2011年2月21日月曜日

 梅花の歌



 天平2年(730年)正月13日(いまの2月16日ころ)
 大伴旅人は管下の国司や高官を招いて宴を開きました(万葉集・巻第五)。

 旅人は大宰の帥として大宰府に妻と子(家持・書持)を伴って赴任し
 山上憶良とともに筑紫歌壇を形成しました。

 奈良時代のことですから
 菅原道真公の左遷(901年)に先立つこと170余年です。

 この宴はいまの裁判所でいえば、福岡高裁長官が自宅に九州各県の
 地方裁判所長や事務局長を招いて花見の酒宴という感じでしょうか。

 出席したものたちがそれぞれに、梅を題にして歌を詠みました。
 それが太宰帥の宅に宴して詠める「梅花の歌」32首

  序

 天平二年正月の十三日に、帥老の宅にあつまりて、宴会をのぶ。

 時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。

 梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

 しかのみにあらず、曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて蓋を傾け
 夕の岫に霧を結び、鳥はうすものに封ぢられて林に迷ふ。

 庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

 ここに、天を蓋にし地を坐にして、膝を促けて觴を飛ばす。
 言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。

 淡然として自ら放し、快然として自ら足る。

 もし翰苑にあらずは、何をもちてか情をのベむ。
 詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。

 よろしく園梅を賦して
 いささかに短詠を成すベし。

 そして旅人の歌(32首のなかの1首)

   わが園に 梅の花散る ひさかたの

              天より雪の 流れ来るかも
 
 旅人の子・大伴家持が万葉集を編纂したとすると、身びいきも
 あったかもしれませんが、私も好きな歌です。

 旅人は妻を太宰府で亡くしています。また政治的には長屋王派だとか。
 王は前年2月に藤原氏の陰謀により自害させられています。

 天より流れ来た雪には故人のメッセージが含まれていたことでしょう
 追悼の歌として詠まないほうが広がりがあっていいかもしれませんが。
 

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