この日、和賀岳に登る予定だったが、雨予報のため中止(コースタイムが7時間42分であること、クマ被害が報じられていること、登山口までのアプローチに往復2時間を要すること等も考慮した。)。角館(かくのだて)散策に切り替えた。
桧木内川、横町橋から。春には両岸にソメイヨシノの桜並木が2kmにわたってきれいなのであるが、いまはもう秋、誰もいない秋。
橋から東南へ。成就院薬師堂。角館城主が眼病にかかり祈願したところ治癒したことで、城内に薬師の礼拝所を建てて祈願したことがはじまり。
さらに南へ行くと常光院。戊辰戦争のとき、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離れ新政府軍に与したため同盟側と戦うことになり、常光院は戦時病院となった。
はるばる九州からも犠牲者がでている。大村藩7名、平戸藩7名、薩摩藩1名。計15名。平戸藩と薩摩藩の8名が境内に葬られている。
さらに南東へむかうと総鎮守神明社。
神明社を北上すると安藤醸造。味噌醤油を製造販売。
おいしい味噌醤油の最大の決め手(ミソ)はやはりおいしい水である。
蔵座敷。往時の繁栄をしのばせる。
さらに北上すると新潮記念文学館。新潮社初代社長の佐藤義亮が角館出身なので。
さらに北上すると武家屋敷街。角館は1620年領主芦名義勝により造られ、町割り400年。
ヨーロッパ中世の街並みが残るところは、近世以降の発展に取り残されたところが多い。角館も近代以降の発展に取り残された結果、街並みが保存されたのであろうか。
小田野家。佐竹氏の支流で、佐竹氏が常陸を治めていたころからの重臣。佐竹氏の秋田移封にともない、今宮氏の組下となり角館に移り、その後、佐竹北家の組下となった。
『信長の野望』でも佐竹氏はいたなという程度の認識なので、常陸から秋田への移封といわれてもピンとこない。戦国期中央の争いから離れていた事情は九州もおなじ。東北人も九州の大名をいわれてもピンとこないのだろう。
河原田家。関ケ原の戦いの後に芦名氏の重臣として角館へ。その後佐竹北家に仕えた。明治以降も学者や政治家を輩出し、第16代当主河原田次重は、私財で水力発電事業をてがけるなど地域の発展に貢献したという。
家のまわりに3メートル以上の雪が積もるので、蔵の入口も屋内にある。
釘隠しもおしゃれ。
白く見えているのはユリノキ。第17代当主河原田次繁が盛岡高等農林学校の同級生である宮沢賢治から結婚して贈られたものという。
ホトトギスだと思う。白花は初見。
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