きのうNHKの「知恵泉」で渡辺崋山がとりあげられていた。
渡辺崋山といってもピンとこない人がほとんどだろう。ピンとくる人は日本史をまじめに勉強した人か、美術の教科書をなめるように眺めていた人だろう。
日本史をまじめに勉強した人であれば、幕末ちかく、髙野長英とともに蛮社の獄で罰せられた人だと知っているだろう。また美術の教科書をなめるように眺めていた人は、国宝の鷹見泉石像(東京国立博物館蔵)に覚えがあるだろう。
ぼくの場合、さいきん渡辺崋山の墓参りをしたばかり。といって、わざわざ崋山の墓参りに出掛けたわけではない。例の伊良湖岬から豊橋への旅の途中、たまたま崋山の菩提寺に行き当たった。
渥美半島は知多半島とともに三河湾をカニの爪のように挟みこんでいる。細長いので、地図を見るだけだと、海の中道ぐらいの規模感と思ってしまう。
しかし、実際には全長50キロメートル、幅5~8キロメートルあり、現地では普通の平野と区別がつかない。それでも半島を吹き抜けていく冬の寒さは厳しいようだ。
豊橋からは豊橋鉄道渥美線が半島の中を西へ延びている。ただし、渥美半島のほぼ中央、三河田原駅まで。伊良湖岬から三河田原駅まではバスである。
田原は城下町である。古くは今川義元や徳川家康が攻防したという。三河田原駅まえには、寺下通りが西へ伸びている。城下町によくあるように、通り沿いに、城宝寺、慶雲寺、龍泉寺、龍門寺が並んでいる。
当初のお目当ては、龍泉寺。芭蕉の句碑があるから。駅前から龍泉寺をめざしててくてく歩いていたら、城宝寺。渡辺崋山の菩提寺とあったので、墓参させてもらった。
崋山の家は若いころ赤貧だったという。少しでも収入を得ようとして、絵を習い、才覚を伸ばしていったようだ。
田原藩じたいも貧窮し、藩主をお金持ちの姫路藩から迎えるなど苦労していたようだ。崋山はそうした運動に身を投じ、やがて家老に就任し、藩政改革に尽力したという。
画もかけるし、政治にも明るかった。しかし蛮社の獄は、陰謀に負けたようだ。自死したのは1853年。明治維新まであと30年ほどだ。
墓参の後、龍泉寺の句碑へ。句は『笈の小文』のなかの、次のもの。
冬の日や馬上に氷る影法師
0 件のコメント:
コメントを投稿