しかし自身で投降したと誤って伝えられ、武帝の怒りをかい親族を殺されてしまいます。その落胆や怒りのため、李陵は匈奴に協力するようになります。
他方、蘇武は、辛酸をなめ李陵が説得するも最後まで節をまげません。そして雁に手紙を託したメッセージが故国に伝わり、晴れて帰国することがかなったのでした。
李陵と蘇武、人生の選択がわかれましたが、どちらも苦難の人生でした。匈奴の捕虜として同じ境遇にあり、彼らの間には友情がありました。しかし、運命は二人を引き裂き、蘇武だけ帰国することになったのでした。
鳧はケリという鳥で、チドリの仲間です。隻鳧は一羽のケリということですから、隻鳧の別れは、李陵と蘇武の別れを指す言葉です。
司馬遷がどうからむのか。李陵が捕まった際、武帝の癇癪をおそれて皆、追従したのですが、ひとり司馬遷は李陵をかばう論陣をはりました。案の定、武帝の怒りをかい、司馬遷は屈辱的な宮刑に処せられたのでした。
われわれが現在、いまのような『史記』を読めるのは、この宮刑による屈辱をバネにした司馬遷の不屈の精神によるものです。
平家物語になぜ「蘇武」の話がでてくるのか。歌舞伎や能の『俊寛』をご存知でしょうか。おごれる平家を打倒しようとして鹿ケ谷の陰謀がはからます。
しかしあえなく発覚。陰謀に加担した俊寛のほか、藤原成経と平康頼は、九州の南方にある鬼界ガ島に流されました。
俊寛は僧でありながら信心深くありませんでした。他方、康頼らは信心深く神仏に祈り、千本の卒塔婆に自分たちの名前や歌を書きつけて海に流しました。歌は、
薩摩方おきの小鳥にわれありと親には告げよ八重の潮風
思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを
なんとこの卒塔婆のことは流れ流れて都まで伝えられることなり、康頼らは恩赦により帰京を許されたのでした。これが雁に手紙を託して帰国を許された蘇武のエピソードと重なることから、平家物語に「蘇武」がでてきます。
他方、恩赦の文書をなんど読み直しても俊寛の名はなく、追いすがる彼を島に残して舟は行ってしまったのでした。信心うすい彼のせいとはいえ、一人島に残されることとなった、その悲劇が歌舞伎や能を観る現代人にもじーんと来るのでした。
隻鳧の別れの解説に時間をとられました。先を急ぎましょう。
芭蕉が消した書付は「同行二人」という文字です。よく四国のお遍路さんが笠に書いていますね。あれは弘法大師と二人という意味ですが、ここでは芭蕉と曾良の二人という意味に転じて使われています。季語は露。
われわれも秘書さんがお休みの日はとても心細い。長旅の途中である芭蕉の心細さはよくわかります。わが事務所は比較的人の異動がすくない職場ですが、それでも今年度は大きな異動が見込まれています。これもまた不安だし心配です。
私事ですが、イタリアに転勤を命じられている二女夫婦に今春子どもができ、里帰り出産しました。その名も蒼空。ここのところマゴマゴ生活をエンジョイしていました。
が、彼らは昨夕の飛行機でイタリアに戻っていきました。コロナ禍のなかイタリアに戻ることも心配ですし、まだ3か月の孫のことも心配。幸あれと願うばかりです。