2011年2月16日水曜日

 武士と遊女と自由



 いま、ちくし法律事務所には司法修習生、九州大学のロースクール生の
 それぞれ1名が研修にきています。

 彼女・彼とはなしをすると、記憶がタイム・スリップし
 つい受験時代のことを思い出してしまいます。

 話を戻すと、「漂砂のうたう」です。

 主人公の定九郎は、根津遊郭の妓楼の立番という
 底辺の生活からいつ逃げだそうかときっかけをさぐる毎日です。

 しかし物語がすすむにつれ、定九郎の逃げ道はつぎつぎに
 ふさがれてしまいます。
 
 定九郎はもと武士ですから、手っとり早い逃げ道としては
 西南戦争で反政府軍に参加することです。

 賭場で働いていた同僚の山公は
 これに参加していきます。
 
 しかし「戊辰の戦で官軍の先頭にいた西郷は『賊』となり、田原坂や
 山鹿の戦いも、新聞各紙は西郷たち賊軍を無様に報じる」情勢に。

 かくて時代に逆行し、武士に戻るという逃げ道は断たれてしまいます。

 他方、小野菊ら遊女には、芸娼妓解放令が明治政府からくだされます。
 明治5年(1872)、遊女の人身売買の規制などを目的とした法令です。

 ペルーのマリア・ルーズ号事件がきっかけ。同船で苦力として捕らわれ
 ていた清国人が横浜港の英国船に助けを求めました。

 英国代理公使は明治政府に「人身売買は違法であるからペルー船を差し
 止めるように」と命じます。

 アヘン戦争(1840-42)の余燼さめやらぬころのことですから、代理公使の
 腹には人権のほかに関心があったはずですが、それは書かれていません。  

 明治政府はペルー船に対し、苦力を解放するよう申し渡しました。
 すると、ペルー側は日本も人身売買を行っているではないか!と反論。

 明治政府は、それならばということで
 芸娼妓解放令をだしたわけです。

 外国にいわれて付け刃で形だけ自由を差し下す姿勢は
 明治のはじめからのことのようです。

 問題は、前借金を免除させる理由で
 「娼妓芸妓は牛馬と同じ。牛馬に借金の返済を迫る理由はない」とか。

 「牛馬解き放ち令」と揶揄されるゆえんです。

 令を発した司法卿(法務大臣)は江藤新平。さすが佐賀藩士
 芸人はなわが知っていれば「佐賀県」の歌詞になったことでしょう。

 江藤じしんは明治6年に下野、翌7年いわゆる佐賀の乱をおこし
 西郷より先に刑死しています。

 政治の世界が「一寸先は闇」であることも
 明治のはじめからのことのようです。
 

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