百間石垣下部にある滝。四王寺山に築かれた大野城は、尾根には土手を、谷には石垣を築いて防御としている。石垣には、大石垣、小石垣などあるが、百間石垣が最大。
2024年4月9日火曜日
四王寺山の春(2)
2022年4月13日水曜日
運命
きのうの記事で、そのうち書くと予告した九州にきた経緯について書こうと思う。父は黒崎窯業に勤めていたサラリーマンだった。黒崎窯業は新日鉄の溶鉱炉に耐火レンガを供給していた。新日鉄が風邪をひけば肺炎になる関係だった。
会社は大阪にいくつか工場をもっていた。高校2年生のころ、岸和田工場をたたむことが決まった。いま東岸和田のショッピング街になっているあたりだ。
岸和田工場で働いていた人たちは大阪に残るか北九州へ帰るかの選択になった。多くの人は大阪に残った。その時に決断していれば、父も大阪に残ることになったと思う。
しかしその選択を迫られた時期、父は交通事故で入院していた。そのため、結論を出す時期が半年ほど後ろへズレた。そのころには皆、九州へ帰ればよかったと話をしていたのだろう。父は九州へ帰ることに決めた。
ぼくらが受験期をひかえていたこともあり、父だけ1年早く単身九州へ戻った。これに伴い、それまで関西の大学を受験しようと考えていたぼくも九州の大学を受験することに決めた。運命というほかない。
この選択がなければ、弁護士になったかどうかも分からない。いまの事務所に入ることはなかったと思う。山に登るようになったかどうかも分からない。
わが事務所で言えば、故落合弁護士は目的追求型の人生だった。中学のとき、中坊弁護士の生き方にあこがれ、弁護士をめざし、弁護士となった。
運命というとかっこよいが、目的追求型の人生に比べると、状況に流されているだけと言えるかもしれない。そういう生き方もあってよかろう。
先日の春研修で、Yさんがわが事務所に入ることになったのは運命だと言っていた。Yさんは大学卒業後、他の職種・職場で働いていた。いまひとつ働きがいを感じられないでいたらしい。
同じ大学、同じ部活の先輩がわが事務所の職員だった。その先輩からわが事務所のよい評判を聞いていたという。あるとき、部活の飲み会が開かれ、参加した。その際、先輩の言葉を思い浮かべた。
家に帰って、何気なくわが事務所を検索したところ、新事務員を募集していた(数年ぶりのことである。)。応募期限まで残すところ1日という瀬戸際だった。これに応募したところ、厳しい試験に合格することができた。運命だという。
ちなみに、わが事務所の採用試験はわりと厳しい。筆記試験はもちろん、面接試験のハードルが高い。一般の企業・事業所であれば、採用担当者数名との面接であろう。
うちの場合、20名全員との面接が必要であり、全員の承諾が必要である。事務局も全員参加する民主的運営であるから。
まずは4つのブースに分かれて、それぞれのブースの面接をクリアしなければならない。20人くらいの受験者のなかから、3人にしぼる。
その3人で再度、全員の面接を受ける。採用するほうもたいへんだが、受験するほうはもっとたいへんである。それを突破したときの嬉しさといったらなかろう。
ぼくが九州に来ることにならなければ、いまの事務所に入ることはなかった。わが事務所もいまのようではなかった可能性が高い。そうなると、Yさんの運命も、ぼくが九州に来ることになった1978年(昭和53年)に決まったといえるかもしれない。
2021年4月15日木曜日
君の名は。ーかさね
君は山なの?などと、トミーがトンチンカンな問いをしているうちに、芭蕉一行は那須野に至りました。有名な場面です。
那須野は広大で縦横に道が分かれていました。いまのようにナビつきスマホを持参していなかった旅人は、よく道迷いをしていました。そこで芭蕉一行は、道迷いしないよう馬を借りました。すると、
小さき者ふたり、馬の跡慕ひて走る。ひとりは小姫にて、君の名はと問ふと、名を「かさね」といふ。聞き慣れぬ名のやさしかりければ、曽良が一句。
かさねとは八重撫子の名なるべし (撫子は、ナデシコ)
問うなら小姫の名でしょう、せめて花の名。トミーがんばれ。
※写真は、鎌倉・東慶寺の八重ヤマブキ、京都・醍醐寺の八重サクラ、那須野のツツジ、熊野古道の小殿・小姫です。八重撫子の写真は手もとにありませんでした。3つの写真を頭のなかでブレンドして、那須野の小姫・八重撫子のイメージを組み立ててください。
2013年4月15日月曜日
風の万里 黎明の空
『風の万里 黎明の空』(上・下)
新潮文庫版の新刊。
小野不由美著・「十二国記」の
Episode4。
王となった陽子の
さらなる成長物語。
脇の祥瓊,鈴らの
成長物語でもある。
旅をしたり他者と関わったりするなかで
自己を鍛え,作りかえていく。
他人を羨んだり,頼ったりするんじゃなく
自分の足で,自分の責任で自立するように。
下手な政治学の教科書より
政治とはなにかがよく分かる。
後半,嬉野行きの高速バスのなかで
がーっと読んだ。
あとすこしで終わりというところで
嬉野のバス停に着いてしまった。
あーっ
いいところだったのに。
続きが
読みたい~。
てな
感じでした。
写真は
八重のヤマブキ。
花言葉は
気品,崇高,待ちかねる。
2011年5月2日月曜日
ヤエヤマブキ
大学時代、ワンダーフォーゲル部の企画で
「みんなで歩こう50キロ」というのがありました。
学内外に呼びかけ、とにかく50キロ歩くという催しで
恩田陸さんの「夜のピクニック」みたいな感じ。ぼ
時速4キロメートルで歩いたとして12時間半
食事もしますから、もっとかかります。
足にマメのひとつ、ふたつはでき
最後はくたくたになります。
途中、先輩のリュックに蝶がとまっていたので
指摘すると、「幸せの徴(しるし)よ。」。
なんのことかと思いきや
映画「慕情(Love Is a Many Splendored Thing) 」からの引用。
主人公の中国人の女医ハン・スーインが恋をした戦場記者マークに
そのような中国の言い伝えを教える場面があります。
その話を下敷きにした、とっさのやりとり
とても感心しましたし、懐かしい思い出です。
さてヤマブキのうち八重咲きになる品種がヤエヤマブキ
八重ヤマブキには実ができません。
種子植物に進化したはずのヤマブキが、たとえ実をつけずとも
美しくあるために八重に進化したというのは、とても人間的。
もっともそれだけでは種の保存がはかれませんから
地下で茎を横に伸ばして、種を増やします。
またその美しさから人間が庭や垣に植えるという形で
増えています。
このようなことは王朝貴族にも知られていたようで
兼明親王の歌が「後拾遺和歌集」(1086)に収められています。
七重八重 花は咲けども 山吹の
みの一つだに 無きぞ悲しき
それから400年が経ち
江戸城を築いた太田道灌の山吹伝説。
道灌が父を尋ねて越生の地に来たところ
にわか雨にあい、蓑を借りようと農家に立ちよった。
そのとき、娘が出てきて一輪の山吹の花をさしだした。
道灌は、蓑を借りようとしたのに花をだされ腹立たしかった。
後でこの話を家臣にしたところ、それは兼明親王の歌に掛けて
つぎのとおり奥ゆかしく答えたものだと教わった。
貧しさゆえ、悲しいことに
蓑(=実の)一つさえ持ちません。
道灌は古歌を知らなかったことを恥じて
それから歌道に励んだという。
歌道より善政(救貧施策)に励んでほしい気がしますが
いかにも日本的な美しい話であることに違いありません。











