2021年10月7日木曜日

最上川くだりーおくのほそ道拾遺①

 




 本年3月26日から9月1日まで『おくのほそ道』を連載した。慧眼な読者はお気づきだと思うが、筆者もすべての土地に行ったことがあるわけではない。6割ぐらいか。だいたい写真を見れば行ったことがあるかどうか分かると思う。

書きながら、行ったことないけどなぁと思っていた。誰かから「そこは違うよ」と言われるのではないかと、ビクビクものだった(笑)。

今般、白神岳、鳥海山を登るため、青森、秋田から山形にかけて移動したので、例によってすき間の時間に芭蕉の足跡も訪れた。時系列でいうと象潟、酒田、最上川くだり、鶴岡だが、芭蕉が訪れた順に再構成してお伝えしたい。

まずは最上川くだり。最上川は日本三大急流の一つ。球磨川、富士川と並ぶ。芭蕉一行は、尾花沢・大石田から最上川を舟でくだって出羽三山へむかった。そのくだりである。

これまでに陸羽西線に乗り、余目から新庄まで行ったことはあった。車窓から左手にずっと最上川が流れていた。尾花沢に行き、大石田で最上川を渡ったこともあった。しかし、最上川を舟でくだったことはなかった。今回、初挑戦である。

芭蕉の当時、新庄(本合海)から清川まで、もちろん鉄道はなく、道もなかった。移動は最上川の舟運によるしかなかった。その感動が名句を生み出した。

現代、本合海から清川まで一連の舟運はなく、観光クルーズが上流、中流、下流の3つに分かれている。今回はネットで一番人気の中流の「最上川芭蕉ライン船下り」を選択してみた。

酒田の駅から余目で乗り換え、陸羽西線を新庄方面へ向かう。清川駅のてまえあたりからは左手に最上川が見えている。古口駅で降りて、10分ほど上流へむけて歩くと、乗船場。むかしの番所が再現されている。

ふつうであれば、ここから清川まで1時間で下る。しかしこの日は残念ながら下流で風が強く水量が不足して操船がむずかしいという理由でくだれず、周回することに。残念、しかし雰囲気を味わうことはできた。

船頭さんの語り口が達者で軽妙だ。小1時間、乗客を飽きさせない。クルーズ会社の興隆の歴史をおもしろおかしく語ったり、おくのほそ道を暗唱してみせたり、民謡を唄ったり。

4つ目の写真は「おしん」のロケ地。親子別れの感動のシーン。昭和58年1月というから、ぼくは司法試験に合格して後輩の指導にあったていたころ。記憶はうすいが、回想シーンなどでなんとなく見たような気がする。

舟会社もNHKに1週間、全面的に協力したらしい。その間、リアルさを追求するということで、実際の船頭さんも1週間撮影につきあわされたらしい。その結果、やく2秒船頭が映っただけで、しかも顔は見えなかったらしいが(船頭さんの語り口だともっと面白い)。

ほっておかれれば、田舎の川にすぎなかった最上川が、芭蕉とおしんの2大スターにより日本中に知れ渡ったらしい。そしてクルーズ会社に「莫大な」利益をもたらしたらしい。芭蕉さま、おしんさまさまらしい。かくて、帰りは2人のスターになりきり、映え?写真を撮ることができる。

2021年10月6日水曜日

鳥海山登山記(2)


  鉾立にある象潟口登山口を出発し、賽の河原を経て、2時間登ると御浜小屋に着く。小屋裏から西を望むと、鳥海湖がある。深いブルーに輝いている。その奥には月山が遠く裾野をひろげている。西側には庄内平野が広がっている。ちょうど稲穂が垂れ、黄金色に波打っている。その右手は日本海だ。

 この一望で、日本海から冬の季節風が月山と鳥海山に大量の雪を降らせ、その雪解け水が川や伏流水となって庄内平野をうるおし、それがおいしい米を育てていることが分かる。庄内平野の右手前が酒田の町だ。酒田は庄内米を上方に運び、廻船問屋が繁盛した。


 御浜小屋から、扇子森を経て、八丁坂を登り、七五三掛まで1時間余。そこから右手の外輪山コースと左手の千蛇谷コースにわかれる。千蛇谷にいったん下る。雪渓をわたると、あとは山頂手前の大物忌神社まで1時間20分の登りである。中央のギザギザが山頂。山頂部までなだらかな稜線が美しい。紅葉まであとすこし。右上に見えているのは外輪山である。

 大物忌神社で休憩。
 大きな岩がゴロゴロ積み重なるなか、両足両腕を総動員して30分登ると、新山山頂である。2236メートル、東北第2位の高峰だ。雲海のうえに突き出て、まるでナウシカかラピュタな景色が爽快だ。新山は1801年の噴火の際、隆起したもの。火山の歴史からすれば新しく、まだ岩だらけだ。「北アルプスの岩稜よりすごい!」と、登頂した人たちが興奮している。


 新山登頂後は、大物忌神社まで引き返して昼食。そして神社の裏にまわって、外輪山の急坂を登る。きょう最後の登りだ。
 外輪山の稜線からは、東のほう、岩手の山々がのぞめるはずだが、きょうはどこまでもつづく雲海におおわれている。それもまた気持ちがいい。


 外輪山を時計回りに周回する。20分ほどで伏拝岳に達する。いま登ってきたばかりの地元のご夫婦が絶景に歓喜している。独り占めもいいが、感動は共有するとより大きくなる。

 名残りおしいが、ここから川原宿・湯ノ台方面に下山だ。固有種であるチョウカイアザミが咲くことから名付けられた薊坂をぐんぐん下る。心字雪渓を下る必要はなかった。1時間15分で、ようやく河原宿。さらに湯ノ台道を下る。こんなに長い坂だったか。7年前の記憶と照合するが、うまくあわない。30分ほどで下山口の滝の小屋到着。ふう。

 すばらしい一日だった。
 写真では100分の1の爽快さも伝わらないかもしれないが、イメージをひろげてくだされ。

2021年10月5日火曜日

鳥海山登山記(1)

 

 白神岳登山口から五能線を戻り、東能代、秋田で乗り換えて、象潟に泊まった。

ここでもコンビニまで片道20分以上も歩かなければならなかった。コンビニエンスな生活に馴らされてしまって、こういう環境にさえ不便を感じる。もはや山中にこもっての修行など到底かなわない。

 翌日は鳥海山をめざした。ここまで来て、白神岳だけに登って帰るのはいかにももったいないから。

鳥海山は秋田と山形にまたがる日本百名山。標高2236m。日本海からすっくと立ち上がった独立峰。なだらかな稜線が美しい。出羽富士とも秋田富士とも呼ばれる。

遠目には富士山のように美しい円錐形だが、踏み入ると複雑な地形になっている。なんども噴火をくりかえした結果だ。山頂部は1801年に隆起し、いまだ大きな岩が積み重なっている状態だ。

冬に日本海からふきつけるしめった季節風が大量の雪を降らせる。そろそろ初雪が降ろうかというこの季節になっても、山腹のあちこちに雪渓が残っている。

大量の雪は迷惑なだけの存在かというと、そうでもない。恵みももたらす。春になれば雪解け水となり、川や湧水となって里を潤す。米どころ、庄内平野の米はこの水によっている。水がおいしいから米もおいしい。

酒田は江戸時代に「西の堺、東の酒田」といわれたぐらい栄えた(『日本永代蔵』)。廻船問屋が庄内米を上方に運んだからだ。米だけでなく、紅花も運んだ。

鳥海山に登るのは2回目だ。前回は7年ほど前、山形県側から登った。登山口にある滝ノ小屋に一泊。月山を下山して鶴岡から迂回したので、遅い到着だった。同宿に福島大学の労働法の先生とそのお連れ合いがいた。管理人が歌詞カードをもちだしてきて、山の唄を歌った想い出がある。

今回は逆コース、秋田県側から登り、山形県側にくだった。秋田県側の登山口も複数あるが、鉾立にある象潟口を選んだ。

鉾立の地名は九重山にもある。朽網分れから登り、白口岳と立中山の間の峠だ。むかし巻狩りをしたあとらしい。

巻狩りといえば、源頼朝がおこなった富士の巻狩りが有名だ。なぜなら、武士の軍事演習としての意味もあり、頼朝の威勢を示すため70万人が参加したともいうし、曾我兄弟の仇討ちの舞台ともなったから(『吾妻鏡』『曽我物語』)。

鉾立という場所は、サッカーのゴールのようなもの。そこに鉾を立てて、網を張っていたらしい。動物をそこに追い込んで捕まえるのである。魚の追い込み漁のようなものだ。九重や鳥海でもおなじようなことがおこなわれたのだろう。

鉾立はすでに5合目である。降り口である滝ノ小屋もおなじく五合目くらいだから楽そうだが、じつはそうでもない。コースタイムは7時間もある。稜線が長大だからだ。前日の白神岳登山の疲れものこっている。登れるだろうか。

雲ひとつない好天だ。さあ、がんばって登ろう!

2021年10月4日月曜日

白神岳登山記

 



 あこがれていた白神岳(1235m)に登った。山の名がとにかくかっこいい。白山やモンブランに比べ神装備である。

青森県と秋田県にまたがる白神山地の盟主。以前、事務所旅行で山麓を散策したことがあり、いつかは登頂したいと思っていた。

世界遺産。南の屋久島とともに日本で初めて登録された。屋久島は麓の亜熱帯から山頂部の高山帯まで植生の豊さが、白神山地はどこまでも広がるブナ林にみられる手つかずの自然が評価された。

ここより北に弘前の岩木山、さらに北には北海道の山々があるが、辺境感という点ではここが一番かもしれない。

最寄りはその名も白神岳登山口という駅。五能線のほぼ中央にある。五能とは青森県の五所川原と秋田県の能代の頭文字。同駅の近くには、手頃な宿泊施設が見当たらない。

能代にルートインがあったので、そこに前泊することにした。夜7時に駅におりたつと、駅前は真っ暗、ホテルまでは歩いて25分もあった。翌日の買い出しのため、コンビニまでさらに10分歩く必要があった。

翌朝4時30分起床、5時43分の始発に乗った。朝夕だけ4便ほどが走るローカル線だ。遅刻するとつぎは7時34分、待ち時間が半端ない。というか、この日の山行を断念せざるを得ない。ドアの開閉はボタン操作が必要、2両編成。なんと他に客はおらず貸切だった。

能代は晴れていたが北のほうがくは雨雲が蝟集していた。北から寒気が南下しているためだ。天気予報ではしだいに回復に向かうとのことだった。

列車が進むにつれ、白神山地が右手から迫ってきて、線路は日本海沿いに押しやられた。日本海の荒波が磯にうちよせ、車内まで潮騒が響いている。再雇用なのか運転手のせなかが小さく見える。

途中、サルに注意などの看板がでている。クマ除けの鈴は持参したが、サルの襲来までは予期していなかった。

白神岳登山口駅で降りる。6時39分。むろんぼくだけだ。やはり磯にちかく、波がうちつけてくる音がときおり聞こえる。とっても風情のある駅だ。標高ほぼ0メートル。

ここから山頂までの往復。標高差1235メートル、コースタイムは8時間35分。帰りの電車は15時19分発の予定。コースタイムどおりに歩いてギリギリの時間だ。これに遅れると、その次は19時58分までない。本日の宿まで行きつくことができなくなる。

線路と国道をわたると、登山口までのびる林道にとりつく。登山口までは40分の林道歩きだ。ツリガネニンジンがところどころに咲いている。

林道の終点、駐車場に着いた。車が5台だけ駐まっている。きょう山に入るのは10名前後か。みなもう出発したようだ。

歩き出すと雨が降ってきた。しばらくは傘でしのぐ。男性1名とすれ違う。さらに激しくふってきたのでレインウェアをはおる。天気予報ははずれた。帰りまでずっと雨はつづいた。

しばらく行くと登山口。ここから本格的な登山道がはじまる。すぐのところに神のごときブナの樹があった。40分で二股分岐だ。夫婦が休んでいた。

文字どおり、右の谷筋と左の尾根筋の2コースにわかれる。谷筋は徒渉が3度あり、木の橋や石を跳んで渡らなければならない。雨に濡れて危険と判断し、尾根筋をピストンすることにした。

しかしきつい。ステイホームのせいか、体力が落ちている。コースタイム8時間35分の道のりを歩ききるこができるか不安になる。雨も降っているし、途中でなんどか断念しようかと思った。

90分ガマンして登ると、マテ山分岐。ようやく尾根上にたどりついた。そこからは道はなだらかとなり、どこまでもブナの原生林がひろがっている。残念ながら、雨々、ガスガスだが。

ブナはスギやヒノキと異なり、曲がりやすく建築材として役にたたない。橅という漢字は役に立たないことからきている。しかし、保水力がたかく森のダムといわれる。雨のブナ林ではそれがよく分かる。

尾根上を90分行くと大峰分岐。山頂から発する稜線だ。左は有名な十二湖方面、右が山頂方面だ。雨はなお降り続く。20分ほどで山頂だ。途中、おじさんとすれ違う。きょう4人目だ。天気予報はずれましたな、おじさんもボヤいている。

山頂付近には避難小屋とトイレがある。避難小屋には3人ほどが雨をしのいでいた。名古屋から来たらしい。これで7人。山頂で証拠写真を撮り、休憩なしで下山を開始する。

最初にすれ違った男性とすぐのところで会う。ぼくが木陰で道をゆずろうと待っていたのに気づかず、ぎょっとされる。猟銃をもっていたら、撃たれたかもしれない。きょうは人が少ないという。地元のかただ。

大峰分岐までに若い男性とすれ違う。これで8人。大峰分岐をくだりはじめると先ほどの夫婦。こちらはカウント済み。あと登山口付近で男性とすれ違った。結局、この日お会いしたのは以上9人だった。

雨のおかげで雄大な景色は観ることができなかったが、静かな山旅を楽しむことができた。むしろ寂しいくらいだ。一部をのぞき、期待したほど紅葉は進んでいなかった。紅葉までもう1、2週間ほどかな。

最後にすれ違った男性は「下のほうにクマがいましたよ。」と注意してくれた。人が少なければ、クマと出会う確率が高くなる。注意しながら下ったが、クマの姿は見えなかった。ほっ。

帰りの車窓、日本海が日を受けてキラキラ輝いていた。なるほど、このあたりは真西に日本海があり、そこへ夕日が沈む。芭蕉も感動するはずだ。

2021年10月2日土曜日

ストレス解消法?

 

何かとストレスの多い世の中ですが、


この前、友人から、最近ストレスが溜まることが多くて、と相談されたので、

それは運がいいね、と返しました。


どういうこと?と思われるかもしれませんが、

とりあえず、運がいいと思ってみて、理由は後から考えることにすれば、意外とストレス解消しますよ。


どのみち、過ぎたことは変わらないし、先のことは分からないんだから、肩の力抜いて気楽にいきましょうよ。


みつを。


じゃなかった、富永。


P.S.

まあ、弁護士業に関しては「それじゃあ困るんですよ、何とかしてください。」と言われてしまうから、頑張るしかないんですけどね。ああ、運がいいなあ。




2021年10月1日金曜日

パリに終わりはないーはなれて輝く

 

 (焼け落ちるまえのノートルダム大聖堂まえにて)

 憲法は、国内移動の自由・海外渡航の自由という人権を保障している。人権というのは本質的に少数者のものである。多数派は、憲法が別に保障する選挙、国会・議院内閣制を通じて自己の政治的意思を実現できるから。

コロナ禍はその例外だ。多数派も含め、国内移動の自由・海外渡航の自由が制限されるようになった。公衆衛生という公共の福祉による制限である。それもようやく今日から緩和された。

空気とおなじで、人権も制限されるまでは、なかなかその重要性に気づかない。フランスの市民革命で人権を勝ち取った人たちにとっては命がけであった人権も、われわれにとっては空気のような存在になりがちだ。でもこんかい、移動の自由・海外渡航の自由を制限され、これを失ってから、その貴重さを切実に体感することになってしまった。

 「サイズの問題」の次の章、そして『移動祝祭日』全体の結びの章のタイトルは「パリに終わりはない」である。サイズはともかく、タイトルって重要だなと思う。

「パリに終わりはない」に書かれていることのほとんどは、パリのことではない。ヘミングウェイ夫婦が冬のパリを脱出して、オーストリアのシュルンスでスキーを楽しむ幸せな姿が詳細に描かれている。

では「看板にいつわりあり」かというと、そうではない。シュルンスでの描写が美しければ美しいほど、なぜかパリの懐かしさ、パリでの幸せが読者の心のなかに浮かび上がってくるのである。

『スタートレック・ヴォイジャー』は、ある事情で宇宙の果てに飛ばされてしまったヴォイジャー号とクルーが地球を目指す物語である。そこに地球は登場しない。しかしクルーたちが地球での思い出を語るたびに、美しい地球、懐かしい地球がみんなの心のなかに輝く。そんな感じ。

「パリに終わりはない」とタイトルをつけたら、ふつうはパリのよさを一生懸命に描こうとするだろう。でもパリの素晴らしさを描くのに、必ずしもパリじたいを描く必要はないのだ。

このタイトルはもう一つのことも示唆している。「パリに終わりはない」ということは、別の何かは終わったということだ。ネタバレになるけれども、その答えはヘミングウェイの最初の妻であるハドリーとの幸せな結婚生活である。

ハドリーとの幸せな結婚生活が終わったのは、ヘミングウェイの2番目の妻となったポーリーン・ファイファーとの不貞が原因である。ポーリーンは『ヴォーグ』誌の女性記者。まるで小説か映画の筋立てのよう。運命だったのだろう。

本書では、ハドリーとの幸せな結婚が破綻したのは、ヘミングウェイ自身の責任ではなく、ポーリーンら「リッチな連中」の術策によるものとされている。ところが解説を読むと、ヘミングウェイ自身の責任を認める原稿も存在するようだ。

そりゃそうだ。ヘミングウェイは61歳で自死したのであるが、『移動祝祭日』はそのすこし前に書かれている。若気の誤りを認めるのに十分な年齢である。

ヘミングウェイはアラ60歳となり、パリ時代、作家としての修業時代、最初の妻との幸せを懐かしんで、この回想録を書いた。そして自死したのである。

まとめると、最初の結婚が破綻した原因と責任について、それが2番目の妻にあるという原稿と、ヘミングウェイじしんにあるとする原稿がある。『移動祝祭日』はそのうち前者の原稿によっている。

この選択をしたのは、じつはヘミングウェイではない。亡くなる前の妻であるメアリー夫人のようである(解説)。メアリー夫人はいかなる動機にもとづき、この選択をしたのだろうか。純粋に文学的なものだろうか、それともポーリーンに対する反感や嫉妬も含まれていただろうか。

『移動祝祭日』はつまるところ、パリにおける最初の妻との幸せな結婚生活について、ヘミングウェイが描いた回想録である。本書が出版されたのはヘミングウェイの死後、メアリー夫人によってである。メアリー夫人は、ハドリーには嫉妬しなかったのだろうか。

いずれにせよ、ヘミングウェイは自死した。3人の裕福で美しい妻と結婚し、名作といわれる数々の短編・長編をものにし、それらが映画化され、ノーベル文学賞を受賞したのに。ことほどさように、人生はなかなかに難しいものなんだなぁと思う。

同書のエピグラフをもういちど紹介して結びとしよう(このエピグラフもメアリー夫人の選択によるものである)。

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

2021年9月30日木曜日

反芻読書とシンクロニシティ

 旅に反芻旅行があるように、読書にも反芻読書がある。

 若いころは、書店に平積みにされている話題作、直木賞・芥川賞受賞作、本屋大賞受賞作、○○ランキング・トップ10など、他人と話をしていて話題になりそうなものは片っ端から読みとばしていた。濫読書と呼ぼう。

どこまで理解できたかは問わない。とにかく読んだことがあるということに意義があるわけだ。なので、途中まで読んでこの話の結末が分かるというデジャブ状態となり、さらに読み進んでようやく「この本読んだことがあった!」と気づくなどということがよくあった。

しかし、アラ60歳となり、そのような読書にあまり意味がないのではないかと思うようになった。そのころから、プルーストの『失われた時を求めて』やジョイスの『ユリシーズ』を繰り返し読むような読書スタイルに変化した。まさしく反芻読書である。

どちらも難物である。初読で理解できることは3%程度という惨憺たるありさまだ。それでも2回、3回と読んでいくうちに、なるほど傑作だと理解できるようになる。

というわけで、本ブログ9月3日の「パリのほそ路」で書いたヘミングウェイの『移動祝祭日』を再読していた。パリにおける作家修業時代の回想録である。

そうすると、ある一文、正確にはある注記に出会い、とても幸せな気分になることができた。

初読のときは気づかなかった。それもそうだ。その回想のタイトルは「サイズの問題」である。誰のサイズかというと、『華麗なるギャツビー』の作者であるスコット・フィッツジェラルドである。どこのサイズかというと、このブログで書くことがはばかられる身体部位なので、みなさんがご自分で読まれたい。初読のときは、スコットの悩みにつきあうことに忙しくて、この注記まで気がまわらなかったのである。

夫妻はスコットだけでなく、妻ゼルダもジャズ・エイジの象徴的存在で、超有名人である。だが、ゼルダは悪妻であり、嫉妬心からスコットにすぐれた小説の執筆を許さない。すくなくともヘミングウェイはそう信じていた。だから、ゼルダとは犬猿の仲である。かくて「サイズの問題」は、じつは身体部位のサイズの問題ではなくて、ゼルダの悪妻としてのサイズの問題なのである。

話は後年にとぶ。20年以上あとのことである。ヘミングウェイはリッツのバーで、主任であるジョルジュからスコットの昔話を教えてくれとせがまれている。その部分を引用しよう。

「いいとも」
「あなたとフォン・ブリクセン男爵が到着したときのことは、よく覚えていますよー何年でしたかね、あれは?」ジョルジュは微笑した。
「彼も死んでしまったな」
「ええ、でも、あの方のことは忘れられません。おわかりでしょう、どうしてか?」
「彼の最初の細君※2は、とても素晴らしい文章を書く人だった」私は言った。「彼女がアフリカについて書いた本は、わたしが読んだなかでも最上のものだったな。アビシニア(エチオピアの旧称)のナイル支流について、サミュエル・ベイカー卿の書いた本を除いてね。それも、あんたの備忘録に書いておくといい。あんた、いまは作家たちに興味を抱いているようだから」
「わかりました」ジョルジュは言った。「あの男爵は、とても忘れられるような方じゃありませんでしたね。で、奥さまが書かれた本のタイトルは?」
「『アフリカの日々(”Out of Africa")』さ」私は答えた。ブリッキーはいつも最初の細君の本を自慢していたよ。しかし、われわれは彼女がその本を書くずっと前から知り合っていたんだ」
「じゃあ、最近しょっちゅうみんなから訊かれるムシュー・フィッツジェラルドはどうなんです?」・・・

問題は「彼の最初の細君」に関して付けられた注※2である。こう書かれている。

 カレン・フォン・ブリクセン=フィネッケ(1885-1962)。デンマークに生まれ、1914年、遠縁の貴族、フォン・ブリクセン男爵と結婚。夫に従ってアフリカに渡り、ケニアでコーヒー農園の経営に従事した。その後世界恐慌のあおりで農園を閉鎖すると、デンマークに帰国。
 以後、イサーク・ディネーセンのペン・ネームで文筆に専念した。1937年、アフリカ時代の思い出を綴った『アフリカの日々』を発表して、作家の地位を確立。この作品は1985年映画化され(シドニー・ポラック監督、メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード主演、邦題『愛と哀しみの果て』)、アカデミー作品賞を受賞するなど話題を呼んだ。ディネーセンの晩年の作品では、1958年刊行の"Anecdotes of Destiny"に収録された「バベットの晩餐会」が有名。この作品も1987年に映画化されて、高い評価を得ている。
 ヘミングウェイはこの回想でディネーセンを賞賛しているが、それは本心からのものだった。1954年にノーベル文学賞を受賞した際のインタヴューでも、彼はこう述懐しているのだからー”・・・もしこの賞があの美しい作家イサーク・ディネーセンに与えられていたら、私はもっと幸せだっただろう”。

お気づきのとおり、『バベットの晩餐会』は本ブログで9月17日に紹介したものである。初読の際に注意をひかず、こんかい気づいたのは同ブログを書いたことも大いに影響しているだろう。

シンクロニシティという言葉がある。心理学者のユングが提唱したもので、意味のある偶然の一致のことである。

BSで映画『ミッドナイト・イン・パリ』を観た。その示唆により、ヘミングウェイの『移動祝祭日』を読んだ。ジョイスとの交流が描かれていた。それらのことをブログに書いた。しばらくしてやはりBSで『バベットの晩餐会』を観た。そのことをブログに書いた。そして『移動祝祭日』を再読していたら、上記注記に出会った。すばらしいシンクロニシティだと思いませんか。

もちろん『アフリカの日々』は濫読書のなかで当時読んだし、『愛と哀しみの果て』も当時劇場で観た。

さいきんは広く浅い知識をたくさん仕入れるより、人生のなか、あちこちで出会った知識や経験を反芻し、それらが互いにつながっていくことのほうに幸せを感じる。

じつはまだ続きがある。BSで映画の予告をやっていた。きたる10月5日(火)午後1時から『愛と哀しみの果て』を放映するという。なんというシンクロニシティ!!みなさま、ぜひご覧くだされ(時間帯からして録画が必要でしょうが)。