2025年11月11日火曜日

司法研修所38期卒業40周年の集い


 司法研修所卒業40周年の集いが大阪弁護士会館で開催された。当職が司法研修所を卒業したのは昭和61年3月である。経歴詐称ではない。ちゃんとした卒業証書が実家に保存されている。みなさまに19.2秒以上お示しすることは可能である。

 その後の司法改革により様変わりしてしまったが、当時の司法試験合格者は1年で500人程度であった。昭和59年4月に司法研修所に入所し、38期と呼ばれた。戦後発足した制度であるから計算があうはずだ。

 大学の法学部で学んだ法律知識だけでは実務でとうてい役にたたない。実務で役にたつように実践的な法律知識を学ぶのが司法修習制度である。裁判官、検察官、弁護士の各志望者が一同に集められた。

 修習期間は2年間である。前期修習と後期修習の各4か月、合計8か月を東京の研修所で修習した。残る16ヶ月は全国各地の裁判所、検察庁、弁護士会に散り、それぞれの実務を各4か月間修習した。計算があわないのは裁判修習が民事裁判と刑事裁判にわかれ、8か月あるためだ。

 当時、湯島の岩崎弥太郎邸跡に司法研修所があった。千葉県の馬橋に寮があり、毎朝、千代田線の混雑に揺られ、通勤したものだ。給料も支給され、国家公務員の初年度とおなじ待遇であった。

 白表紙と呼ばれる分厚い事件記録をわたされ、判決や起訴状、訴状等を起案させられた。白表紙は個人情報が削除されているが、実際に起こった事件に基づくものである。

 研修所では50人ずつ10クラスに分かれていた。われわれは8組である。裁判官が6人、検察官が3人、残りが弁護士。修習終了後、それぞれの裁判所、検察庁、弁護士会に散った。

 その後、熱海で卒後10周年、京都で20周年、片山津で25周年(これ以降5年周期となる。)、福岡で30周年がそれぞれおこなわれた。福岡でおこなわれたときは幹事をおおせつかった。35周年はコロナ禍でとんでしまった。そして40周年は大阪である。

 8組は28人が集まった。64歳から77歳まで。鬼籍に入ってしまった人が6人。だから28/44=64%の出席率である。全体で190人(190/500=38%)の出席であるから、他のクラスよりずっと出席率がよい。

 心筋梗塞や脳梗塞で入院・手術経験のある者が4人もいた。その他の疾病でリタイアしたり仕事を大幅に制限している者もいた。やはりストレスの強い仕事である。元気で出席できることに感謝しなければならない。

 人生の8か月をたまたま一緒にすごしただけの面々ではある。しかし、仕事や家族・趣味等に関する近況、仕事をいつまでどのように続けるのか等に関する考えを聞いているうちに、ずいぶん励まされた。いつもは一人で悩んでいる問題に、みなも悩んでいることを知るだけで励まされた。元気でまた5年後に会おうと誓いあって別れた。

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