能楽師の今村嘉太郎さんにお願いしてチケットを入手し、お能『道成寺』をみてきた。
道成寺は和歌山県にある天台宗の寺院、山号は天音山。本尊は千手観音。安珍・清姫伝説で知られ、能だけではく、歌舞伎、浄瑠璃の演目にもなっている。
伝説では、東北の僧安珍が熊野詣の途次、清姫の住まう宅を宿としたところ、清姫が安珍に恋をし、裏切られたと知るや大蛇となって安珍を襲い、道成寺の鐘のなかに逃げ込んだ安珍を鐘ごと焼き殺したという。
能には主人公となるシテと文字どおり脇役のワキや、その他アイと呼ばれる役割があり、狂言方の人がつとめたりする。
CG映画をみなれたわれわれが舞台演劇をみにいくと、場面転換や演出効果などいろいろお約束ごとがある。
お能となるとさらにお約束ごとが多くなり、舞台上に笛や太鼓を演奏する人がいるし、お謡をうたう人たちもいる。さらに後見といって、シテの衣装替えを手伝ったりする人までいる。でもお約束ごととして見えないことになっていると思われる。
お能を鑑賞する人口がすくないのは、内容・言語がむずかしいこともさることながら、これらのお約束が邪魔になっているのではないかと思う。
能を鑑賞しはじめてしばらくは、これらお約束ごとが気になって、お能に集中できない。しかし、なんどかみているうちに、お約束ごとが気にならなくなってくる。こんかいはとても筋に集中することができた。
『道成寺』はオーケストラでいうとフル編成の大曲で、舞台上にたくさんの演者が競演することになる。お約束が身についていないと、筋と関係ない他の演者の存在が邪魔して筋に集中できない。
でもお約束が身についてくると頭のなかで整理がついて、筋と関係ない人たちの存在がみえなくなる。それで筋に集中しやすくなるのである。
道成寺を訪れたことがある(写真)。石碑に「鐘巻之跡」とある。大蛇が僧と焼き殺す際、鐘をぐるぐる巻にしたうえ、蛇身が炎となって焼き殺した。鐘巻とはそのことを指している。
能の傑作は複式夢幻能という形式をとっていることが多い。複式というのは前場と後場の二場面からなるということで、夢幻能となるのは後場である。主役のシテである神や霊がワキのみる夢や幻のなかに現れる。それで夢幻能。過去の出来事を回想し舞い歌うことにより過去を浄化して終了することが多い。
人は精神を患ったとき、過去を回想して整理しなおしたり、歌ったり舞ったりすることで癒やされるけれども、回想や歌舞音曲にはそうした効果があるのだろう。
『道成寺』は複式夢幻能にはなっていない。寺僧たちが祈祷により調伏し、大蛇が日高川に逃げて終了となる。ロード・オブ・ザ・リングのようなドラゴン退治の活劇ふうである。
安珍・清姫伝説に材をとるのであれば、清姫の悲しみに焦点をあてた複式夢幻能をつくりあげることも可能だったと思われる。そうならなかったのは、演じられた場所とスポンサーのちがいだろうか。
金閣寺をつくった足利義満の御前でやる演目としては複式夢幻能がうけただろう。しかし、和歌山県の道成寺でやるとなると、複式夢幻能はいささか高度すぎて寺僧や地元民にはうけなかったのかもしれない。
それで寺僧たちが活躍し、寺から悪者を追い出す活劇ふうにしたというのはうがちすぎだろうか。
※まったくのシロウト・個人の見解です。
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