このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
2024年1月31日水曜日
奈良大宮ロータリークラブ45周年(5)
このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
2024年1月30日火曜日
奈良大宮ロータリークラブ45周年(4)
(金剛力士・仁王像)
太宰府ロータリークラブからの参加者は9人。うち2人は仕事のためトンボ帰り。うち2人はタクシーをチャーターして女人高野・室生寺と唐招提寺をめぐるというしぶい選択。
残されたのはわれわれ5人。そのうち奈良ははじめてという人が1名、奈良には何度も来ているがまいどゴルフばかりで一度も東大寺を参拝したことがないという人が2名であった。なので、定番中の定番ではあるが、東大寺→春日大社→興福寺をご案内することにした。
まずは東大寺。南大門前をスタート。平安時代末・源平の争乱のさなか、平重衡により奈良・東大寺は焼き打ちされた。そして、勧進上人重源(ちょうげん)のなみならならぬ努力で復興した。
謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」で、弁慶は白紙の勧進帳を読み上げる。あれはこの東大寺復興のためのものである。当時、重源の指令を受けて多数の仏教者や行者が全国各地で勧進をおこなっていたなかでのことである。
南大門(国宝)。その木組み、組物がリズミカル。いつみてもほれぼれする。大仏様。中国宋から重源が輸入した最新デザインだった。南画からイメージされる柔らかな宋文化との違いに驚かされる。
勇壮な金剛力士・仁王像(国宝)。運慶・快慶作。武士の台頭による力強さを言われことが多い。が、いまの日本の状況に照らしても、被災後の「復興」による力強さを忘れてはならないだろう。
大仏殿(国宝)。こちらは戦国時代、松永久秀にも焼き打ちされた。ために江戸時代の作である。幅は創建時の3分の2らしい。どれだけ巨大だったのか。
八角燈籠(国宝)。大仏殿前にある。火袋の扉四面には雲のなかを駆ける獅子、その間の四面には楽器を奏でる天人がレリーフされている。天平時代のもの。ピアノ奏者の反田恭平がここでコンサートをやっていたが、天平人たちにも天上の音楽が聞こえていたことだろう。
盧舎那仏・大仏(国宝)。知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出す仏。華厳経は釈迦が時間と空間を超えて仏となった瞬間を説く。偉大で、広大で、正しい仏の世界は菩薩の実践の華により飾られなければならない。重源による実践はその教えを体現したものである。
脇侍は如意輪観音菩薩と虚空蔵菩薩。観音は33の姿に変じて衆生を救済する。その一、如意輪観音は、意のまま(如意)に説法し、衆生の苦を抜き利益を与える。虚空蔵菩薩は、大空(虚空)のように無限の福徳・知恵をそなえ、衆生にあたえて諸願を成就させる。
そうした仏の世界の四方を武神の四天王がお守りする。南を増長天、西を広目天、北を多聞天(毘沙門天)、東を持国天が守備している。
大仏殿の外には、びんずる尊者が。釈迦の筆頭弟子。先日、善光寺でもお目にかかった。向こうは撮影禁止だったが、こちらは堂内の諸仏を含め撮影可だった。
大仏殿を出て坂を登り、三月堂・法華堂(国宝)へ。東大寺は大仏殿に目を奪われがちだが、どれか一つといえば、法華堂(あるいは、戒壇院)こそ見るべきところである。
法華堂は東大寺最古の建物。外観の優美さ。左半分が奈良時代の創建当時のもの、右半分があとから付けくわえられた礼堂。あとから付けくわえたにもかかわらず、見事な調和をなしている。
堂内もすばらしい。不空羂索観音(国宝)を中心に、梵天・帝釈天(国宝)、金剛力士像2体(国宝)、四天王立像(国宝)が絢爛豪華に並んでいる。残念ながら写真撮影は禁止。執金剛神像は秘仏なので、拝することができない。
その後はお水取りで有名な二月堂(国宝)へ。傾斜地に、お水取りをするための建物になっている。そのため、建物からの奈良市内の絶景がすばらしい。お約束の、大仏殿の鴟尾と生駒山も望むことができた。
2024年1月29日月曜日
奈良大宮ロータリークラブ45周年(3)
2024年1月26日金曜日
奈良大宮ロータリークラブ45周年(2)
2024年1月25日木曜日
奈良大宮ロータリークラブ45周年(1)
23日(火)、24日(水)は奈良大宮ロータリークラブ45周年式典へのご招待を受けたので、奈良出張。
まずは南円堂。藤原北家の冬嗣(道長の6代前)が亡父内麻呂追善のために建てた。何度も火災にあい、なんと四代目の建物。興福寺の、藤原氏の、民衆の信仰パワーのなせるわざである。
2024年1月22日月曜日
安宅
大濠公演能楽堂で、お能を観劇した。観世流・特別講演。
演目は、神歌(独吟)、高砂(連吟)、羽衣(舞囃子)と正月らしい・おめでたいもの、その後山姥(舞囃子)、杜若(一調)を経て、締めは安宅(能)。狂言は樋の酒。
山姥は、遊女一行が善光寺詣を志して、越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を越えようとしたところ山姥にであう曲。
杜若(かきつばた)は、『伊勢物語』に材を取り、諸国一見の僧が三河国の八橋で、杜若の精にであう曲。前シテの女は、在原業平の故事を語る。「唐衣(からころも)着つつ馴れにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思う」。業平はかって旅の心を詠んだ。この歌には、か・き・つ・は・たの言葉が詠み込まれている。
安宅(あたか)は、歌舞伎・勧進帳のもととなったもの。加賀の国安宅の関を舞台に、頼朝の追求を逃れる義経、弁慶ら主従が富樫某の詮議をかわし、虎口を脱する曲。
チケット発売は昨年10月14日であるから正月の能登地震は思いもしていなかったであろう。しかし、なにかその発生を予感したかのようなラインナップになっている。
安宅は加賀・小松空港からすぐ。立山、劔や薬師岳に登る際には、小松空港から越中富山をめざす。途中、弁慶と富樫の像が立っている。そこを通るたびにこの故事を思う。
弁慶は、白紙の巻物を勧進帳と偽って読み上げたり、主人の義経を打擲するなどの知恵と胆力でもって虎口を脱する。しかし歴史は義経・弁慶主従に味方せず、やがて主従は奥州の地で頼朝勢に滅ぼされてしまう。
この曲はわれわれに何を語っているのだろうか。とおい先のことはともかく、いま・ここにある課題の克服に集中しよう。そう教えてくれているように受けとめた。
2024年1月19日金曜日
四阿山撤退、上田城
2024年1月18日木曜日
川中島古戦場
『更科紀行』関連の旅はきのうまでに書いたとおり。途中、川中島古戦場、上田城、四阿山(撤退)も訪れたので、それらについても報告しておこう。
まず、川中島。姥捨駅から見えていた。千曲川と犀川とに挟まれた三角地帯。島ではないのであるが、両側を大河に挟まれているので島とみたてられているのだろう。
一枚目の写真は、千曲川(松代大橋から)。五木ひろしの歌がある。
♪一人たどれば草笛の
音色哀しき千曲川・・
向こうが北側・日本海で、北にむかって流れている。左岸が川中島。古戦場は左端に木立がみえているあたり。
川中島の中央やや南部に川中島古戦場がある。長野駅からバスで20分。
二枚目の写真は、川中島古戦場内・八幡社にある一騎打ちの銅像。右手・馬上で太刀をふるっているのが上杉謙信、左手・床几に座ったまま軍配で応戦しているのが武田信玄。両雄が直接対峙し、一騎打ちした有名な場面である。
海音寺潮五郎の歴史小説『天と地と』で有名。NHK大河ドラマにもなった(1969年)。上杉謙信役は石坂浩二だった。当時小学生だったが、石坂の謙信には血湧き肉踊った。
上杉側の旗には「毘」と書いてある。毘沙門天の毘である。毘沙門天は戦の神様。四天王のうち多聞天とおなじ、北方を守っている。敵方はこの旗を見るだけで震え上がったという。銅像のある八幡社も武運の神である。
対する武田側の旗はいわゆる「風林火山」。孫子から。
其疾如風 其の疾きこと風の如く
其徐如林 其の徐(しず)かなること林の如く
侵掠如火 侵掠すること火の如く
不動如山 動かざること山の如し
上杉謙信は越州(新潟県)、武田信玄は甲斐(山梨県)の大名である。信州(長野県)はその中間地帯にあり有力大名がいなかったことから、両雄の草刈場となっていたのだろう。
川中島は三角地帯の2辺を大河で1辺を山で囲まれていたので、雌雄を決する決戦場として最適だったのだろう。川中島の戦いは主なものだけで5回、12年におよんだという。地元民としては大迷惑だったにちがいない。
両雄がこのような地域戦を繰り返している間に、信長が上京して天下に覇をとなえることになった。両雄とも武としてはすぐれていたかもしれないが、信長の政治感覚に敗れたのである。
意外なことに、境内には芭蕉の句碑もあった。
十六夜もまだ更科の郡かな
令和の世になってもまだ、人は争いを繰り返し、醜態をさらしている。真如の月があまねく照らす日はいつなのか。
2024年1月17日水曜日
善光寺、浅間山
芭蕉の『更科紀行』の旅はさらに続く。
『更科紀行』は紀行文といっても、『おくのほそ道』のように地の文が十分でない。どちらかというと句集の前書、詞書といったふうである。更科あたりから地の文はない。句の内容から、その後の旅をおしはかるしかない。
十五夜の翌晩、すなわち十六夜も、ひきつづき更級にいた。
いざよひもまださらしなの郡哉
謡曲『姨捨』のイメージを踏まえた「俤や姨ひとりなく月の友」の気分をなお引きずっている。
その後、善光寺。
月影や四門四宗も只一ッ
一生に一度は参れ善光寺。三度目だろうか。牛にひかれて善光寺参り。JR篠ノ井線に乗って姥捨駅からやってきた。姥捨駅は無人であるから、長野駅で精算。
善光寺は日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺であることから、宗派の別なく宿願が可能である。つまり、四門四宗も只一つ。ただ一つの月が闇を晴らし、真如の月が煩悩を晴らす。
善光寺の東に長野県立美術館・東山魁夷館がある。「風景は心の鏡である」。スマホ上は営業中とあったのだが、残念ながら年末年始で休業中だった。「庵野秀明展」もおなじ。東山の白馬とも庵野のエヴァとも会えず。
さらに、浅間山。
吹とばす石はあさまの野分哉
浅間山も歌枕。『伊勢物語』第八段。
むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ。あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、
信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ
むかしもいまも、街に住みづらさを感じたをとこたちは信濃の国や浅間の嶽をめざしたようで。
2024年1月16日火曜日
姨捨山(2)棚田・田ごとの月
2024年1月15日月曜日
姨捨山(1)姥捨駅、長楽寺