2022年7月11日月曜日

E.M.フォスター短篇集


  とある事情で手元に本がなかったので、空港の本屋を冷やかした。いちおう紀伊国屋書店。例によってカレントなラインナップだったが、一冊だけ例外を主張していた。『E.M.フォスター短篇集』(井上義夫編訳・ちくま文庫)である。

ウィキによると、フォスターは1879~1970年のイギリスの小説家。主な作品は『ハワーズ・エンド』、『インドへの道』、短編『The Road From Colonus』など。異なる価値観をもつ者同士が接触することで引き起こされる出来事について描いた作品が多い。本の帯にもだいたいそのようなことが書いてあった。

『インドへの道』(1984年)はデビット・リーンの監督映画で観たことがある。なにをかくそう彼の大ファンである。好きな映画ランキングをおこなえば、『ドクトル・ジバゴ』、『アラビアのロレンス』が上位を独占すること間違いない。

そういわれてみれば、デビット・リーンのこれら作品も「異なる価値観をもつ者同士が接触することで引き起こされる出来事について描いた作品」だ。彼が『インドへの道』を映画化したのは肯ける。しかし当時はあまり感心しなかった。40年の時を経て、いまなら違う鑑賞ができるかもしれない。

いま短篇集の冒頭2作品を読み終えたところ。『コロヌスからの道』、『パニックの話』。やはりどちらも「異なる価値観をもつ者同士が接触することで引き起こされる出来事について描いた作品」。

『コロヌスからの道』はイギリス人父娘がギリシア旅行へ行った際の出来事と後日譚を描いたもの。コロヌスと聞いてピンと来る人はすごい。ソフォクレス作『コロヌスのオィディプス』でいう、あのコロヌスだ。

『おくのほそ道』を読んでいると、『平家物語』、『源氏物語』や王朝和歌の知識が当然の前提となっている。欧米文学の場合、ギリシア・ローマの古典がそれにあたる。『コロヌスからの道』も、『コロヌスのオィディプス』が当然の下敷きになっている。

主人公のルーカス氏はオィディプスであるし、娘のエセルはアンティゴネである。運命に翻弄されたオィディプスは予言に従って復習の神エウメニデスの聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望んだ。そしてこれを阻もうとする息子たちの画策にもかかわらず、オィディプスはコロヌスの地中深く飲み込まれていく(以上、ほぼウィキより)。

フォスターは、読者がそのような予想をすることを当然の前提としつつ、これを上手に裏切り、読者をアッと言わせる仕掛けになっている。うまいなぁ。

ジョイスの神話的手法とおなじだ。小さな偶然・日常的事件を大きな神話的世界に再編成していく。

いまネットフリックスで「Manifesto」を観ている。ネットフリックスのオリジナル作品はなべてそうだが、未知との遭遇・そのコンフリクトを描き、謎を追求・種明かしをしていくプロットが多い。その先駆者はフォスターといってもいいかもしれない。

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