田中千智《生きている壁画》
木内克「エーゲ海にささぐ」
ローマ展の横で、福岡市美のコレクション展をやっていた。現代美術は鑑賞がむずかしい。むかし(1985)大野信が書いた『抽象絵画への招待』(岩波新書)を読んで、現代美術がすこし分かった気がした(残念ながら絶版)。
抽象画家として、宇佐美圭司やジャクソン・ポロックを紹介していた。と思う。
話は飛ぶが、いまNHKBSで「舟を編む~私、辞書つくります」をやっている。原作も読んだし、映画もみたが、どちらとも違う味わい。あらためてテレビドラマ化した意気込みが伝わる。
きのうは主人公のみどり(池田ライザ)が先輩に教えられて語釈の勘所を学ぶ。「血潮」や「みずきしげる」の語釈を通じて。
「手のひらを太陽に」の歌を知っているだろう。
♪ぼくらはみんな生きている
生きているから歌うんだ・・・
手のひらを太陽にすかしてみれば
まっかに流れるぼくの血潮・・・
という、あの歌。作詞はだれあろう、やなせたかしである。『それいけ!あんパンマン』のあの作者なのだ。これを知るだけで、血潮という言葉に血潮が通う。
みずきしげるは、ゲゲゲの鬼太郎の作者である。それだけでなく『総員玉砕せよ』も書いている。みずきしげるの膨大な人生・エピソードのなかから、そういう取捨選択をする。その作業のなかで、無味乾燥に思えていた辞書の語釈に「血潮」が通っていることを学ぶ。なるほど。
大野の『抽象絵画への招待』を一言でいえば、抽象絵画とは「現代人の血潮をワクワクさせるもの」である(昔一度読んだきりなので、誤読、他の作品との混淆の可能性がある。)。
それ以来、現代絵画を理解できたかどうかで判定することをやめた。血潮がワクワクするかどうかで判定する。理解しようとするより、ストライクゾーンがひろがることうけあいだ(といいつつ、上記写真を見ると、自分の鑑賞姿勢が全然いけてない気がする。)。
コレクション展のあとは常設展だが、撮影禁止だ。各自、市美のHPを検索してくだされ。野々村仁清の色絵吉野山図茶壺がだいすきだ。市美よ、よくぞ収集してくれた。
常設展を鑑賞したら、外にでる。よい天気だ。屋外常設展示が映える。大濠公園の開放感のなか、作品たちも楽しそうだ。
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