2023年7月5日水曜日

憲法に意味はあるのか?

 


 あすから北海道は大雪山縦走にでかける計画だった。が、予定していた白雲岳のキャンプ地に熊の母子が出没しているということで、今年は縦走を断念することにした。まことに残念。

さて、米連邦最高裁が、これまで容認していた中絶権を否定したり、大学が人種による入試選考をおこなうことを平等権に違反すると判示したと紹介した。

憲法解釈をめぐるこのようなブレを目の当たりにすると、思い出されることがある。ハンセン病訴訟に勝利して、各地でその報告をしてまわっているときだ。北九州のカトリック教会関係者に依頼されて、講演をおこなった。

ハンセン病問題は政府・行政による人権侵害にとどまらない。われわれは、らい予防法という国会の立法行為による人権侵害、それが違憲であると訴えた。

熊本地裁判決は、らい予防法の違憲性を断罪した。小泉首相は、自身の思惑もあっただろうが、これに対して控訴を断念し、判決は確定した。そうした報告をおこなった。

報告後の質疑応答。「憲法9条は戦力を保持しないと明記しているにもかかわらず、憲法解釈により自衛隊が存在している。憲法に意味はあるのか?」という質問がなされた。

一般に、法解釈は算数の問題とはちがう。算数の問題であれば、誰がやっても同じ答えになる。しかし法解釈はちがう。背後には価値判断が存在し、人によって解釈は分かれる(ただし、国会議員の考え方の幅に比べれば、法律家の解釈の幅は狭い。法律の文言を前提とするのであるから、あたりまえだ。)。

憲法解釈となるとなおさら。憲法は法といいながら、半分は政治である。歴史的にも、ちがいがある。フランス革命期には政治的宣言にすぎなかったものが、次第に法に近づいてきている(規範性が増している)。

英米法と大陸法によっても、ちがいがある。大陸法というか憲法裁判所が存在する国では、事件を離れて違憲・合憲の判断がなされる。英米法のばあい、個別事件を審理するなかで、その事件を解決するのに必要な限りで判断がなされる。日本は後者だ。

日本最高裁が憲法9条に基づき自衛隊を違憲だと断じたことはないかもしれない。しかしそのことは憲法が無意味であることは意味しない。

究極の人権は、国民の抵抗権である。憲法とくに人権規定は、政府に対する抵抗のシンボルである。国民がその下に結集できる「錦の御旗」である。それが存在しない場合を思い浮かべれば、その意味は容易に首肯することができる。

憲法とくに人権規定は、国民の運動に支えられている。国民の運動が強くなれば憲法も強くなるし、運動が弱くなれば憲法も弱くなる。

憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって(97条)、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない(12条)。憲法や人権に関するこのような性格は、憲法に明記されているところである。

質問された方はずっと運動経験が豊富そうで釈迦に説法と思ったが、そのように回答した。歴史的な憲法判決と控訴断念の威光もあり、素直に納得していただいた。と思う。

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