2024年2月20日火曜日

太宰府路散策(第2回)(2)

 

 御笠山の名は宝満山になっている。それでは御笠川の名も宝満川になってよいのではないか?もっともな疑問であるが、宝満山南部に発し、南のほう筑後平野へ流れ下り、筑後川と合流する川の名が宝満川となっている。そのせいか、こちらの川は御笠の名を残している。

朱雀大橋を歩いて、御笠川を渡る。渡り終えるとすぐ左手に歌碑がある。

 大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ 柿本人麻呂

この歌には万葉集に題詞がある。「柿本人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作れる歌」。筑紫への海路・海峡を見れば、古事記にあるイザナギ・イザナミによる筑紫の国産みの時代が思い起こされるなぁ、筑紫の神さま海路の安全を頼んます。

この場所になぜ、このような歌碑が?この謎は歌碑の裏に回ればすぐ解ける。そこに大宰府正門(朱雀門)の礎石があるから。そして、朱雀大通りの北を見れば大宰府政庁(=遠の朝廷)跡が見えている。島門(海峡)ではなく正門であるが、たしかに大君の遠の朝廷とあり通ふ門なのである。

正門は平城京・平安京でいえば羅城門である。聖俗の境界。鬼も出る。芥川龍之介の小説『羅城門』の舞台にもなれば、黒澤映画「羅城門」の舞台にもなる。

朱雀大通りをはさんで両側にこの礎石があったとすれば、とても大きな門である。VRがあれば、ここから大宰府政庁の豪壮な建築を見ることができるだろう。そこからいまは住宅地になっているところを2ブロック歩くとようやく大宰府政庁跡に到着。

歌碑探しゲームをかねていたところ、参加の子どもが歓声をあげる。三叉路になっている政庁跡の信号をわたると、右手にまた歌碑がある。

 やすみししわが大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ 大伴旅人

60歳をすぎて大宰帥として大宰府に赴任したときの歌である。九州にやられたけれど、都もここも同じだと思う。赴任時の気概とも、やせがまんともとれる歌である。

妻・大伴郎女をともなっていたが先立たれる。それ以後つくられた、酒を誉め、妻を偲ぶ歌が多数、万葉集に残されている。妻に先立たれなければ、ただの官人に終わったかもしれないが、そうでないところが人生と歴史の妙である。

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