日曜は母たちと墓参。いまは唐津市に編入された相知町坊中というところまで。唐津市街から南へ10キロメートル入ったところである。
坊中というぐらいだから、盆地というか谷のなかにある集落である。過疎化が著しい。こんかいは、遺産として承継した山林などの処分もかねている。
父方の長男の長男として相続したものの、処分する費用のほうが高くつく物件である。それでも動かそうとするとあちこちから異議がでて、きょうまで持ち越してきた課題である。
弁護士にしても当事者となると、このありさまである。全国には、このようにして解決できない相続案件が無数に存在するのであろう。
北には岸岳山がそびえて・・・標高300メートルくらいだろうか。四王寺山より100メートルくらいは低く、やや傾いだテーブル状になっている。
山には城跡がある。歴史は古い。平安時代943年、源久は賊をほろぼした功で、松浦郡を与えられたという。久は源(渡辺)綱の曾孫。綱は、光源氏のモデルの一人とされ、百人一首に和歌もとられている源融の子孫である。
その子・源持(たもつ)が1150年岸岳城を築いた。そして波多姓を名乗った。持は1159年保元の乱の際に戦死した。波多氏は17代続いた。岸岳城(17代波多守親)は豊臣秀吉の怒りに触れ、1594年に滅ぼされた。九州の片隅ながら、最初から最後まで、中央の戦乱と無縁ではいられなかったようである。
秀吉による虐殺の記憶は地元に残り、心霊スポットとして有名である。姫落としなどという「名所」もある。佐藤愛子の『神様のおめぐみ』に「岸岳城奮戦記」として紹介されている。むかしは坊中側から登れたようだが、いまは北波多側に登り口があるらしい。
たくさんの紫の花が遠望された。ヤマフジかと思ったら、桐の花らしい。従兄弟からおしえられた。桐は生長がはやく二酸化炭素をたくさん吸収するため、カーボンニュートラルとして注目されているらしい。これら顧問先社長からの受け売りだ。
墓参後は母方の実家でくつろぐ。コロナ後ひさびさ。従兄姉たちも集まってくれた。昔話に花が咲く。記念撮影も楽しい。話題はお約束どおり、祖父が手がけた事業の数々に及ぶ。
唐津には唐津炭田と呼ばれる大小の炭鉱群があった。近代以降、良質な石炭を産出した。坊中の辺りは、芳谷炭鉱があり、三菱が採掘していた。
伯母らの話によると、多くの炭鉱労働者が住み着き、煌々と灯りがついていたらしい。祖父はかれらを相手に質屋を営んでいたらしい。
母方の伯父2人が戦死している。阿武隈という巡洋艦、朝霧という駆逐艦に乗船していた。話題はロシアによるウクライナ侵略へと及び、戦争の悲惨さ・愚かさをしみじみと語ってくれた。
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