2024年6月26日水曜日

新潟の旅(7)荒海や佐渡に横たふ天の河

 

 佐渡の一日観光を終えたのち、フェリーにて新潟港へ帰る。ゴールデンな島にゴールデンな日が傾きつつあった。

海上ずっと佐渡は見えていた。写真では分かりづらいが、このポイントでもちゃんと見えている。佐渡は大きい。画面の右端から左端まで横おりふしている。「銀河ノ序」にあるとおり。

 佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。

しかし季節は夏。荒海でもないし、海面からたちのぼる水蒸気にかすんで、おぼろげである。

 みねの嶮難谷の隅ゞまで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。

「銀河ノ序」にはこうあるが、芭蕉がこのような実景を見ることができたのかは疑問。曽良の随行日記に記された天気の様子からも実景ではないような気がする。

 北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。

「銀河ノ序」の書き出しはこうあるから、出雲崎での記事のように読める。しかし、随行日記によれば出雲崎の夜は7月4日夜中強雨であるし、「おくのほそ道」では荒海の句のまえに次の句が置かれている。

 文月や六日も常の夜には似ず

文月は陰暦7月のこと。7月は6日も常の夜には似ていない。なぜなら、翌日は7月7日、たなばた(七夕)だから。前夜からワクワクする。

そうなると、荒海やの句は当然、7月7日たなばたの句として読まなければならない。七夕は年に一度、織女と牽牛が出逢える日。天ノ川にカササギたちがやってきて橋を架けるという。


 かささぎの渡せる橋におく霜の
      白きを見れば夜ぞふけにける  中納言家持

 カササギが架け渡した天の川の橋の上に置いた霜が、白く冴えているのを見ると、夜も更けたのだなあと思う。

百人一首6番の歌。

(カササギ)

七夕であれば、越後の海岸にたつ芭蕉と佐渡の織女との間に、荒海をこえてカササギが橋を架けたイメージも湧く。月島軍曹の求愛のセリフもかぶせやすい。

 この島に俺の居場所はないけれど・・・
 戦争が終わったら一度だけお前のために帰る
 その時に駆け落ちしよう

実際、荒海やの句は、7月7日、今町(直江津)で行われた句会で初披露されている。しかし随行日記によれば7日も雨。

そんなこんなを考え、「おくのほそ道」の越後路に「銀河ノ序」を貼り付けることもできたはずであるが、大胆な省筆を施して、文月やの句と荒海やの句を夫婦岩のように屹立させて、句のイメージのみをもって語らせたのではあるまいか。



 佐渡から新潟港まで、たくさんのカモメたちが橋をかけわたすごとく、連なっていた。
 

 フェリーは、信濃川をやや溯上して新潟港に着岸しようとしていた。暑い一日がようやく暮れる。新潟の街並み越に、日は日本海へ沈んでいく。

 暑き日を海に入れたり信濃川

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月25日火曜日

新潟の旅(6)ゴールデンカムイの聖地・夫婦岩

 

 佐渡島の観光バスで最後に連れて行かれたのは、島の西端・七浦海岸に仲よくならんで屹立する夫婦岩。国生み神話に由来するという。

向かって右が夫で高さ22.6、左が妻で23.1メートル、縁結びのご利益があるらしい。

夫婦岩は伊勢や、糸島にもあるが、ここのが一番立派なようだ。


 女性たちがたくさん写真を撮っていた。ただのバエ写真を撮っているのかと思ったら、どうやらゴールデンカムイの聖地巡礼らしい。

ゴールデンカムイは、日露戦争後、北海道・樺太を舞台に金の争奪戦を描いた漫画である。

佐渡は月島基軍曹の故郷である。ゴールデンカムイとゴールデン佐渡、ゴールデンつながり。

15巻149話、150話に月島軍曹の回想場面がある。夫婦岩はその聖地である。


 この島に俺の居場所はないけれど・・・
 戦争が終わったら一度だけお前のために帰る
 その時に駆け落ちしよう

 夫婦岩にむかっての願いでもあったろうが、月島軍曹の願いはかなわなかった。月島という名なれど軍曹の心は変わらず。月島とは佐渡島の名なりけり。

2024年6月24日月曜日

新潟の旅(5)佐渡島のラピュタ・浮遊選鉱場跡

 

(発電所)


(シックナー、沈殿濃縮装置)

 金山のつぎは北沢の浮遊選鉱場跡。鉱石から金や銀を取り出す施設。近代の遺構。佐渡島のラピュタと呼ばれる。

この日はこのあと結婚式がおこなわれる予定とかで、廃墟には売店が建ち並び、子どもたちが遊び、祝祭的な雰囲気であった。

2024年6月21日金曜日

新潟の旅(4)佐渡金山

 

 順徳院、日蓮聖人、世阿弥に思いをはせたあとは、いよいよ佐渡金山。芭蕉「銀河ノ序」でいえば、「むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなく目出度島にて侍る」の部分。

 まずは佐渡金山のシンボルである「道遊の割戸」(どうゆうのわれと)。江戸時代の開発初期、山の中央部から下へ向かって露天掘りをした跡。まさしく割戸。豪快。

島内には主要なものだけでも4つの鉱山がある。その最大のものは相川金銀山。金山として知られるが、それ以上に銀も採掘された。

佐渡金山は江戸初期に最大の産出量をほこり(世界最大)、江戸幕府の金蔵をうるおした。その後は産出量が減り、無宿人の過酷な流刑地となったことは時代劇で知るとおり。芭蕉のいう「大罪朝敵のたぐひ」も、順徳院、日蓮聖人、世阿弥に比べれば粒がちいさい。

江戸期後も明治、大正、昭和と採掘は続けられ、休山となったのは平成元年。それまでに佐渡金山が産出した金は78トン、銀は2,300トンに及ぶ。

来島するときのジェットフォイル「銀河(ぎんが)」の名には、案外、このような銀への想いも込められているのかもしれない。

なお、78トンというのは横・縦・奥行きの各辺が1.8メートルの立方体にすぎないようだ(バスガイドさんの説明。うつらうつらしていたので、正確でないかも。)。意外と少ない?貴金属だから、これでいいのか?

休山後は三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡が観光地として運営。「史跡佐渡金山」として一般公開されるとともに世界遺産登録を目指している。

「ゴールデン佐渡」と聞いて、何か思い浮かばないだろうか?この点はのちほど紹介したい。






 坑道の総延長は400kmに及ぶ(九州の長さ≒門司港から佐多岬までの直線距離が330kmだから、その4/3倍。なお、新潟県と九州はほぼおなじ長さらしい。)。そのうち300mが観光ルートとして歩けるよう整備されている。

入口は2つに分かれている。右に行けば江戸時代コース(宗太夫抗)、左に行けば明治時代コース(道遊抗)である。初心者は江戸時代コースを行けと教えられ、そのとおり坑道、もとい行動する。

坑道内には採掘の様子を再現した人形70体余が展示されている。人形はリアルな蝋人形で動く。1体1,000万円、京都で製作された(バスガイドさんの車中での説明。うつらうつらしていたので、正確でないかも。)。「つれえなぁ、はやく家に帰って、かかぁの顔がみてえなぁ」(メモしていたわけではないので、正確ではない。)などと話している。

佐渡の金山の奥底で強制労働させられて、思い描く幸せが「かかぁの顔がみてえなぁ」であることに、人間として生きることの哀感を感じた。
(つづく)

2024年6月20日木曜日

新潟の旅(3)佐渡2

 

 佐渡の島内は観光バスの旅となった。観光バスで旅をするのは高校生時代以来ではなかろうか。運転手さんが現地まで運んでくれ、バスガイドさんの案内にしたがっていればよく、お気楽な旅である。

 まず連れて行かれたのは、トキの森・佐渡トキ保護センター。

トキがニッポニア・ニッポンと呼ばれること、絶滅したことは小学校の教科書で習ったと思う。関係者の努力で再生し、いまでは600羽以上を野生にかえすことができているという。

生きているトキの写真も撮ったのだが、上記写真は最後のトキの剥製。トキは臆病な生き物らしく、生きたトキは遠くかゲージのなかにおり、あまりうまくは撮れなかったから。


 つぎに連れて行かれたのは佐渡の酒蔵。残念ながら下戸なので試飲はできなかった。

 そのつぎは歴史伝説館。佐渡に流された人たちのことを紹介している。佐渡に流された人として、誰が思い浮かぶだろうか?

 佐渡に流された人の筆頭は順徳院である。芭蕉の「銀河ノ序」にある「大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝ」人の筆頭が順徳院というのは歴史の皮肉。ここで朝敵とは朝廷の敵ではなく、鎌倉幕府、あるいは北条義時の敵という意である。

 ももしきやふるき軒はのしのぶにも
         なほあまりある昔なりけり  順徳院

 宮中の古い軒端に生えている忍ぶ草のように、いくら偲んでも偲びつくせない昔の御代であるなあ。

(ノキシノブ@二日市公園)

この歌が詠まれた当時、承久の乱はいまだ起きていないが(5年前)、その後佐渡に流されたうえ、そこで亡くなるという自分の運命を予言したような歌。

百人一首の掉尾、100番の歌。近江神宮に祭られている天智天皇を第1番としてはじまった百人一首は佐渡に流された順徳院で終わる。

百人一首の撰者である藤原定家は順徳院と同時代人。承久の乱後の処分に巻き込まれることは避けられたが、定家もまた順徳院とともに昔の御代を偲んだのである。

 順徳院のつぎに紹介されている流人は日蓮聖人、最後は世阿弥である。世阿弥は足利義満に重用されたが、義教に流刑される。

権力に近づきすぎた芸能者の運命か。だが秀吉に切腹を命じられた千利休よりはましかもしれない。世阿弥流刑のおかげで、佐渡ではいまでも能が盛んである。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月19日水曜日

新潟の旅(2)佐渡

 

 2日目。佐渡へは新潟港からジェットフォイルで約1時間。佐渡は新潟のほぼ西に位置しているので、まっすぐ西に進む。

 船名は銀河(ぎんが)。この旅にぴったり。いわずとしれた芭蕉の句の「天の河」から採られたにきまっている。

 『おくのほそ道』本文はきのう紹介したとおり、越後路は省筆がはなはだしい。しかし、芭蕉はいきなり本文を書き下ろしたわけではなく、歌枕や句会など要所ごとに俳文を書きためて、それらに基づいて本文を書いている。

 荒海やの句にも俳文がある。「銀河ノ序」という(小学館・日本古典文学全集71巻より)。

 北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難谷の隅ゞまで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなく目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、星きらゝと冴えたるに、沖のかたより、波の音しばゝはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちぎれて、そゞろにかなしひきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
  あら海や佐渡に横たふあまの川


 佐渡の両津港が見えてきた。海は凪いでいる。残念ながら?荒海ではなかった。と思ったが、夏の日本海は荒れない。冬は北西の季節風により荒れるけれど。芭蕉の句は実景ではなく、想像力が生んだという説があるゆえんである。

 実際、曽良の同行記によると、越後路は天気が悪く天の川が見えたかどうかは微妙。そして、決定的なことはこの時季(旧暦7月4日~7日)、天の川は南にかかるのであり、佐渡(北)側にかからない。


 両津の街の背景は、大佐渡山脈である。島で最高峰の金北山が見えている。佐渡はフランスパンを2本並べて、真ん中に食パンをおいたような地形になっている。北側のフランスパンが大佐渡山脈、南側のフランスパンが小佐渡山脈、真ん中の食パンが国中平野である。

 なぜこんな地形になっているのか。フィリピン海プレートが大陸プレートの下に潜りこむ際、日本列島の東西圧縮が起こったとされる。日本列島が東西から圧縮されたため、山-平地ー山ー平地とシワシワの地形となった。布切れを両側から押してみればそうなるように。そして本州のみならず佐渡でもこのような山ー平地ー山というシワになったのだそう(NHKジオジャパンによる)。

 われわれは、食パンの東端にある両津港に着岸した。この日は終日観光バスツアーである。島内は交通手段がかぎられており、これが一番お気楽と感じられた。コースは食パンの東端から西端まで行って戻ってくる感じである。(つづく)

2024年6月18日火曜日

新潟の旅(1)新潟市内

 

 先週末は2泊3日で新潟を旅した。新潟の旅は初めてではない。越後駒ヶ岳、妙高山、火打山、高妻山、苗場山などの百名山は新潟県内もしくはその県境にあるのだから。

こんかいは山登りではなく旅である。お目当ては佐渡島。芭蕉『おくのほそ道』の行路はほぼ歩いたが、新潟からのぞむ佐渡というのは未踏である。

といっても、芭蕉は越後路について、体調不良を理由に極端に省筆。いわく。

 酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む。遙々の思ひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞く。鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に至る。この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事を記さず。
 文月や六日も常の夜には似ず
 荒海や佐渡に横たふ天の河

越後路に関する記述は、地の文「越後の地に歩行を改めて」と「文月や六日も常の夜には似ず」「荒海や佐渡に横たふ天の河」の両句だけである。どこに行けばよいのか?よく分からないが、とりあえず佐渡に渡ってみよう(芭蕉は佐渡へ渡っていないが)。

まずは福岡空港から空路である。写真はジャンボジェットであるが、実際はアイベックスの小型機だった。



 初日は、新潟市内観光。観光地循環バス1日乗車券を購入してレッツゴー。新潟はアニメのまちだそう。循環バスは『ホワッツマイケル』号だった(写真は撮り損ねた。)。

 まずは白山神社。新潟県の総鎮守。上杉景勝も尊崇したという。白山は石川県にある百名山。白山神社は白山をご神体とする。随神門は筥崎宮のようであった。


 つづいて北方文化博物館・新潟分館。出雲崎の油田でもうけた清水常作の別宅跡。会津八一のゆかり。

 その裏は齋藤家別邸跡。齋藤家は新潟の財閥。家と庭がひびきあう広壮な豪邸。財閥は戦後解体されたが、佐渡汽船はその事業を継承している。



 近くには新潟大神宮。坂口安吾生誕の地碑あり。
 私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった。


 また市立美術館も近い。


 新潟といえば信濃川。ご存じのとおり日本最長。北アルプスは槍ヶ岳を発して梓川、松本市で奈良井川をあわせて犀川となり、長野市で千曲川と合流する(川中島で)。千曲川は新潟県に入ると信濃川と名を変える。

 暴れ川で、むかしは再三水害をもたらした。新潟とは、文字どおり、信濃川がつくった新しい潟なのである。いまは分水して流量は3分の1となり、おだやかに流れている。新潟が米どころなのは、信濃川の賜物なのだろう。エジプトとナイルの関係のように。

 柳都大橋から河口(新潟港)を望む。右の高いビルは日航ホテル。その向こうは朱鷺メッセ新潟コンベンションセンターと佐渡汽船ターミナル。あすは、そのターミナルから佐渡を目指す。


 日航ホテル最上階から西を望む。手前の橋は柳都大橋、その向こうは萬代大橋。晴れてはいるが、残念ながら佐渡は見えない。かろうじて弥彦山の上部が見えている。


 萬代大橋横の川縁からの夕景。たくさんの市民や観光客が憩う。マンハッタンの情景かと見まがう。なことはないか。

2024年6月13日木曜日

浦田は知床を取りにいく

 

 事務所内のウォーキング同好会に入れてもらい、太宰府路を散策したことは去年10月18日に報告した。

http://blog.chikushi-lo.jp/2023/10/blog-post_18.html

 その後、夜のウォーキングを楽しんでいることは去年11月30日に報告した。


 きょうはその続報である。

ウォーキングのルールは、1週間で280ポイントを稼ぐことである。1日に8000歩以上歩くと20ポイント、10000歩以上歩くと40ポイント、12000歩以上歩くと60ポイントである。仮に一日に20000歩歩いても60ポイントが上限である。

今週はきのうまでの3日間(月、火、水)で180ポイント稼いだ。つまり、毎日60ポイント12000歩以上歩いたということだ。言うはやすく、行うはけっこうな努力を要する。

1週間で280ポイント稼ぐと抽選を1回することができ、ドリンクチケットをゲットすることができる。

それをアプリでつながったメンバー6人で毎週確かめ、励ましあうことになる。一人ではなかなか続かないが、グループのおかげで半年以上続けることができている。


 3月末ころ、このアプリにジャーニーというアトラクションが加わった。沖縄をスタートして、北海道は知床まで歩くというものである。全長4850kmである。

 もちろん、実際に各都道府県を歩くわけではない。毎日のウォーキングの歩数を移動距離に換算して、きょうは何キロ移動し、沖縄県全体106kmのうち○○km移動しましたねというわけだ。


 ぼくはいま九州全体を歩き通して、山口県を歩いている。沖縄からここまで853km歩いた。山口県は全長200kmのうち、いま35km歩いたところだ。

 是非ともゴールの旗が立つ知床までたどり着きたい。残るはあと3997km!


 各県を踏破すると、メダルを1個もらえる。福岡県は全長116kmで、ラーメンのデザインのメダルだった。


 九州全体のメダルはご覧のとおり。沖縄=シーサー、鹿児島=西郷どん。ここまではよい。が、宮﨑=マンゴー、熊本=からしレンコン、長崎=カステラと、いきなりご当地グルメシリーズになる。手抜き感がただよう。

そして佐賀はなんとイカである。佐賀県民は怒るべきではなかろうか。呼子の名物なら分かる。しかし佐賀の名物がイカとはいかがなものか!と。あはは。

2024年6月12日水曜日

成瀬って誰?

 

 由良のとをわたる舟人かぢをたえ
        ゆくへも知らぬ恋の道かな  曽禰好忠

 由良の門を漕いで渡る船人が、櫂がなくなって、どこへ漕いでいっていいのか、行方がわからないように、これからどうしていいのか、途方にくれる恋の道だよ。

 百人一首46番の歌。曽禰は長く丹後掾をつとめた。丹後といえば、和泉式部の夫の赴任地として先に出てきた。天の橋立があるところである。由良の門は、そのずっと東。いまなら由良川橋梁があるあたりで、鉄ちゃんたちの熱い視線を浴びている。
 https://www.google.com/maps/place/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E5%B8%82/@35.5238262,135.2046078,12.75z/data=!4m6!3m5!1s0x5fff974af2c48efd:0x4faf8dfb7b8a00b2!8m2!3d35.535626!4d135.1956327!16zL20vMDF3bXpx?entry=ttu 

 長らく百人一首シリーズをつづけてきたが、それもきょうで結びにしようと思う。その掉尾を飾るのがこの歌だ。なぜ、この歌かというと宮島未奈著『成瀬は天下を取りにいく』に出てきたから。


 『成瀬は天下を取りにいく』はことしの本屋大賞受賞作。さいきんは、本屋大賞や直木賞作に手を出していなかったのだが、春に琵琶湖に行く用事があったので読んでみた。

 成瀬って誰?察しのとおり、本書の主人公である。成瀬あかり。膳所の高校生。九州人に膳所(ぜぜ)と言っても知らない人のほうが多かろう。琵琶湖畔・大津にある。



 九州人である当職がなぜ知っているかというと膳所には義中寺があるから。義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲は、あの木曾義仲のことである。墓がある。平家物語「木曾の最後」の場面。

 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、追つかかつて、よつ引いてひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて、うつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。

 粟津は、膳所のやや南にある。義仲寺は、巴御前(ともえごぜん)が草庵を結び義仲を日々供養したことにはじまるとされる。


 義仲寺には松尾芭蕉の墓もある。芭蕉は義仲も近江の人々も大好きだった。大阪御堂筋で亡くなった芭蕉だが、遺言は「骸は木曾塚に送るべし」。


残念ながら、『成瀬は天下を取りにいく』には、義仲も芭蕉も登場しない。出てくるのは近江神宮である。近江神宮は、天智天皇が近江大津宮を営んだことから、同天皇を祭神としてしている。

天智天皇といえば、百人一首第1の歌である。


 秋の田のかりほの庵の
      わが衣手は露に濡れつつ  天智天皇


この歌にちなみ、近江神宮では競技カルタの名人位・クイーン位決定戦が毎年一月に行われている。


近江神宮・競技カルタといえば「ちはやふる」である。アニメ原作だが、広瀬すず主演で映画になっている。主人公綾瀬千早は競技カルタの名人・クイーンを目指す。ちはやふるは、在原業平の歌から。


 ちはやふる神代もきかず竜田川
      からくれなゐにみずくくるとは  在原業平朝臣

ずいぶん遠回りしたが、『成瀬は天下を取りにいく』は高校生の成瀬の生きざまを中心に、6つの短篇からなるオムニバスである。その第5話が「レッツゴーミシガン」。

西浦航一郎は、広島県代表として、全国高校かるた大会に出場する。そして、成瀬に一目惚れしてしまう。その際、かれの手中にあった札こそが冒頭の歌である。

 由良のとをわたる舟人かぢをたえ
        ゆくへも知らぬ恋の道かな  曽禰好忠

ミシガンというのは、琵琶湖の観光船の名である。西浦は、成瀬と観光船ミシガンでのデートになんとか漕ぎ着けることができるだろうか?・・・

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。

2024年6月11日火曜日

光源氏って誰?

 

  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
         乱れそめにしわれならなくに  河原左大臣

 陸奥産のしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心はひどく乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたというのでしょう、私のせいではないのに。すべてあなたのせいなのに。

 百人一首14番の歌。河原左大臣は、源融(みなもとのとおる)。『源氏物語』主人公である光源氏のモデル候補一番である。嵯峨天皇の皇子でありながら臣籍に降下、源姓を名乗る。藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられると自宅にひきこもるなど、光源氏の境遇と似ている。

その他、先に紹介した実方や伊周(これちか)もモデルとして考えられている。実方は一条天皇により奥州に左遷され、伊周も大宰府に流されている。須磨・明石の段のストーリーに影響を与えているのだろうか。


 融は陸奥出羽按察使を任官したため、陸奥にまつわるエピソードが多い。この歌もそのひとつである。

 福島市の東には信夫(しのぶ)の里がいまもある。そこには文字摺石もある。「おくのほそ道」で芭蕉も訪れた。

 明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

 なぜ、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべってのか?それは虎女伝説のため。

 昔々、都から河原左大臣源融という貴人がこの地にやってきて、虎女という美少女と愛し合うようになった。やがて、都に帰った融を忘れかねて、虎女がもじ摺り石の面に麦をすりつけると、融の面影が浮かび出たという。 


 (渉成園) 

 融は六条河原院(現在の渉成園)に塩竈の風景を模した庭園を造らせた。そして藻塩を焼く煙を立ち上らせ、池にはわざわざ難波・尼崎から海水を運び込ませていたという。当代きっての風流人で、在原業平とも深い親交があった。


(陸奥塩竈神社)


(塩竈)

 『伊勢物語』塩竈(81段)

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。
 加茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。
 十月のつもごりがた、菊の花うつろひあかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちにおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。
 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。
 塩竈にいつか来にけむ朝なぎ釣する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるとに、あやしくおもしろき所々大かりけり。・・・。

これを元に、世阿弥は謡曲『融』を書いた。

※現代語訳等は『ビギナーズクラッシック日本の古典 百人一首(全)』谷知子編によった。