岩にとりつくオヒョウの木からひと登りすると、若い木々の美林が広がる。この先は湿地になっている。くじゅう山も、この数年豪雨被害に遭っている。いままで美林が広がっていたところに土砂が流入し、呼吸が十分にできないため枯死してしまった林がここかしこにみられた。
しばらくは谷沿いに、かくし水から先は尾根沿いの原生林をゆるやかに登っていく。標高は1,000mちかい。葉を落とした落葉樹の巨木が林立する。ブナの樹影が美しい。ミソサザイやシジュウカラなどの美声が森に満ちている。キツツキのドラミングが歌にリズムをそえていた。
ソババッケ。むかしはソバ畑で、ソババタケがなまったといわれる。ここも豪雨で土砂が流入している。枯死した木々が異界のようだ。奥は右手が平治岳、中央凹部が大戸(うとん)越、左手が北大船である。登山道も荒れている。平治岳は5月末からミヤマキリシマの紅に染まるが、いまはまだ冬枯れのままである。
振り返ると、いま下ってきたばかりの稜線上をタヌキのカップルが仲よく散歩していた。やれやれ、うるさい人間どもが行ってしまったわい-ということか。おじゃましてすみません。
冬枯れのなかに、金青色に輝く植物がある。ヤドリギである。冬でも青々としていることから、古代より生命力の象徴とみなされてきた。大学生協にフレイザーの『金枝篇』が平積みにされていた。宗教社会学の副読本だった。金枝とはヤドリギのことである。
イタリアのある村には聖なる湖と聖なる木立があり、聖なるヤドリギが生えていた。誰も折ってはならなかったが、逃亡奴隷だけは例外だった。森の王は逃亡奴隷だけがなれたが、それには2つの条件があった。先代の森の王を殺すことと、金枝をもってくることである。
ヤドリギの下ではキスをすることが許されるという。クリスマスものの洋画をみていると、かならずそのシーンがある。これもヤドリギの生命力を借りて種の繁栄をはかるということなのだろう。いまでは下手をするとセクハラになりかねないが。
ソババッケからしばらくいくと、聖なる森がある。樹齢数百年とおもわれる樹が2本並んでたっている。片方の樹(左手)にはヤドリギがたくさん繁茂していた。われわれはここで日頃おとろえていた生命力の復活をはかることができた。
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