2024年3月14日木曜日

立花宗茂と高橋紹運

 
岩屋城跡から太宰府市街をのぞむ

 御花は柳川立花家の別邸。松濤館ロビーには立花宗茂の甲冑が飾られていた。

立花宗茂は太宰府とかかわりがある。四王寺山には岩屋城跡がある。観世音寺の裏からひと登り。

岩屋城跡は、戦国末(1584年)における島津と大友の戦い。大友の背後には全国制覇をめざす豊臣秀吉がいた。

島津義久は九州制覇をめざし、2万~5万(諸説あり)の大軍を擁して北上した。対する大友がたの武将は高橋紹運。わずか763人の手勢で岩屋城に籠城した。

高橋勢は勇猛果敢に防戦し、最終的には玉砕したものの、島津勢はここで足止めをくらった。豊臣勢20万が九州に来訪し、涙を飲んで薩摩に引き返すことになった。

岩屋城跡からすこし下ると紹運の墓がある。高橋紹運の長子が柳川藩の初代当主である立花宗茂である。

岩屋城の戦いの時、立花宗茂は立花山城を守っていた。岩屋城跡からしばらく登ると、四王寺山の稜線につく。稜線を反時計まわりに歩くと遠見台につく。

遠見台からは東方向・香椎方面への展望が開ける。香椎市街の背後には立花山がひかえている。立花山城があったところだ。

大友、島津、豊臣、徳川と世の勢力図は変転した。しかし高橋・立花家は、主家を見誤ることなく幕末まで存続した。武にすぐれていただけでなく、情勢を見極める眼力も兼ねそなえていたのだろう。

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