2025年3月31日月曜日

天拝山(2)御自作天満宮

 


 芭蕉翁之碑。

 鶯の笠落としたる椿かな

 残念ながら、芭蕉は武蔵寺というか九州を訪れていない。元禄3年2月6日、伊賀上野の西島百歳亭で詠んだ句。椿の縁。

 古来、鶯は梅の花を縫って笠にしたてるのがお約束。百歳亭を訪れると、鶯がさかんに啼き、庭には椿の落花がたくさんあった。花はさかさまに落ちている。鶯が落とした笠なのだなぁ。

 梅を椿にしたところが俳諧。梅より椿のほうが笠っぽい。ここだと、天満宮、太宰府の梅にたいする武蔵寺、筑紫野の椿も表現されてさらにおもしろい。


 御自作天満宮。大宰府に左遷された道真が天を拝して無実を訴えたのが天拝山。山頂には祠がある。その下宮。自らを刻んだ像がご身体。


 紫藤の滝。道真が天拝山で無実を訴える前、身を清めたという。

 いま無実を訴えるなら、まず、ちくし法律事務所に相談してほしい。榎社から天拝山へ行くなら、途中であるし。

2025年3月28日金曜日

天拝山(1)武蔵寺


 ちくし事務所のウォーキング同好会で、天拝山トレッキングに行くことになったので、下見に行った。

 二日市温泉湯町から高速高架下を南西に入る。梅の花がかろうじて残っていた。


 登山口は武蔵寺。九州最古の仏跡である。

 天智天皇の3年、釈祚蓮勅命により九州に一宇を建立しようと筑紫にくだった天皇に協力して、土地の豪族で藤原鎌足の子孫、藤原虎麿が七堂伽藍を建立、椿の木で薬師如来を刻んで安置したのが始まりという。

 天智天皇が筑紫にくだったのは唐新羅と戦ったときのことだろうか。天智天皇の3年という年とあわない気がする。天智天皇は中大兄皇子のことで、かれは藤原鎌足とともに大化改新をなしとげたのであるから、藤原鎌足の子孫というのもどうなのだろう。


 天台宗。山号は椿花山。椿の木で薬師如来を刻んだ縁起にちなむものだろう。薬師如来は二日市温泉の温泉効果(薬効)とかかわりがあるだろう。椿は筑紫野市の木となっている。


 この写真撮影位置の右手には藤の木があり、長者の藤と呼ばれている。樹齢700年余。藤氏にちなむという。藤の花がさがるのはまだまだ先だ。 


 般若心経が石に刻まれている。

 般若心経は三蔵法師・玄奘がインドから持ち帰って中国語に翻訳したもの。時あたかも中大兄皇子と中臣鎌足が大化改新をおこなったころ(一方は仏典の翻訳、他方は殺戮。前者で世のなかを変えるほうが平和的)。

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空・・・(♪かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう・・・)

 観音菩薩は、悟りをえる(=彼岸にわたる)智慧の修行をおこなった時、この世のすべてはみな空であると見きわめた・・・

 三蔵法師の第一弟子は、孫悟空。読んで字のとおり、孫が空を悟った。

 この世のすべてはみな空であり、彼岸にこそ実がある。それを悟ることができれば、この世の苦しみから逃れることができる。

 それはそうなんでしょうが・・・。悟りを求めて、山に登って修行します。

2025年3月27日木曜日

多良岳~経ヶ岳縦走@怪鳥会(3)ヒメ・シャラ

 


 NHK高校講座 日本史で「平氏政権の登場」をやっていた。

https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/contents/resume/resume_0000000571.html?lib=on

 日本史上初の武家政権だったが、おごれるものは久しからず、あっけなく歴史から姿を消してしまった。

 「平家物語」は有名な冒頭、平家の運命を沙羅双樹の花の色にたとえている。

 沙羅双樹の花は、朝に開花し夕方には落下する一日花。はかない。無常。まさしく平家の運命のようである。

 日本の寺院において沙羅の樹は、ナツツバキ(夏椿)をもってあてられている。ナツツバキは、読んで字のごとく、夏にツバキと似た花を咲かせる(ツバキの花期が冬~春であるのに対し)。 

 ただし、本場インドや中国の沙羅の樹は別物。これはやむを得ない。沙羅の樹の知識は日本の留学僧たちが持ち帰ったものだろう。

 いまでいえば彼らは宗教学の学生だったかもしれないが、生物学の学生ではない。中国でこれが沙羅の樹だよと学んだものを、日本のナツツバキと混同してしまったのかもしれない。

 ヒメシャラは、ヒメ・シャラである。ナツツバキの花より小ぶりな花を咲かせる。よってヒメ・シャラである。いまどきこのような命名をすると、男女平等理念との整合性を指摘されそうだ。

 考えすぎかもしれないが、植物界における接頭辞には注意が必要だ。カラスザンショウ・カラスウリとか、イヌビワ・イヌマキとか。カラスやイヌなどの接頭辞がつくものは、本物に似ているが劣ったもの、人間のものではないというニュアンスが含まれているから。

 沙羅、あるいは姫沙羅は、夏に花を咲かせるぐらいだから、落葉広葉樹・夏緑樹である。いまは葉を落としている。他の木々が暗色であるのに、ひとり褐色系で、しかもお肌つるつる。花がない季節でも目立つ。

 幹のお肌がつるつるであるところはサルスベリやリョウブにも似ている。この樹をサルスベリと呼ぶ地方もあるようだ。

 夏には花を咲かせるのであるが、実は花を見つけるのはむずかしい。高木であるし、夏には葉が茂っているから。落花をみて気づくことが多い。

 ナツツバキの花言葉は、「愛らしさ」「はかない美しさ」「哀愁」。

2025年3月26日水曜日

多良岳~経ヶ岳縦走@怪鳥会(2)経ヶ岳

 

 多良岳山頂から経ヶ岳山頂をめざす。もったいないが、まずはくだらなければならない。残雪がわずかに残る斜面を慎重にくだっていく。


 金泉寺。HPによると

 金泉寺は、空海が平安時代の初めころ行基菩薩の遺跡を訪ね、ここに錫を留め山頂よりやや下った西側の清水のこんこんと湧き出る所に、身の丈四尺余りの不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。・・・

 全国にある弘法大師伝説にそっくりである。島原にちかい場所柄か、キリシタン教徒の焼き打ちに遭ったなどと物騒な来歴も書かれている。


 金泉寺の横には山小屋もある。営業中。Tシャツなど販売していた。中で数人が食事をしていた。

 われわれは小屋の外で昼食にした。ちょうどよい気候である。


 金泉寺前のウバユリ。種をとばした跡。枯れても趣がある。

 金泉寺からは多良岳と西岳の稜線を乗り越して、西の越の斜面をくだる。立派なヒメシャラが急斜面で頑張っている。


 さらにくだると、やや小ぶりながら奇異な枝振りのヒメシャラ。根方の土が浸食された結果だろうか。

 ここらあたりからはトラバース道(巻き道)となる。


 西岳の東北斜面の岩場。氷柱がさがっている。 


 笹ヶ岳、中山峠を越えて急斜面を登ると、経ヶ岳山頂である。山頂付近のマンサク。


 山頂から多良岳方面をのぞむ。


 下山中、目をひいた。アオダモの蕾だろうか。

 こんかい、怪鳥会初参加の女性弁護士もまじえての山行。新しい風が春を予感させた。

2025年3月25日火曜日

多良岳~経ヶ岳縦走@怪鳥会(1)多良岳

 

 多良岳~経ヶ岳を怪鳥会のメンバーで縦走した。

 多良岳~経ヶ岳は、佐賀と長崎の県境に位置する。多良岳は標高996m、経が岳は1076m。両者を含む大きな成層火山が著しく開析して現在の姿となったという。それだけ古い山の形だ。

 登山口の中山キャンプ場を出発。谷が常緑樹林帯から落葉樹林帯に変わるころ、左手に山頂が見えた。春まだき、落葉樹は裸のままである。足もとには火山岩がごろごろ。安山岩だろうか。


 多良岳はかって修験の山だった。山中にはいまなお宗教的な雰囲気が色濃い。修験道は山岳宗教に神道と仏教を混淆したものだから、鳥居もある。


 役小角。または役行者。修験道の開祖。鬼神を使役できたという。九州では関西ほど馴染みがない。


 修験道は仏教も混淆しているから、仏像もここかしこにあった。苔むしていてありがたみを感じる。


 山頂には多良嶽神社上宮の石の祠がある。多良岳大権現がまつられている。権現というのは修験道的。仏・菩薩が仮の姿をとって現れたもの。



 この時期の目当てはマンサクの花。他の花々に先駆けて、まず咲く。まず咲くがなまってマンサク。奇妙な花のかたちだが、春を呼んでいるようで可憐。

2025年3月24日月曜日

ある和解金被請求事件(解決)

 

 示談金として820万円を請求されていた裁判が和解金200万円を支払うという条件で解決した。

 依頼人は、ある中小企業の雇われ社長Y。請求者は、同社の実質的なオーナーX。Yが会社の自動車を無免許で運転して交通事故を起こし、全損扱いとなった。

 自動車代120万円は支払い済み。それ以外に会社が機能停止となり、それによる損害が820万円にのぼったと主張され、その損害額を支払う旨の示談が成立していた。

 物損のばあい、自動車買換代のほか、営業車の場合には休車損が認められる。しかしそれは相当なる買換期間中もしくは修理期間に限られる。

 820万円もの休車損が発生したとは思えない。実質的なオーナーなのであるから、直ちに代表者を交替させ、損害を最小限にすることもできたはずである。

 しかし本件では示談が成立していることが痛い。当方の最大の弱点である。示談成立前に弁護士に相談・依頼すべきであった。

 しかし、会社の損害について、実質的なオーナーは請求できるのか。取締役が第三者に加えた損害賠償については、会社法429条に定めがある。本件ではその要件を充たすのか。激しく争った。

 示談成立もXの強迫によるものであり取り消す、あるいは、820万円もの請求は公序良俗に反するものである。などなどと争った。

 結果、上記のとおり200万円で和解が成立した。10万円ずつ20回の分割払いである。まずまずの解決だと思う。

2025年3月21日金曜日

馬籠宿~岐阜・犬山~湖北の旅(7)湖北の十一面観音めぐり

 

 最終日は湖北へ。初日が島崎藤村の『夜明け前』、2日目が司馬遼太郎の『国盗り物語』とすれば、最終日は井上靖の『星と祭』の旅である。

 会社社長の架山は琵琶湖の遭難事故で、大切な娘を失う。娘の遺体は七年経っても上がってこない。死を受け入れられない架山は、それを「生と死」の間に存在する〝もがり”の期間と捉え、心の中で娘と対話を始める。ある日、娘とともに死んだ青年の父親・大三浦に誘われ、琵琶湖近くの古寺で十一面観音に出会う・・・(グーグル・ブックより)。

 木之本の街中を抜け、田舎道を歩く。春まだき、雪が野山をおおっている。前方にようやく己高山(こだかみやま、923m)が見えてきた。同山は近江国の鬼門(東北方角)にあたる。

 山城国(京都)の鬼門にあたる比叡山に延暦寺があるように、己高山には古代・中世と山岳信仰の霊地があった。


 山上にあった鶏足寺の伽藍は消失し廃寺になっている。仏像類は麓の己高閣(ここうかく)及び世代閣(よしろかく)に収蔵され、地元住民の手により守られている。

 本尊の十一面観音立像は己高閣に、薬師如来立像は世代閣に安置されている。輪番と思われる地元のおじさんが訥々と解説する。京都の喧噪とは異なる静かな空間に立つ仏たちは宗教の原点を考えさせる。

 このあと鶏足寺(上記山上のものとは別)を経て、石道寺へ。井上靖が村の娘にたとえた十一面観音がまつられている。これまた地元の人たちによって守られている。



 渡岸寺観音堂。ここの十一面観音立像は国宝である。横からも後ろからも拝することができる。十一面をくまなく拝見するには横からも後ろからも拝することが必要。やはり静謐。

 https://douganji-kannon.sakura.ne.jp/custom3.html

 前日の犬山城、岐阜城とは真逆の空気感。

 このあたりは織田・徳川と浅井・朝倉の両軍が激闘した姉川に近い。戦争の惨禍のなか、村人たちは必死になって観音たちをお守りしたという。

2025年3月19日水曜日

馬籠宿~岐阜・犬山~湖北の旅(6)岐阜城・後

 

 岐阜城天守閣。残念ながら復興天守である。それでも威風堂々。


 岐阜駅前にあった信長像が装着していた鎧兜。信長の西欧趣味とあいまって美しい。

 戦国大名として苛烈な性格が強調されるが、ルイス・フロイスを歓待した記録があるとして、おもてなし上手な面が強調されていた。インバウンド時代の要請に、さすがの信長さまも逆らえない。


 最上階から南をのぞむ。伊勢湾に注ぐ木曽川が光っている。


 木曽川を上流へたどると、さきほどの犬山と犬山城。手前の山の山頂のやや上方。


 犬山城からやや南方に、小牧山。写真上方の中央やや左より。小牧山は、信長が美濃攻略の前線基地としたところであり、後年、秀吉と家康が小牧・長久手の戦いを演じたところである。

 濃尾平野は、かくて彼我の居城どうしが目視できる位置関係にあったことがよく分かる。


 岐阜駅方面。長良川がうねって流れていく。


 北をのぞむ。手前は長楽橋。


 奥には能郷白山が白い雪をかぶっている。1617m。日本二百名山。


 長良川上流。


 奥には北アルプス南部、おそらく乗鞍岳。

2025年3月18日火曜日

馬籠宿~岐阜・犬山~湖北の旅(5)岐阜城・前

 

 岐阜といえば信長。いまも駅前に燦然と輝いて立っている。イケメンで知られる。西洋風の甲冑を身によろいマントをひるがえし、右手に鉄砲を携えている。役所広司が演じた信長がいちばん好みである。

 それまで稲葉山城の城下は井口を呼ばれ、斎藤道三、齋藤義龍、齋藤龍興が支配していた。「三代目が会社を潰す」の理どおり、龍興を信長が攻略し、岐阜とあらためた。

 岐阜の岐は、古代中国の「岐山」から。殷から周王朝になる時、この山に鳳凰が舞い降りたという。岐阜の阜は、おなじく「曲阜」から。孔子が生まれた儒学発症の地である。信長の天下布武の礎となるにふさわしい命名である。


 金華山(稲葉山)329m。山頂に岐阜城があり、天然の要害をなしている。信長が攻略に苦労したはずだ。


 おや、またおあいしましたね。こちらは高知城でお会いした板垣退助。ここで暴漢に襲われ、例の「板垣死すとも自由は・・」と述べたという。


 金華山には10もの登山路があるという。山頂まで約1時間。残念ながら時間の制約からロープウェイを利用した。北をのぞむと長良川が美しく流れていた。

 郡上市の大日ヶ岳(1709m、日本二百名山)に発し、揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ。木曽三川の一つ。日本三大清流の一つでもある。

2025年3月17日月曜日

馬籠宿~岐阜・犬山~湖北の旅(4)からくりミュージアム、有楽苑

 

 犬山城を出て南へすこし下ると、城とまちミュージアムとからくりミュージアムが並んでいる。

 城とまちミュージアムは文字どおり犬山城と城下の歴史と文化がよく分かる。

 からくりミュージアムはからくり人形を展示。著名なのは茶運び人形。茶碗をお盆に載せてやると、ゼンマイやカムなどの仕掛けで自動で動く。ロボットの先駆といわれる。


 からくりミュージアムの正式名称は、からくりミュージアム玉屋庄兵衛工房。庄兵衛さんが人形づくりを実演されている。


 茶運び人形から発展した三番叟。顔面が変身する。

 

 からくり人形は人形浄瑠璃にも取り入れられた。

 犬山祭の車山にもからくりが置かれている。 


 城から東に向かうと日本庭園 有楽苑。有楽(うらく)は織田有楽斎の名から。といっても、戦国期からあるわけではなく、昭和になって堀口捨己の監修により築造された。


 国宝茶室「如庵」。京都山崎妙喜庵の待庵、大徳寺龍光院の密庵とともに、現存する国宝茶席三名席の1つ。

 有楽斎は、信長の弟。武勇はともかく茶の湯の才にすぐれ、京都建仁寺に如庵を創建したのがこの茶室。数奇な運命を経て名鉄の所有となった(英語・独語の教師をしていたというボランティアガイドさんの解説)。

 庭園内の他の施設も同じ。歴史の数奇さを思う。