2022年4月13日水曜日

運命


(四王寺山のヤマブキ、花言葉は気品、崇高)

 きのうの記事で、そのうち書くと予告した九州にきた経緯について書こうと思う。父は黒崎窯業に勤めていたサラリーマンだった。黒崎窯業は新日鉄の溶鉱炉に耐火レンガを供給していた。新日鉄が風邪をひけば肺炎になる関係だった。

会社は大阪にいくつか工場をもっていた。高校2年生のころ、岸和田工場をたたむことが決まった。いま東岸和田のショッピング街になっているあたりだ。

岸和田工場で働いていた人たちは大阪に残るか北九州へ帰るかの選択になった。多くの人は大阪に残った。その時に決断していれば、父も大阪に残ることになったと思う。

しかしその選択を迫られた時期、父は交通事故で入院していた。そのため、結論を出す時期が半年ほど後ろへズレた。そのころには皆、九州へ帰ればよかったと話をしていたのだろう。父は九州へ帰ることに決めた。

ぼくらが受験期をひかえていたこともあり、父だけ1年早く単身九州へ戻った。これに伴い、それまで関西の大学を受験しようと考えていたぼくも九州の大学を受験することに決めた。運命というほかない。

この選択がなければ、弁護士になったかどうかも分からない。いまの事務所に入ることはなかったと思う。山に登るようになったかどうかも分からない。

わが事務所で言えば、故落合弁護士は目的追求型の人生だった。中学のとき、中坊弁護士の生き方にあこがれ、弁護士をめざし、弁護士となった。

運命というとかっこよいが、目的追求型の人生に比べると、状況に流されているだけと言えるかもしれない。そういう生き方もあってよかろう。

先日の春研修で、Yさんがわが事務所に入ることになったのは運命だと言っていた。Yさんは大学卒業後、他の職種・職場で働いていた。いまひとつ働きがいを感じられないでいたらしい。

同じ大学、同じ部活の先輩がわが事務所の職員だった。その先輩からわが事務所のよい評判を聞いていたという。あるとき、部活の飲み会が開かれ、参加した。その際、先輩の言葉を思い浮かべた。

家に帰って、何気なくわが事務所を検索したところ、新事務員を募集していた(数年ぶりのことである。)。応募期限まで残すところ1日という瀬戸際だった。これに応募したところ、厳しい試験に合格することができた。運命だという。

ちなみに、わが事務所の採用試験はわりと厳しい。筆記試験はもちろん、面接試験のハードルが高い。一般の企業・事業所であれば、採用担当者数名との面接であろう。

うちの場合、20名全員との面接が必要であり、全員の承諾が必要である。事務局も全員参加する民主的運営であるから。

まずは4つのブースに分かれて、それぞれのブースの面接をクリアしなければならない。20人くらいの受験者のなかから、3人にしぼる。

その3人で再度、全員の面接を受ける。採用するほうもたいへんだが、受験するほうはもっとたいへんである。それを突破したときの嬉しさといったらなかろう。

ぼくが九州に来ることにならなければ、いまの事務所に入ることはなかった。わが事務所もいまのようではなかった可能性が高い。そうなると、Yさんの運命も、ぼくが九州に来ることになった1978年(昭和53年)に決まったといえるかもしれない。

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