ネット検索の時代である。昼ご飯は本通り商店街からちょっとはずれたところにある広島風お好み焼き屋に入った。口コミでは店主の客あしらいが悪いとけなされているが、評価は4.2とまずまず。これは味は大丈夫という意味だろうと判断し、間違っていなかった。
さて残り午後の時間をどうしよう?選択肢としては鞆の浦と福山城である。孫連れでもあるので福山城とし、JR線で福山駅まで引き返した。
福山城は福山駅のすぐ北側。道路一本渡ればもう南門へ至る坂である。南門を入ると伏見櫓。天守閣とみまがうばかりだが櫓(やぐら)である。慶長年間に建てられたと推定される伏見城の櫓を1620年に移築したもの(現存)。なぜ、そんな立派なものを移築することができたのか。
福山城築城まで福山という街はなかった。築城したのは徳川家康の従兄弟の水野勝成。毛利など西国の有力外様大名に対する抑えとして築城。徳川の威信を示すため、幕府の全面的なバックアップが得られたのである。
もちろん天守閣に登る。残念ながら天守は空襲により焼けてしまっている。昭和41年に復興。
南側を望むと福山駅が見える。福山駅は昔の三の丸あたり。新幹線や在来線に乗って福山駅に来ると、もれなく旧福山城に入城したことになる。
福山駅のさらに南の景色。赤い広告塔がたつ天満屋のビルの左肩あたりが鞆の浦。鞆の浦は近年(でもないか)、ジブリ映画『崖の上のポニョ』で有名になった。
瀬戸内海の東西から潮が合流する場所で、古来、海上交通の要衝であった。大宰府をめざした大伴旅人、その先唐をめざした空海、最澄が通った。また室町幕府発祥と終焉の地であるとされる。近世では陸上交通の要衝として上記のとおり家康の従兄弟が支配・鎮護した。
水野勝成はすこし変わりものだったようだ。仕える殿をつぎつぎと変え、家康にも叱られたりした。しかし最後は家康の側近となりこの地を委ねられたのだから、大器晩成といってよいだろう。
西方。勝成は毛利ら有力外様大名の圧を感じたことだろう。
北方。
やはり兵どもが夢のあと。
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