2024年11月18日月曜日

人権都市宣言のまち作り、私はこう考える(1)

 

 日曜は依頼を受けて、太宰府講座の講演だった。国会議員、県議会議員、市長・元市長、市議会議員、銀行員、不動産会社社長らによる連続講座の一環。テーマは「太宰府のまち作り、私はこう考える」について。場所は五条のいきいき情報センターである。

 これまで多数講演依頼を受けてきたが、まち作りについての依頼は初めて。不動産、賃貸借、雇用、不法行為、離婚、相続、債務整理などであれば、いつもの仕事の延長であるから容易である。しかし、まち作りとなると・・・。しかも、地元議員や地元企業のトップに混じってとなると、さらに話す内容に苦労する。

 そう思って悩んでいたとき、西鉄五条駅前を歩いていたら「人権都市宣言のまち『だざいふ』 あらゆる差別をなくし 人権文化を築いていこう 太宰府市・太宰府市教育委員会」と標語が書かれた看板を目にした。そうだ、その線で行こう。人権の話であれば、自分のフィールドだ。ということで、「人権宣言のまち作り、私はこう考える」と題して講演をおこなった。

 上記標語のような考えは、太宰府市にかぎらず一般的におこなわれているところである。しかし、やや疑問なところがある。この標語は、誰が誰に対して言っているのか。太宰府市が市民に対して言っているのだろうが、そうなると人権の意味を踏まえて言っているのか疑問が残る。

 人権とは、憲法によって保障された自由や平等という国民の権利である。イギリス本国の圧政に抵抗したアメリカの独立革命、そこから飛び火したフランス革命にはじまる。日本国憲法はそれらに連なるものである。したがって、人権は国民や市民が権力に対して要求し、権力をしばるものである。市民の皆さんは人権を守ってくださいね~とかいうのは、「ちょっとちがう」、「わかってんのかい」という気がする。

 また「あらゆる差別をなくし」という点もひっかかる。むろん平等権は人権の大きな柱である。「虎に翼」で描かれたとおりである。しかし人権イコール差別禁止というと、人権理解として狭すぎる。

 日本の教育現場における人権教育イコール同和教育というのは、やはりちょっとちがう気がする。日本における差別の歴史に照らし同和教育の重要性はいささかも否定しない。が、人権は、平等権だけでなく、自由権、参政権などもっと広がりをもったものである。同和教育を重視するあまり、これら重要な人権を教育する機会を失しないようにしていただきたい。

 人権について、このような理解を踏まえたうえで、市民が人権を守るよう啓発することは良いことだろう。その場合、市民が人権を守るという意味は、一般的にはどうなるだろう?

 憲法や人権が直接に市民や民間企業を拘束するかについて争われた事件として、三菱樹脂事件がある。採用にあたり思想差別をしたとして、憲法19条違反が問題にされた。

 私人間に憲法は適用されないという説、直接適用されるという説、間接的に適用されるという説に分かれたが、最高裁は間接的に適用されるという考えを示した。

 私人間を拘束するのは民法であるが、民法には一般条項を定めた規定が存在する。公序良俗に違反する契約は無効であるとか、不法行為をおこなった者は損害賠償義務を負うとかいう規定である。間接適用とは、それら「公序」とか、「不法」とかの中身として憲法が適用されるという考え方である。憲法に違反する契約は、公序良俗に違反するものとして無効になる。憲法に違反する行為は、不法行為として損害賠償義務を生じる。という具合である。

 このような理解に立てば、人権と民法の定める権利は、地続きになっていると考えることも可能である。自動車を運転していて人をはねて怪我をさせたとき、憲法の保障する生命・身体の安全を侵害したといえるのである。しかし、民事紛争にいちいち人権を持ち出すのは大ごとなので、ふだんはそのような議論をおこなわない。民法上の議論で事足りるのである。

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